【閑話】アニオタの初恋《中》
男女七歳にして席を同じくせず。
これを言った孔子は男女の真理をついていると、常春はその日初めて思った。
——まだ十三歳である自分は子供だと思っていたが、その夜、自分も所詮「男」なのだという事実を容赦無く突きつけられた。
出会いと同時に恋人同士となり、そこから初デートをし、嬉しく楽しく遊び回った怒涛の一日の、夜。
常春は、レーナが現在宿泊しているという、安いモーテルの一部屋へと招かれた。
部屋に入り、硬いベッドの上に隣り合わせで座ったまま沈黙。
話す話題が思いつかず、ただただ緊張した沈黙ばかりが続く状況に耐えかね、助けを求めるような気持ちで隣のレーナへ視線を移すと、自分を真っ直ぐ見つめている彼女の顔が視界を占め、鼓動が甘く跳ねた。
湖面のように揺れる碧眼、ほんのり上気した白い頬、いつもより瑞々しく見える唇。
その表情は微笑だが、デート中さんざん見せたような気さくでさっぱりした笑みではなく、もっとしっとりしていて、艶美な「女」のソレであった。
気が付くと、常春は引き寄せられるように身を乗り出し、唇を重ねていた。レーナも、一切抵抗を見せなかった。
ついばむようなキスから吸い合うようなキスへ移行していくにつれて、互いの体の芯に宿る甘やかな熱が大きくなっていく。
その熱は、やがて暑苦しい衣服から二人の素肌を解き放ち、さらに深い繋がりを欲させた。
二人は一矢纏わぬ姿で燃え合い、溶け合った。
複雑な思考など一切捨て去り、身に宿る衝動と欲望のまま、素肌の感触と熱を確かめ合った。
時に激しく、時に緩やかに情交を重ね、スマートフォンの目覚まし時計が鳴る音で、お互いようやく我に返った。
安っぽいアルミブラインドのプリーツから差しこむ細い朝日に照らされながら、裸体の男女は仰向けで手を繋ぎ合っていた。
「……どうだった、常春?」
甘みの強いささやきで、レーナがたずねてくる。
率直な感想は「知らない自分を知った」だ。
この硬いベッドの上。ここで我を忘れて獣のようにレーナと絡み合ったことは、まだ記憶に鮮明である。自分の内に、女体を欲する動物的な本能がちゃんと備わっていたことを嫌という程思い知らされ、常春は多少ショックを受けていた。
しかし、それを言うのがなんか恥ずかしくて、ベッドシーツに
「経験豊富だと思ってたから、意外だった」
「もー。あたしそんな尻軽じゃないわよ。今まで男と寝たことなんか無いし、常春とこうなったのだって勢いとか自棄とかじゃないからねっ」
「ごめん」
「本当よ? 分かってる?」
「分かってるよ。大丈夫」
「……あーあ、すっかり落ち着き払ったオトコになっちゃって。数時間前の純真無垢な常春くんはどこ行っちゃったのかなぁ。最初はあんなにおっかなびっくりで可愛かったのに、だんだん男らしくなって、逆にあたしの方が主導権奪われてされるがままになっちゃったり…………もう常春にお姉さん面、できなくなっちゃったじゃないの」
「ごめん」
「ふふ、いーのっ。その分、男になった常春に甘えさせてもらうからっ」
そうしなだれかかるように身を寄せてくるレーナ。滑らかな素肌の感触とほのかな体温、そしてレーナの甘い体臭が優しく押し寄せ、常春の気持ちを安らがせる。
そのまま、何もしないで時間だけが過ぎていく。
寝ているベッドも決してたいそうなものではない。けれどレーナと寄り添っているだけで、まるで巨大な綿飴の上で寝ているような、そんなふんわりとした心地良さを感じられた。
時間の感覚さえ麻痺していた。
なのでレーナが再び口を開いたのは、何分後か、あるいは何時間後か、もはや見当がつかなかった。
「ねぇ、常春……あなたは、どうしてこんな場所で旅をしているの? あなたくらいの歳なら、学校で勉強しているのが普通なんじゃないの?」
「……
「どうして?」
「『日常』と『非日常』の存在を知るため…………自分が普段享受してる『日常』が、いかに得難く、いかに脆いものなのかを痛感するためだよ。『日常』を明確に知るには、『非日常』を見ないといけない。裏を知ることで、初めて表が分かる。まばゆく差す光の裏には、それに比例する暗い影がある…………まあ、全部
「……なんだか、陰陽の思想みたい。中国武術をやってる常春らしいかもね」
レーナは常春の手を握り、しみじみと語った。
「常春、あたしが何の武術をやってるのか……分かる?」
「うん。あれ、柔術でしょ」
「大正解。さすがあたしの恋人ね」
レーナは頬に軽くキスをしてから、再び語った。
「……柔術ってね、身体の中心に確固たる「軸」を作るの。それと同じように——あたしは自分という魂に確固たる「軸」を持ちたい。そして、その「軸」ある魂を守るための「剣」が欲しい」
やや恥ずかしそうにはにかむレーナ。
「あたしの家ってちょっと特殊でね、世間じゃ「マフィア」って呼ばれてるような家なの。そんなに大きい組織じゃないんだけど、マフィア。だから……周囲からの扱いもちょっと特殊だった。家の者からはお嬢様と呼ばれておだてられて、カタギの子達からはよそよそしく接されて……生まれてからずっと、自分の人生に「明」と「暗」が強く感じられた。それでいつか、周囲が期待した通りの「あたし」になってしまうような……そんな気がしたの」
「レーナ……」
「話がちょっと変わるけど……ロシア人は愛国心が強いって言われてるの。けど、それは強要されているから。アメリカの経済制裁に反発する形で、政府は国内の一体感を作り出すために「引き締め」を行っているの。大統領という名の
レーナの握る手の力が強まった。
「——でも、そんなの冗談じゃない。誰かの認識に流されるままに生き方を決めるなんて、魂に「軸」の無い、弱い人間のすることよ。あたしは、そんな人間にはなりたくない。自分の魂に「軸」を持ちたい。それに対する文句や風当たりも跳ね除けられる「剣」が欲しい。そう思ってた頃にね……見つけたのよ。宮本武蔵を主人公にした、日本の昔の小説を」
レーナの声に、瑞々しさが宿った。
「——読んで、ものすごくときめいた。こんな生き方があるんだなって。家を捨てて、甘えも捨てて、ただ手に握る剣だけを頼りに生きていく……あたしも、こんな風に生きてみたいと思ったわ。……笑っちゃうでしょ? 今時、宮本武蔵に憧れて武者修行の旅だなんて。子供みたい。でも、あたしは本気」
その紺碧色の瞳には、鏡のようにモーテルの天井が映っていた。しかしその眼は、その天井を超えてはるか彼方にある「何か」を見据えていた。
「あたしの
「……レーナ」
「そっちの方が、ウォッカで鬱憤を晴らすよりよっぽど健全だと思わない?」
常春へ向き、茶目っ気たっぷりにウインクする。いつもの彼女に戻っていた。
「……レーナなら、きっとできるよ」
「ふふっ……ありがと。常春」
猫がじゃれるように、頬をこすりつけてくるレーナ。
その様子に、愛おしさとこそばゆさ、そして愛欲が再燃した。
「レーナ」
「なーに、常春?」
「……愛してる」
「……うん。あたしもよ」
そうして二人はまた唇を重ねる。
軽くついばむようなキスから、舌と唾液を絡ませるような深く長いキスへと移行していく。
二人は再び、熱く心身を溶け合わせたのだった。
それから二人は、仲睦まじく日々を過ごした。甘い時間を共有した。
ほとんどの時間、まるで接着剤でくっつけ合ったかのように互いの手を繋ぎっぱなしだった。手だけではなく、唇も、体も、頻繁に重ね合った。
ただただ、幸せだった。
ずっとずっと、一緒にいたい。このまま一生、片時も離れず手を繋いだままでいたい。
間違いなく、伊勢志摩常春という人間の人生の中で、最高に幸福な時間だった。
……しかし。
レーナとの夢のような日々は、たった七日で幕を閉じることになる。
この上なく残酷な形で。
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