アニオタ、SNS社会に助けられる
その入り口である両開き扉には「
けれど凌霄は当然のごとく両開き扉を開き、中へ足を踏み入れていく。常春もそれに続く。
「——老師。連れてまいりました」
凌霄は
白い詰襟の中華装を見に纏う、一人の老夫であった。
中肉中背のように見えて、どこか体の中心が詰まった感じのする、独特な体格。
やや後退した髪は一本残らず真っ白で、顔つきも老い落ち着いた印象。しかし、大きめのレンズのサングラスの下にある細い瞳は、静かで暗い殺気のようなものを常にたたえている。
普通の人から見れば、ただの年寄り。
しかし玄人から見れば、決して侮ってはならない感じのする、海千山千の老夫。
「ご無沙汰しています、
常春もまた拱手し、挨拶をする。
「久しいな、常春。さぁ、こちらへいらっしゃい」
その老夫——
テーブルを挟んで秀剣と対面する形で常春が座る。
秀剣は立っている凌霄へ向くと、穏やかに命じた。
「
「御意」
凌霄は頷くと、店のカウンターの奥へと消えていった。
秀剣は常春へ向くと、苦笑と申し訳なさを等量含んだ口調で言った。
「いつもすまないね。……ここへ来る前、また凌霄と遊んでくれていたのだろう?」
「お見通しでしたか」
「迷惑なら、言ってやめさせてあげようか?」
「いえ。僕も楽しんでいますから。日に日に成長していくのを見るのが面白いですし、それに……劉さんの持つ『
——『至熙菜館』は、ただの中華飯店ではない。
この店の地下には、大きな
正統派中国伝統武術伝承保護団体『
それがこの飯店のもう一つの姿である。
——六十年代の人民中国で、文化大革命という政治闘争が起きた。
「古い封建文化を排して、新たな社会主義文化を作り上げよう」というのが表向きのスローガンだったが、実際は失脚した初代国家主席が自らの復権のために大衆を煽るための政治闘争であった。
これにより、さまざまな古い中華文化が「封建的」という理由だけで否定され、扇動された大衆に弾圧された。仏閣や仏像が破壊され、清国時代の貴族の末裔が吊し上げられ、多くの知識人が強制労働させられて過労死した。
その弾圧の対象には、中国伝統武術も含まれていた。
儒教的な師弟関係を重んじる伝統武術は、まさに「封建主義」の代表格だった。さらに義和団事件という、一つの武術門派が反動勢力と化した前例があったことも手伝って、伝統武術もまた槍玉に挙げられた。
十年の時を経て文革は終結したが、伝統武術の受けた被害は壊滅的で、多くの貴重な武術が失伝した。
……劉秀剣も、文革の被害者であった。
文革の最中に日本へ逃げ延びた秀剣は、決めた。敬愛する師から賜わった優れた武術の数々を次の世代に伝え、伝承を存続させようと。
『正伝聯盟』は、そのために作られた団体だった。
「伝承を守る」という活動目的ゆえに門弟を厳選したが、幸運にもたくさんの良き弟子に恵まれ、活動開始から数十年が経過した現在では海外に支部をいくつか持つほどにまで成長した。
「——お持ちしました。どうぞお飲みください」
戻ってきた凌霄が、湯気を漏らす急須と二つの茶杯を盆からテーブルへ移した。
「おお、ありがとう」
「ありがとうございます」
秀剣、常春が口々に礼を告げる。
前者には微笑を、後者には仏頂面を向ける凌霄。
常春は苦笑した。
——凌霄も『正伝聯盟』の会員の一人、つまり秀剣の弟子である。
義気が強く、気性が激しく、常に上を目指さんとする生来の性質を見抜いた秀剣は、彼に相応しい武術として八極拳と
熱心な鍛錬の結果、若くして正伝聯盟
そんな彼と常春が出会ったのは、常春が中学三年生の頃だ。
日本人のくせに
凌霄は中国伝統武術にプライドを持っていた。中国武術は中国人こそが一番上手く扱えるものだ。思考力が低く、地道な
常春も彼の意見に
それほど強いと言うのならば俺と立ち合え。凌霄は常春にそう試合を持ちかけた。
結果——凌霄の完敗。何度突っ込もうと、常春に瞬時に制圧された。
それ以来である。凌霄が常春に会うたび、勝負を仕掛けてくるようになったのは。
秀剣は急須の中の茶を自分と常春の杯に注ぐ。竹林を連想させる爽やかな香気を楽しんでから、二人は高山茶を飲んだ。
杯の中身を半分ほど減らすと、秀剣は本題とばかりに口を開いた。
「——今日、ここへ君を呼び出した理由は、他でも無い……現在の武久路の情勢について、話しておくためだ」
常春は頷く。
「これは一般人でも知っている事だが……『
再び頷く。
「『唯蓮会』は、現在では我々『正伝聯盟』に対して危害は加えていないし、その素振りも見せていない。これは眼中に入っていないのではなく、我々の力を冷静に分析した上で避けていると考えて良いだろう。……賢明な判断である。我々を敵に回すということは、この武久路に在住している中国人全員を敵に回すことと同義だ。組織規模では負けていても、我らの「繋がり」は寄せ集めの彼らのソレよりも強固。身構える心配はいらないと私は見ているよ。……少なくとも、今のところは」
淡々と語る秀剣。
——この武久路には外国人も多く在住しているが、その中で最も多数派なのが中国人だ。
中国人の数だけ、各々の在日事情が存在する。
ただ単純に日本文化に惚れ込んだ者、ビジネスのために住んでいる者、国際結婚で日本に移り住んだ者、大陸でやらかしたせいで中国政府にマークされてしまった者……その他もろもろ。
が、異邦人の中で最多とは言っても、それでも日本人の方が圧倒的に比率が多いので、中国人とて立派な
マイノリティであるがゆえに——「繋がり」が強い。
中国人同士のネットワークや団結力は、古くから異国の地でこそ発揮されるものだ。……近代、異国に住んでいた
この武久路の中国人達も、昔から同胞同士の相互扶助によって生きてきた。その絆は極めて強固。
そして、この劉秀剣は、そんな武久路の中国人の「顔役」のような存在でもあった。もしも彼に危害を加えられれば、中国人達は間違いなく彼のために闘うだろう。
……さらに、武久路の中国人達の驚くべき点は、それだけにとどまらない。
「君から依頼を受けて調べた
秀剣に呼ばれ、凌霄は「御意」と言ってから、スマホを開いてそこの文章をそらんじ始めた。
「——安西蓮。年齢は今年で十七歳。父親は候補者があまりに多いため不明。母親の
あまりにも詳細な情報がずらりと出てきた。
——武久路の中国人による「情報網」のなせる技だ。
同胞同士の「繋がり」が強いゆえに、武久路の中国人達は、脳を同じくした無数の「目」や「耳」になり得る。
その「目」と「耳」は武久路のいたるところに存在し、そこから見たあらゆる情報を同胞同士で共有できる。
中国人の手を借りればこの武久路におけるほとんどの情報は手に入る、と言っても過言ではないレベルの、高度な「情報網」。
それが、『正伝聯盟』を中心とした武久路在住華人たちの、強さの秘密だった。
「それともう一つ、最近この武久路で出回っている「危険物」について、話しておこうか」
秀剣が言うと、凌霄は示し合わせたようにスマホを操作し、一枚の写真を見せた。
チャック袋に入った紫色の粉。ベーキングパウダーを紫色に染めたような。
「これは……?」
常春の疑問に、凌霄は心底
「『ウロボロス』という、新型のドラッグだそうだ。毒性は強くないが、依存性が極めて高く、一度摂取すればなかなかやめられなくなる。一回使っただけで常連客の一丁上がり。おまけにまだ警察からは認知されていない。……金の亡者にとってこれほど素晴らしい商売はあるまい」
「……これを売って暴利を貪っている者が、この武久路にいると」
秀剣が頷く。
「おまけに、売っている組織もバラバラだ。『ウロボロス』の売買組織は、武久路の各地で興っては消え、興っては消えを繰り返していて、それらの構成員もまたバラバラの顔ぶれ。まるで霧のように標的が定まらない。我らの情報網を使っても、いまだに実態が掴めていないのが現状」
「これも『唯蓮会』の仕業である、という線は?」
「それは考えにくい。なぜなら『ウロボロス』の販売拠点を潰して回っているのは、他ならぬ『唯蓮会』なのだから。それも、会長である安西蓮が直々に乗り込んで、皆殺しにしているそうだ。中には銃器で厳重に武装した組織もいたそうだが、それも無傷で
常春はかぶりを振った。その意見は健全なものだ。なにしろ、蓮も自分もまだ十七歳なのだから。
凌霄が話を軌道修正した。
「今のところ、武久路在住華人でこの薬にハマった奴はいない。餌食になっているのは主に武久路の若者だ。特に中高生の男女。貴様も学校で注意喚起でもしておくんだな」
「ええ。停学期間が終わったら、そうします」
「えっ? 貴様停学していたのか? なぜ?」
「女の子を助けたら、「暴力はいけないー」って言われて、停学です」
「……さすがは日本の教育機関。女を助けて罰せられるとは。義侠心の欠片も無い」
「ですねー」
そこは常春も凌霄も意見が一致した。
「それと、今月から『ウロボロス』にハマった若い奴は、中毒になる寸前、きまって「ある人物」と交流していたそうだ。そいつと接触したのを境に、ほとんどが『ウロボロス』の
「ある人物?」
「こいつだ」
凌霄がスマホをフリックして、別の写真を見せる。
雑誌の1ページを撮ったものだ。大人っぽいメイクと衣装でめかし込まれた、常春と同い年くらいの女の子が写っている。
「——
「この人が『ウロボロス』を撒き散らしていると?」
「ここ数日で分かった情報なので、詳しい因果関係はまだ不明だ。しかし、無関係と切り捨てるには怪しすぎる。お前も用心しておけ」
「はい。ありがとうございます」
常春は一礼。それから茶杯へ口をつける。少し冷めてしまっているようなので、一気に飲み干した。
(牛久保理恵、か……)
気になったので、自分のスマホを開いてネット検索してみた。自分と同い年くらいの子が、薬物売買などという邪悪に首を突っ込んでいるかもしれないという事実が、少し悲しく、そして気になったのだ。……中学時代に紛争地域を旅して回っていた自分が言うのもあれだけど。
出てきた。検索順序トップに出てきたのは、彼女のSNSのアカウントだ。そこをタップ。
次の瞬間——常春は凍りついた。
「…………え」
三十分前にアップされたメッセージと、それに付属した写真。
『中学時代の友だちとなう♡』という平易な短文とともに貼られていたのは——牛久保理恵とツーショットで写った頼子の写真。
普通の人なら「微笑ましー」とか「人気読モは友だちもレベルたけー」程度の感想しか抱かないことだろう。
しかし、この牛久保理恵に関する「疑念」を得てしまっていた今の常春にとっては、これ以上ないほどの危機感を湧き上がらせるものだった。
「趙さん! 今、牛久保理恵がどこにいるのか、調べられますかっ!?」
思わず凌霄の袖に掴み掛かり、焦りの宿った懇願を訴える常春。
「な、何だ? いきなり何をそんな焦って——」
「いいから!! もう時間がないかもしれないんですっ!! 早くっ!!」
滅多に見られない常春の必死な態度に、凌霄は息を呑んで硬直していると、
「落ち着きなさい。一体何があったんだい?」
秀剣がそう声をかけてたしなめた。その声は落ち着いていつつも緩みが無く、本人の表情も普段通りに見えてサングラスの奥の瞳が光っていた。
自分の
秀剣の声が、厳しさを少し増した。
「……君の教え子か。分かった。今すぐ調べてみよう。——凌霄」
「御意」
凌霄はスマホをてきぱきと操作し始めた。……同じ武久路在住華人たちが集うチャットルームで、情報提供を呼びかけているのだ。
武久路の中国人を代表しているのは秀剣だが、コンピュータ関係のコミュニケーションはやはり若者である凌霄の方がいくらか上手い。
凌霄は鋭く常春へ向き、言った。
「
うん、と頷く秀剣。
「何をしているっ? 早く行け! 貴様の大事な教え子なんだろう!?」
鋭く突き離す言葉に、しかし常春は感謝を込めて拱手し、即座に店を出たのだった。
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書き溜め終了。
また書き溜めて連投しまっする。
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