確信

 スマホを耳元に常に添え、凌霄りょうしょうのもたらす情報を頼りに走りはじめて、およそ十分後。


 常春はとうとうゴールに辿り着いていた。


 白いタイルを外壁に張り巡らせた、三階建てのビルディング。


 在武久路ぶくろ華人たちの情報網に加え、極め付けは、そのビルの前に落ちていたエコバッグ。


 頼子のものだ。ここ最近、これに昼食の材料を入れてくる。


 この建物だ。間違いない。


 常春ははやる心臓を落ち着けながら、そのビル全体を見据えて……三階の窓ガラスが割れているのを見つけた。


 耳を澄ますと、ドタドタと複数人が暴れるような音がかすかに聞こえてくる。


 常春の長年のカンがささやいてくる。……おそらく、あの部屋だ、と。


 普段なら階段を使うところだが……いちいち正攻法で行くのはもどかしいし、時間の無駄だ。そもそも、玄関口は閉まっている可能性がある。


 常春は割れた三階窓の隣に伸びる雨樋あまどいを見とがめると、そこをよじ登る。


 三階の高さまで達すると、窓枠へと手を移す。片手で全身を支えてぶら下がったまま、もう片方の手で窓を横へ引いて開ける。


 全身のバネを使って勢いよく身を跳ねさせ、窓から部屋へと侵入。


「よりっ……」


 頼子、と叫びかけ、言葉が喉元で引っかかる。


 常春が想像していたのは、複数人で押さえつけられ、今にも悪魔の薬を無理やり吸わされそうになっている……いや、あるいはすでにであろう、頼子の姿。


 しかし、今、常春の眼前に広がる光景は、常春のいずれの想像をも超えるものだった。


 ——荒れて、埃の舞ったフローリング張りの室内。

 ——まばらにぐったり寝転がった男達。

 ——敵意と驚愕の混じった表情で、一律に一点を睨んで立つ六人の男。


 その六人の視線の先に、頼子はいた。


「よ……」


 今度こそ、声をかけようとして、またも失敗した。


 頼子の顔。


 明らかに殴られたのであろう痣を左頬に作り、鼻血の跡が顎まで伸びて固まっているのも、もちろん驚きといえば驚きだ。


 しかし、それよりも、


(——わらってる)


 今まで見せたことの無い表情を、浮かべていた。


 己の受けた痛みを、今なお抵抗の意思を持ち続ける六人を、すべて羽虫のごとしと嘲笑しているような、歪な笑み。


 そのような傲岸不遜な破顔を浮かべる人間を、常春はここ最近で一人見た。


 ——安西蓮。


 今の頼子は、蓮にそっくりだった。


 頼子が、悠然と踏み出す。


 六人の男達が、それに気圧されて一歩退く。……そう、のだ。ここ最近まで、荒事とほとんど無縁であったであろう、ごく普通の女子高生相手に。


 しかし、本人達はそれを認めたくないのか、怯みを殺意で無理やり潰し、一斉に頼子へ雪崩れ込んだ。


 頼子はそれに対し、弧を描くようにして後退。


 六人もそれを追いかけてきて……先頭の一人が前のめりに崩れた。


 転んだのだ。


 前のめりに傾く一人の顔面へ、まるで計算したようなタイミングで頼子の膝蹴りが命中した。ただでさえ危険な顔面への膝蹴りな上、倒れる勢いが上乗せされている。下手をすると命が危ない。


 頼子の表情に浮かぶ笑みが、さらに歪んだ。顔面が潰れる感触を楽しむように。


 彼女は倒れるその男から身を逃し、側面から迫っていた次の敵へと注意を向けた。


 むちゃくちゃに何度も振るわれる拳。頼子の細腕は円を描く動きでしなやかにそれらを捌いていき、やがて相手の『太陽穴たいようけつ』へと拳で殴りつけた。ボクシングではテンプルと呼ばれている、れっきとした急所だ。


 一瞬、男の目が虚ろになる。その一瞬に頼子はたがねを打ち込むように踏み込み、それとタイミングを一致させる形で正拳。


 それを受けた男は、吹っ飛ぶ事なくその場で崩れ落ちた。——頼子の拳に込められたけいが、男の体内へ余すところなく浸透したからだ。


 いや、それよりも。


(今の動き……今日教えた弾腿だんたい一路いちろの用法じゃないか)


 今日教えたばかりの動きのはずだ。


 しかし、今、頼子はその覚えたての動きを、まるで長年慣れ親しんだ動きのごとくこなしてみせた。


 それに、先ほどの発勁の精度は……


「調子ぶっこいてんじゃねぇぞアマぁ!!」


 後ろから迫った次の敵。頼子は一瞥もすることなく鋭く一歩後退し、それに肘の動きを合わせる。


 肘による発勁が突き刺さった途端、その男は一瞬硬直し、崩れ落ちた。頼子はそれを邪魔くさそうに振り払う。


 残りは三人。


 しかし、いずれも頼子へ向かってくる様子は無い。驚きに満ちた顔のまま、その場から動かない。


 頼子の実力を目にし、ただの小娘ではないということをようやく思い知ったらしい。


 常春もまた、彼らと同じ顔をしていた。


 ——あれは、本当に頼子なのか?


 柄の悪い男四人に絡まれ、反撃もままならなかったあの少女と、同一人物なのか?


 武術を学んだから? ——そんなわけはない。確かに多少の護身の助けにはなるだろうが、それでいきなり大の男複数人とあそこまで戦えるはずがない。まして、彼女は武術を習い始めてたったの七日なのだ。


 しかし、目の前の現実が、そうして理屈で納得することを許さない。


 いや、これは果たして、理屈で納得できない事なのだろうか……


(…………まさか)


 そこまで考えて、常春はある「答え」に着地した。


 「そう」であって欲しくない。


 しかし「そう」でないと、との辻褄が全く合わない。


(まさか、頼子は————)


 その先を考えようとした瞬間、ドタドタと忙しない足音が聞こえてきた。


 足音の主は、凌霄に見せられた写真に映っていた女——牛久保うしくぼ理恵りえだった。


 しかし、今の理恵には、雑誌で載っているような輝かしさや華やかさは欠片も残っていなかった。


 妖怪のように荒れて広がった髪。シワだらけの服。狂犬のごとき憤怒の形相。血走った目つき。唾液で泡立った口角。股の部分が濡れたタイトスカート……その両手に硬く握られたナイフ。


 理恵は、男達三人の前へ立ち、頼子を鋭い眼光で威嚇した。呼吸も荒い。


「——あ、まだ生きてたんだ? ションベン女。死んでてくれてよかったのに」


 頼子はそれを見てせせら笑った。まるで、両羽をむしりとられて無様に地を這う蝶を見るがごとき嘲弄。


 これは、本当に頼子なのか——常春は疑いたくなった。


 理恵の目が、さらにギラつきを増した。血を吐くような叫びを発した。


「宗方ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


「うるさいんだけど。あと、ションベン臭い」


「うるせぇのはお前だ宗方ぁっ!! ——あたしはずっとあんたが気に入らなかったんだっ!! ただ生まれつきちょっと可愛くて乳がデカかったってだけで、チヤホヤチヤホヤされやがって!! それを当然のことのように迷惑がりやがって!! あんたには分からないでしょうねっ!? 地味で暗くてブスだって理由でイジメられてた苦しみも、そのために頑張らざるを得なかった苦しみも、あんたにはちっとも分からないでしょうねっ!! 何もかも持ってるくせに!! 苦労知らずのくせにっ!! 高校になっても、またあたしの邪魔すんのかよぉっ!! ざっけんなぁっ!!」


「だから? あんたがイジメられてたかどうかなんて、今回の件には欠片も関係ないじゃん。あんたは、クソみたいな薬で、ウチの人生を、めちゃくちゃにしようとしたのよ。……悲劇のヒロイン気取って自分を正当化してんじゃないわよ。殺すわよションベン女」


 理恵の殺気が、弾けた。


「…………ぁぁぁぁあああああああああああああ!!」


 握ったナイフの切先を真っ直ぐ頼子へ向けながら、潰れたような奇声をあげて走ってきた。


 それに対し、あろうことか頼子は自ら歩んで向かっていった。

 

 互いが互いに近づけば、それだけ接するのが早くなる。


 あっと言う間に、


 それから、両者はしばらく沈黙。


 見ると、二人の間には、ぽたぽたと血の雫がしたたり落ちていた。


 刺された。


 常春はそう思ったが、すぐに違うと気づく。


 理恵の表情には怯えが浮かんでおり、頼子の表情には嘲笑が浮かんでいた。


 ナイフは頼子の体には届いておらず——頼子の右手が掴んで止めていた。血は、その右手から滴っていた。


 頼子は、まるでその痛みを愉しむように、嗤っていた。


「あ、ああ……あぁ」


 常軌を逸した頼子の対応に、刺しに行った側であるはずの理恵が戦慄する。ナイフを握る両手の力が弱まる。


 頼子はそのナイフを奪い取ると、片手の指先で鮮やかにそれを回し、逆手に握り直した。


 ナイフの切先は、理恵の首筋に真っ直ぐ向いていた。


「——


 それを振り下ろそうとした頼子の右腕を、


「やめろっ!」


 瞬時に詰め寄った常春が、掴んで止めた。


 右腕はなおも動こうと力を入れるが、頼子が振り向き、常春の顔を見た途端、嘘のように力を抜いた。


「…………とこ、はる?」


 まるで、深い夢から覚めたばかりのような、そんな寝ぼけた顔と声。


 ぱち、ぱち、と目を何度かしばたたかせ、常春の像を視界にハッキリ結んでから、キョロキョロと周囲を見回す。


「……


 その後に発したのは、そんな呆けた一言だった。


 視線が、今まさに奪ったナイフで刺そうとしていた理恵へと向く。


「ひっ!!」


 理恵はおぞましいものを見るような目を頼子へ向け、大きく後ずさる。


 残った三人の男も、どうしていいか分からず、棒立ちしているだけだ。……たとえ連中が何かしてきても、常春ならば瞬時に叩きのめせる。


 それよりも。


「どうして、ウチ……こんな……」


 頼子は血塗れになった己の手に握ったナイフを、震えた眼球で見ていた。まるで、己が今まさにしようとした所業を、己で信じられないかのように。


 すでに頼子は正気を取り戻している。


 しかしそれでも、常春は頼子の右腕を離す気になれなかった。


 今離したら、また理恵を刺しに行きそうで怖かったから。


 いや、


 あの三人も、皆殺しにしてしまうかもしれない。


 それを容易くやってのけるほどの実力が、今の頼子にはある。


(間違いない)


 もはや、疑いようはなかった。


 強靭な肉体、

 並外れた技の吸収力、

 瞬時に戦況を見極めて適切に対処してみせる戦闘センス、

 なにより……その獣じみた闘争本能。


 答えは、一つ。


(頼子は————『戈牙かがもの』だ)

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