アニオタ、日常系を語る

 練習を終えて帰宅する頼子よりこを見送ってから、常春とこはるが家へ帰ってきたのはちょうど十一時だった。


 常春はマンションの一室に住んでいた。正確には借りているのは父なのだが、父は基本的にアメリカの企業で働いていて日本にはいない。


 母親も、とっくの昔に親としての義務を放棄して行方知れず。なおかつ兄弟もいない。よって必然的に常春の一人暮らし状態であった。


 玄関の鍵を開け、隙間から中を覗き込み、気配を探る。……誰も侵入していないことを確認するとドアをくぐり、靴を脱いで家に上がった。


 廊下を真っ直ぐ進んで、リビングに入る。

 キッチンとリビングを隔てているカウンターには、つい最近購入した美少女フィギュアが乗っかっていた。日常系アニメの名作「お茶立て町のお茶目なお茶屋さん」の主人公「やぶきた」のフィギュアだ。顔立ちはもとより、和装の躍動やシワまでもが精巧に表現されている。おまけに着物の下からを覗き見れる。八万円した逸品だ。

 常春はそんなフィギュアを見てとキモい笑みを浮かべた。最近の習慣の一つである。


 ベランダ近くには大画面の液晶テレビ。

 それを乗せたテレビボードのガラス戸の中には、やぶきたの声を務める人気声優「仁科透華にしなとうか」のサイン入り色紙が飾られていた。

 とある一件で仁科透華と知り合って仲良くなり、一筆書いていただいた。今ではこうして家宝となっている。

 常春は死ぬ時、その色紙を一緒に棺に入れてもらおうと考えていた。一緒に燃えれば日常系アニメの世界に転生できるかもしれないし……などとバカみたいな事を思いながら。


 常春はリビングの端っこに立った。歩幅が肩幅で、なおかつ両足の位置が揃っているのを確認すると、垂直に腰を落とした。——『馬歩まほ』である。


 その『馬歩』のまま、常春は動かない。


 十秒経っても。

 一分経っても。

 二分経っても。

 十分経っても…………


 馬歩は一番大切な歩形だ。


 ゆえに、神経レベルで肉体に覚え込ませなければならない。


 常春が行なっている馬歩の長時間維持は、それを達成するための修行法だ。


 長時間馬歩を維持することによって、疲労の苦痛によって神経に馬歩の形を覚えさせるのだ。人は痛みを伴って覚えたことはなかなか忘れなくなる。


 なおかつ、足の強靭さを養う。中国武術の力の源は足だ。足腰の強さが威力を作り出す。


 常春はこの修行で馬歩を一時間は維持できるが、頼子にいきなりそんなには無理なので、短い時間をやらせた。それでも初めてで二分も出来たのだから大したものだ。


 伝統武術とは派手で格好の良いものではない。


 ひたすら地味な修行の積み重ねだ。


 それを自分にできる限界範囲で繰り返し積み重ね、その限界範囲を地道に広げていける人間だけが、伝統武術で大成することができる。


 ……「これをやれば万事解決!」といった理屈に無批判で飛びつきたがる、一発逆転思考な今の日本人には向いていないかもしれない。


 あっという間に一時間が経過。常春はゆっくりと腰を上げる。すでにその顔は汗でまみれていた。


 常春はシャワーを浴びて着替えた。その格好はまたしてもアニメキャラTシャツにジャージズボン。


 リビングのソファに座り、テーブルに乗ったリモコンを操作する。テレビと、テレビボードの中に収まっているDVDプレイヤーの電源を入れる。


 ハードディスク中のデータを見る。昨日深夜に録画予約しておいた日常系アニメ「橋の下の橋下さん」がきちんと保存されていた。


(そろそろかな……)


 そんな事を考えながら、録画データを再生しようとした瞬間、呼び鈴が鳴った。


 リモコンをテーブルに置き、玄関のドアの覗き穴から外を視ると、そこにはが立っていた。


「頼子、いらっしゃい」


「う、うん」


 ドア越しに頼子の声。少し緊張した様子。


 頼子の装いは、練習時とは様変わりしていた。ゆったりした春物のチュニックセーターにぴったりとしたジーンズという、簡素でありつつも頼子の魅力を出し過ぎない程度に引き立てている装い。


 彼女の手には、大きめのエコバッグ。中には袋詰めされた里芋やらレンコンやらといった根菜類が入っていた。スーパーで買ったものだろう。


「ほんとに作ってくれるの? お昼ご飯」


「そ、そういう約束じゃん……」


 そう。実は彼女に、昼食を作ってもらうことになっているのだ。買い物袋の中にはその材料が入っている。


 常春が頼んだのではない。頼子が率先して申し出てくれたのだ。


「もっかい言うけど……、みたいなものだから。それに…………常春、昨日「美味しい」って言ってくれたもん。ウチの煮物」


「……うん。美味しかったです。だから今日もお願いします」


 頼子は恥ずかしそうに唇を尖らせ、「……ん」と頷く。


 常春はドアを開け、頼子を中へ招き入れる。……シャンプーの香気がふんわりと漂ってきた。シャワーを浴びてきたのだろう。


 靴を脱いで家に上がる頼子。玄関の三和土たたきには二人分の靴。……二人分?


 そこでふと「しまった」と常春は己の至らなさを自覚した。


「あ、ごめん頼子……」


「え、なに常春、謝っちゃって」


「今この家……。ごめん、言い忘れてた。その……嫌だったら、帰ってもいいよ」


 その意味を察したであろう頼子が、息を呑んだ。顔が少し赤らむ。


 しかし、すぐにおずおずした低い声が返ってきた。


「……別に、いい。あんたがそういう男じゃないってことは、なんとなく分かってるから」


「えぇ……」


「…………ああもう! いいから早く中に入れなさいよばかっ。おじゃまします!」


 やけっぱちのようにずんずん奥へ進んでいく頼子。まぁ、彼女がいいと言うなら別にいいか……


 リビングまで来ると、頼子は手に持っていたエコバッグをカウンターに置いた。同じくその上に飾ってある「やぶきたフィギュア」にジトッとした一瞥いちべつを送ってから、壁に掛けられたアナログ時計を見る。昼十二時まで残り五、六分。


 ちょうど良い時間帯だ。


「あ、調味料の類は下の戸に全部入ってるから。好きに使ってよ。包丁は下の戸の一枚目の裏側に納まってるから。あと、スライサーの類は引き出しの一番上にあるから」


「うん。ありがと」


「あと、僕これから録画予約したアニメ観ようとしてたところなんだけど、観ててもいい?」


「いいけど」


「あはは、なんか夫婦みたいだね。この会話」


「もぉぉ————————っ!!」


 頼子が包丁を掲げて真っ赤になって怒り出した!


 ちょっとからかいすぎたと思った常春が苦笑混じりに「ごめんごめん」と謝ると、頼子は不貞腐れたように顔を背け、しかし料理には普通に取り掛かり始めた。


 言われた通り、常春は録画しておいた「橋の下の橋下さん」を視聴し始めた。


 引っ込み思案でコミュ障な女の子が、橋の下にいる地縛霊「橋下さん」との交流を通じ、友達を少しずつ増やしていくという日常系アニメ。日常系らしいおっとりぽやぽやな展開を繰り返しつつ、その中で「橋下さん」の前世や死因といった謎にも少しずつ言及していくという伏線要素も織り交ぜてある。


「……常春って、ホントにオタクだったんだね」


 観ている途中、料理中である頼子が話しかけてきた。


「どうしたの急に?」


「いや……ウチさ、常春のばっかり見てきたから。めちゃくちゃ強かったり、ギャング相手でもビビんなかったり、怒ると大人が引くくらい怖かったり……昨日、隣で怒ってる常春見てて、心臓止まるかと思ったもん。だから、こういう「普通の高校生」っぽい常春見てると、逆にすごい違和感感じちゃって」


「違和感?」


「うん。武術が強くて、ギャングとも平気でケンカする常春。今みたいにアニメが好きな常春。——なんか、チグハグで矛盾してるじゃん。いったいって……そう、思っただけ」


 それから、頼子は何も言わなくなり、まな板を包丁で打つ音だけを鳴らす。音のリズムの一定さからして、かなり台所に慣れていると容易に分かる。


「どっちも僕だよ。——蟷螂拳をやっている僕も。日常系アニメが好きな僕も。等しく「伊勢志摩いせしま常春とこはる」だ」


 液晶テレビの大画面に映っているのは、可愛い女の子達が笑いながら何かに取り組んでいる光景。


 それを見つめる常春の目は、強い憧憬が宿っていた。


「前にも言ったけど、日常系アニメの世界はさ、みんな平和なんだよ。争いも人死にも無い。ただただみんなが笑顔でいられる『日常』だけが続く。素晴らしい世界なんだ。でも——現実はこんなに優しくは無い。どれだけ『日常』を望もうと、必ずそれを侵し、奪おうとする存在が現れる。そして、その『日常』を守るための力がなければ、ただ奪われるだけだ。武器を捨てて戦う意思が無いことを示したとしても、相手は同情なんかしない。楽に奪える相手からは、奪えるだけ奪い尽くされる。たとえ命がそれで助かっても、それはもう死んだも同然だ」


 それは、頼子に言っているというよりも、自分自身に言い聞かせているような物言いだった。


 頼子の包丁が、動きを止めていた。常春を見ていた。


 知りたい、と思った。


 この小柄なアニオタが、いったいどういう人生を歩んできたのかを。


 今の彼の言葉は、格好をつけて達観した物言いをしたみたいな軽いものではなく、実体験に基づく「重み」が含まれている……そう直感したからだ。


 そんな頼子の心を読んだように、常春は語った。


「——僕はね、八歳の頃まで、すごく体が弱かったんだよ。病院通いもしょっちゅうで、いつも寝込んでて、母親からも見捨てられちゃった。そんな僕の前に現れたのが、老師せんせいだった。老師せんせいは虚弱体質だった僕に同情して、武術の基本と気功を教えてくれたんだ。それによって、僕は一年ほどで体質を改善させて、普通の子供以上に動けるようになれた。それはもう老師せんせいと、その武術に感謝したものさ。老師せんせいも、僕を正式な弟子にしたいって言ってくれた。そう言われれば是非も無かったさ」


 常春はそれから、本格的な蟷螂拳の修行に取り組んだ。


 その修行は最初に比べると遥かに厳しく、泣いたこともあった。


 しかし、不思議なことに、「やめよう」という考えが頭に浮かんだことは一度も無かった。心の底では、武術を愛していたからだ。


 そして何より、常春には才能があった。


 宿がもたらす、天恵のごとき才能。師の袁封祈をして「異常児」と言わしめるほどの、桁外れな武芸の才。


 常春はみるみる上達……否、していった。


 成人を迎える前に、師と肩を並べるほどの強さを得られるほどに。


「そして、僕が中学生になった頃だった。……長期休暇になると、老師せんせいは僕を連れて、「海外旅行」に行くようになった」


「海外旅行? どこに行ったの?」


「いろんなところだよ。——今なお内戦と海賊行為が絶えないソマリア、パレスチナとの紛争を常に抱えているイスラエル、アラブの春以降内戦が十年以上続いてるシリア、政府軍と反政府軍が争っているエチオピア、停戦合意後も武力衝突が絶えない南スーダン……みんな、外務省がウェブサイトで「行くな」って言ってるような所。そういう「危険な場所」ばかりに連れて行かれたんだ」


 頼子は息を呑んだ。


 次の瞬間、強い憤りを感じ、常春に悪いと思いつつもその師を強く非難した。


「何よそれ!? 信じらんない! 自分の弟子を何だと思ってるわけ!?」


「……そうだね。それが普通の反応だよ。頼子が正しい。でもね……老師せんせい。——何気ない平和な『日常』が、どれだけ得難く尊いものなのかを」


 会話の内容のを感じ、頼子は目を見開く。


 ——『日常』。


「『日常』の尊さを知れば、武術という、使い方次第では完全犯罪すら可能な凶器を、『日常』を守るためだけに使える。その凶器で他人の『日常』を壊そうなんて考えも抱けなくなる。……悪い言い方をするなら「洗脳」だよ。老師せんせいは『非日常』をたくさん見せることで、僕を洗脳したんだ。——その結果、こんなアニオタの出来上がりってわけさ」


 常春はそのことに、誇りすら抱いているような顔をしていた。


 彼は相変わらず、液晶テレビに映し出されている日常系アニメを見続けている。


 この画面に映っているのは、常春の理想であり、守るべき対象。


 当たり前が「当たり前でない」からこそ、宝石のごとく感じるもの。


 だから常春は日常系アニメが好きなのだろう。


 ——なるほど。確かに常春だ。そもそも武術と出会わなければ、こんなふうになることはなかったのだから。


 だけど、やはり頼子は納得がいかなかった。


「……でも、だったら口で教えればいいじゃん。そんなの。どうしてわざわざ、危ない場所なんかに連れて行くのよ……」


老師せんせいはね……戦争を経験してたんだよ。半世紀以上前に起こった日中戦争で、ゲリラとして日本軍と戦ってたんだ。場所は河北省かほくしょう滄州そうしゅう。「武術の里」と言われるほど武術が盛んだった土地であり、抗日ゲリラと日本軍の戦闘が一番激しかった場所の一つさ。老師せんせいは生き残ったけど、たくさんの仲間や同門が戦死した。……ソレ関係で、多少の「意趣返し」のつもりもあったのかもしれないね。老師せんせいが亡くなった今となっては真相は闇の中だけど」


 それを言ったきり、常春は画面の向こうの『日常』に釘付けとなった。


 頼子も、なぜか、現在流れている日常系アニメに目がいっていた。


「ねぇ……それ、なんていうアニメ?」


「「橋の下の橋下さん」だよ。——あ!! もしかして興味あるのっ?」


 布教のチャンス、と思った常春は目を輝かせる。


 頼子はその眼差しから顔を背け、


「そういうわけじゃないんだけど……ちょっとだけ、好奇心、かな」


「そっか、じゃあここ座ってよ! 一緒に見よ?」


 常春は自分の座るソファの斜向かいにある椅子を示し、そう促してくる。


 おずおずとそこへ座り、「橋の下の橋下さん」を視聴し始める頼子。


 頼子もサブカルチャーと無縁なわけではない。メジャーなアニメ映画がテレビで流れていたら観るし、少女漫画くらいは読む。ただし最近の少女漫画はセンシティブな表現が多いので、事前の選別が必要だが。


 あっという間にアニメは終わった。


「どうだったっ?」


 録画データを停止した後、常春が期待した態度で訊いてきた。


「……面白いかどうか以前に、分かんない。これ、どういう話か知らないから」


「じゃあ、一話から見てごらんよ」


「いや、いいからっ。ご飯作んなきゃだしっ」


 ハードディスク内データを探りだす常春を、それらしい理由で止める。


 いつもは悟ったみたいに冷静なのに、アニメが関わると元気いっぱい……呆れ半分微笑ましさ半分な気持ちを抱きながら、頼子がキッチンに戻ったその時だった。


「あ、呼び鈴だ。……はぁーい。今いきまーす」


 呼び鈴が甲高く鳴ったので、常春が玄関へと向かう。


 ドアが開く。……あ、そういえば頼子が入ってきた時、鍵閉めるの忘れてた。


 開かれて、黒スーツの少年の姿が露わになる。


 その顔立ちはイケメンというより「美人」と形容できるほどの端正さ。しかし、前髪の下に隠れたその瞳は、虎のごとく炯々と輝いていて異様だった。


「——よぉ伊勢志摩常春。殺し合いでもしよぉぜ」


 その手に握られていた拳銃——ブローニング・ハイパワーが、轟音と共に火を吹いた。

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