アニオタ、美少女の体に見惚れる
生まれつき類稀な武才に恵まれた朝涼は、七歳から剣術の稽古を始め、なんとわずか二年で流派の免許皆伝を得た。……同じく二年で免許皆伝を得た者に
類稀であったのは才能だけではなく、その美貌もであった。幼い段階から、将来傾城の美女になることを容易に感じさせるほどの。
免許皆伝後も武術の精進を続け、
垢抜けない田舎侍の集まりであった新徴組において、朝涼の美貌は注目の的で、たびたびちょっかいをかけられた。……しかし、そのいずれも強烈な痛みとともに後悔を覚えた。新徴組の中においても、朝涼の武芸の腕前は飛び抜けていたのだ。
その美貌に惹かれたのは田舎侍だけではない。金持ちの息子からも縁談の話が絶えなかった。しかし、そのいずれも袖にした。——「自分を武で負かした相手としか結婚も子作りもしない」と。
多くの腕自慢が、朝涼欲しさに勝負を挑んだ。しかし、柔術でも剣術でも長刀でも槍でも杖でもその他の技でも、朝涼に勝てる者はついに一人も現れなかった。その中には、世間に名だたる武芸の達人さえも少なくなかった。
結局、朝涼は行き遅れてしまい、独身のまま生涯を終えた。
しかし、そんな己の腕一つで世を渡った朝涼の生き様は、近代化後もまだ社会的立場の弱かった女性達に希望を与えた。
ゆえに、朝涼は「武神」「女性の社会進出の神」として、死後に祀られるようになった。
武久路にある『十喜珠神社』こそが、その十喜珠朝涼を祀る
——その十喜珠神社の、決して大きくはない境内にて、
朝九時。本来ならば今頃学校で一限目の授業が始まっている時間だ。しかし昨日二週間の停学を言い渡された二人(頼子は自主的にだが)には関係のない話だった。
「あふあふあふ……」
頼子はあくびをこらえる仕草を見せる。その服装は制服ではなく、ゆったりした青ジャージだった。頼子はゆったりした上衣を好んで着る。大きな胸が強調されずに済むからだ。
対照的に、常春はしゃっきりしていた。萌え系アニメキャラTシャツに、ジャージズボンという格好。
「何も朝九時からやらなくても……」
「朝が一番気力体力ともに充実してる時間だからだよ。だから、何か練習する場合、夜遅くより朝早くの方がいいんだ。——武術の練習は特にね」
そう。
昨日の帰り道、頼子は常春に頼んできたのだ。「武術を教えて欲しい」と。
その頼みに、常春は驚きもせず頷いた。
今回の騒動で、彼女も「身を守る術」が必要であることを悟ったのだろう。それは悪いことではない。むしろ大切なことだ。それを教えてくれと言われたのならば是非も無い。基本的に常春は来るもの拒まずだ。
そういうわけで、常春は早速次の日から、頼子に武術の手解きをすることになった。
まず、頼子に尋ねたのは、これまでに武道や格闘技の経験は無いか、という質問であった。
頼子は「無い」と言った。
しかし、常春はそれがにわかに信じがたかった。
なぜなら。
「すごく良い体、してるよなぁ……」
常春が何気なく口にした言葉に、頼子はきょとんとし、それからサッと頬を赤く染めて大きく後退した。
「な、なにいってんの……い、良い体、って……!」
ゆったりしたジャージの上からでも分かるその豊かな胸部を隠す形で我が身を抱きながら、羞恥の目で常春を睨んだ。
あぁ、と常春は察して、苦笑した。
「違うってば、そういう意味じゃないよ。……宗方さんはね、武術をやる上でかなり理想的な肉体をしているんだね、っていう意味だよ」
羞恥に軽蔑が混じりかけたところで頼子は再びきょとんとし、目をしばたたかせた。
「そうなの?」
「うん。まず、上半身に余計な力が全く入ってない。体の重みが全て足底と手の指先に沈んでる。余分な力が抜けたことで重心が安定して、重心が安定したことで体の軸がしっかりとできている。それでいて、下半身の筋肉、特に大腿部が無駄無く発達してる。まるでピラミッドみたい」
「……ウチ、そんなに足太い?」
どう答えても角が立ちそうな気がしたので、ノーコメントのまま次の質問をして誤魔化す。
「宗方さん、ちょっと柔軟やってみてくれないかな?」
「え? いいけど」
頼子は境内にある灯籠に
「おぉぉ。すごいね。体柔らかい。……うん。やっぱり宗方さんは良い体してるよ。武術をやる上で、いや、どんなスポーツをやる上でも、これほど恵まれた体は無いよ」
「ありがと……ところで、ウチの足ってやっぱり太い?」
ノーコメント。
「でもまぁ、それでも基礎っていうのは大事だ。中国武術……特に僕の学ぶ中国北方武術は「
「よく分かんない」
「例えばさ、新品でまだ削ってない鉛筆と、もう削って先端が尖った鉛筆、突っつかれるとどっちの方が痛い?」
「そりゃ、尖った方でしょ。……あぁ、なるほど」
「そういうこと。形こそが力を効率良く、そしてより痛々しく相手に伝えるための柱なんだよ。その「正しい形」でもって体と重心を動かすことで、単純な筋力以上の力を出すことができる。そういう力を中国武術では『
言われた通り、頼子の掌が常春の手前へ伸ばされる。常春はその掌に自分の拳を添えると、
「ほい」
一息とともに、小さく押した。
そう、小さく押した。
しかし頼子は、その弱々しい押し方とは明らかにつり合わない勢いで後ろへ大きく押し流された。
「ちょ、っととっ……?」
十メートルほど離れたところで頼子は重心の安定を取り戻すが、その顔は今なお驚きに満ちていた。再度近づく。
「……今のが、はっけー、ってやつ?」
「うん。厳密には、その発勁の動きを極限までコンパクトにした『寸勁』ってやつ。まぁでも、これを覚える必要はまだ無い。宗方さんは、まず基本的な発勁のやり方を覚える方が先」
常春がそう言うと、頼子はちょっと納得いかないみたいな顔をした。
「どうしたの? 宗方さん」
「……ねぇ、なんか他人行儀っぽくない?」
「なにが?」
「苗字で呼び合うのがよ。ウチら……一緒に停学になって、モノを教え教えられるような関係でしょ? だから、その……苗字じゃなくて……」
「名前で呼び合おうって?」
「う、うん……それに、伊勢志摩って苗字、なんか言いにくいし」
「じゃ、頼子」
常春が屈託なくそう言うと、頼子は少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「頼子?」
「いや、うん。だいじょぶ……ちょっと、びっくりしただけ。……ウチ、男の人に呼び捨てにされるの、初めてだから」
「岡本くんは? 昨日、頼子がぶん殴った人」
「あの馬鹿はノーカン。そもそもウチ許可してないし。……まぁ、とにかくよろしくね。と……常春」
おずおずと名前呼びしてくる頼子に、常春は「よろしく」と軽く返事をする。
「それじゃ、気を取り直して、練習再開といこうか。今日、頼子に教えるのは、基本の「歩形」……つまり立ち方。僕の使う蟷螂拳を含む、中国北方武術全ての基礎となる二つの歩形だよ。まずは見てて」
常春は慣れた感じで深く腰を落とした。
上半身は垂直。両膝はやや内側寄り。大腿部は地面と並行。爪先は前向き。——まるで、馬の背にまたがったような中腰の姿勢。重心は左右の足に均等。
「これが『
言うや、常春は次の歩形に移った。
左足のかかとで地を擦るように蹴り、両足に均等にかかっていた重心を右足一本へとゆっくり移していく。……右足を沈め、左足を
「これが『
言うと、常春は『弓歩』から『馬歩』へ戻る。まるでテープの巻き戻しのように。それから今度は逆方向の『弓歩』へ転ずる。それからまた『馬歩』へ戻る。
『馬歩』、『弓歩』、『馬歩』、『弓歩』、『馬歩』……何度も二つの歩形の変化を繰り返してみせる。右へ左へ、軸足を移す。
まるで、重力という水を、右へ左へ何度も流動させるように。
重力の流れ。
頼子はひらめいた。
「もしかして……その歩形の「変化の流れ」の中に、パンチとかの動きを含ませるの?」
頼子のその言葉に、常春は驚愕した。まさか、初見でそれに気づくとは。
「そう、そうだよ! すごいな頼子、武術とか格闘技初めてなんでしょ? それなのに一回見ただけでそれに気づけるなんて!」
「そ、そう……? ただ、常春の重心が動く様子が、なんだか川の流れみたいだなって思って。ほら、川の濁流ってさ、流れそのものだけじゃなくて、それによって流されてくる流木とかゴミとかも危ないじゃん。そうやって「流れに乗せる」感じでパンチも打つのかなって」
「……すごいなぁ。まさかそこまで表現できるなんて。そう。まさしくそれ。水の流れだよ。水っていうのは、満ちた場所から渇いた場所へ流れる性質があるんだ。武術における重心も同じだよ。片足に乗った自重を、自由の状態のもう片足へ移す。それを繰り返すことが攻撃にもなるし、防御にもなる。そう、足の動きが武術の根幹なんだ」
常春は再び『馬歩』となり、鋭く『弓歩』に移ると同時に拳をしゅっと突き出した。針のように鋭く、それでいて岩の重みを帯びた拳打。
「武術の基本にして極意は足の動き。手の動きはその足の動きがあって初めて技となる。だから中国武術は足の鍛錬を重んじる。特にこの『馬歩』と『弓歩』は大事だ。それじゃ、始めようか」
——ようやく、練習が始まった。
練習は、一時間半……つまり十時半まで続いた。
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