贖罪の竜殺し
由希
贖罪の竜殺し
「ぱぱ」
右手を引かれ、振り向いた。目に入るのは擦り切れた皮のフードを頭に被り、こちらを見上げる幼い我が子。
「どうした、ネル?」
「つぎ、どんなまち?」
「ああ、次に行く街は花の都と呼ばれているそうだよ。ネルは花、好きだったな?」
「うん、だいすき!」
ネルが笑い、八重歯が覗く。そんな表情一つ一つが、たまらなく愛おしい。
「ぱぱ、あついからこれ、とってい?」
するとネルがフードを掴み、そんな事を言った。俺はすぐに周囲に視線を走らせ、誰の姿もない事を確認する。
「ああ。少しの間だけならいいぞ」
「やったー!」
危険はないと確信してから頷くと、ネルはすぐにフードを首の後ろに倒した。現れたのは深緑色の短い癖毛、そして——。
「ふぅー。あつかった!」
人の身には決して有し得ない、短い一対の角が、髪の隙間から顔を覗かせた。
ネルとの出会いは、およそ十年前に遡る。
当時の俺は『断空のゼレス』として、少しは名の知られた魔物ハンターの一人だった。無骨な大剣を手に魔物を狩り続けていた俺だったが、ある時、他のハンター達と共に国から竜退治の依頼を受けた。
竜を退治したとなれば、経歴に更に箔がつく。断る理由など、どこにもなかった。
霧の漂う谷の奥に、その竜は住んでいた。竜は俺達の気配を嗅ぎ取るや否や、怒り狂って攻撃を仕掛けてきた。
激しい戦いだった。俺以外のハンターは皆、竜の吐く酸のブレスに焼かれて死んだ。
鱗を削り、肉を切り裂き、決死の思いで竜の首筋に突き立てた大剣の感触を、俺はきっと生涯忘れる事はない。その直後に、視界に映り込んだ光景も。
勝敗を決する渾身の一撃を、俺が竜に叩き込んだその瞬間。死の濃密な場の空気とはまるでかけ離れた、微かな産声が上がった。
反射的に振り返る。そこで俺が見たものは、今まさに、卵の殻を破って生まれてきたばかりの小さな仔竜だった。
そこで思い出す。竜の習性を。雌の竜は百年に一度、安全と判断した場所に身を隠して卵を産むという。
そして目の前には生まれたての仔竜。この、意味する事は。
「あ……俺……俺、は……」
大剣を握っていた手から力が抜け落ちた瞬間、竜が最後の力を振り絞り、俺を体から振り落とした。それに抗う術などなく、俺は地面に強く叩き付けられた。
俺達ハンターの間には、ある一つのルールがあった。それは産卵期の魔物だけは、絶対に殺さない事。
魔物と言えど一つの命。人にとって天敵とならない限り、種の滅びに繋がるような殺生は可能な限り避ける事——。
その禁忌を自分が犯したと知った衝撃は、体を襲った痛み以上に激しいものだった。俺は必死に身を起こし、まだ過ちが取り返せないかと竜の姿を探した。
目に飛び込んできたのは、竜が今まさに力尽き、その場に倒れ込む姿だった。それを見ればもう竜が助からない事など、火を見るよりも明らかだった。
竜は苦しむように呻き、何度も痙攣を繰り返した後、そのままぴくりとも動かなくなった。どれほどの間見つめようとも、竜が再び動き出す事はなかった。
「……、ぴー……」
微かな鳴き声に、俺はハッと我に返った。それはあの、生まれたばかりの仔竜の声に違いなかった。
殺してしまうか。一瞬そんな考えが浮かんだ。竜が産卵期だったという証拠を総て処分さえしてしまえば、俺は竜退治を成し得た英雄になれるのだと。
——だが。
「ぴー、ぴー……」
その心の悪魔に身を委ねてしまえるほど、俺は強い人間ではなかった。ましてこの頼りない声で鳴く命を、どうして自分の都合だけで奪えるだろう。
ここまで来れば、生かすも殺すも自分勝手だ。だから俺は、自分の一番強い想いに従う事にした。
「あの卵は……確か……」
気力を振り絞り、竜の首から見た景色を探す。声はだんだん近く、ハッキリと聞こえるようになってきた。
「……いた!」
やっと見つけ出した仔竜は、卵の殻の欠片を体に付けたままその場で鳴き続けていた。大きさだけなら小型犬と変わらない、その無垢な体躯を、俺はそっと抱き上げた。
「ゴメン……ゴメンな……これからは、俺がお前を守るから……!」
「……ぴー?」
泣きながら呟いた俺に、仔竜は何も解っていないような、甲高い声を上げた。
その日以来俺は剣を、『断空のゼレス』という存在そのものを捨てた。
日雇いの仕事に精を出しながら、俺はネルと名付けた仔竜を全力で育てた。ネルが特別なのか、それとも知られていないだけで元々竜にそういう力があったのかは解らないが、三年でネルは人語を発するようになり、その更に二年後には人の姿を模せるまでになった。
だが竜の証である角だけは、どれだけ経っても隠せるようにはならなかった。その為フードを買い与え、普段はこれを着けさせて生活する事にした。
現在俺達は、年の離れた親子として旅暮らしをしている。ひと所に落ち着かないのは、ネルの正体がバレる危険を少しでも減らす為だ。
ネルは俺の事を、実の父親だと信じて疑っていない。だがネルが成体へと成長した時、それが生きている間に叶いそうもないなら今際の際に、俺は伝えようと思う。
お前の本当の母親を殺したのは俺だと。お前には、親の仇を取る資格があると。
いつかその日を迎える事だけが、今の俺の、ただ唯一の望みだった。
(……?)
花の都に着いてすぐ、俺は違和感に気付いた。
見られている。それも一人ではない、複数だ。それらは入れ替わり立ち替わり、俺達を監視しているように思える。
捨てた筈の戦士の勘が囁く。誰かが、俺達を狙っていると。
「……ネル」
「なーに? ぱぱ」
あくまで何事もない風を装って、ネルに声をかける。ネルはキョトンとした目で、俺を見上げてきた。
「あの角を曲がったら、パパと宿まで駆けっこしよう。でもはぐれたら大変だから、手は繋いでいるんだぞ?」
「うん、わかった!」
「よし、いい子だ」
素直に頷くネルに笑みを返して、俺はその時を待つ。角まではもう、目の前まで来ていた。
「よーい……ドン!」
角を曲がるとすぐ、俺はネルの手をしっかりと握って駆け出した。後に続くのは小さく軽い足音、そして一拍遅れて複数のバタバタという足音。
不意打ちは成功した。ならば後は、何としてでも撒く!
そう思いはしたものの、足音はなかなか離れていく事はなく。それどころかどんどん、人気のないところに追いやられていくようだった。
「クソッ……昔だったら……この程度で息が上がったりしなかったのに……!」
加えて加齢によって落ちた体力もまた、俺の足を引っ張る。そして遂には、行き止まりに追い込まれてしまった。
「ハァ、ハァ……しまった……!」
俺達の逃げ道を塞ぐように、追手が次々と姿を現す。それは目以外の顔を布で隠し、長剣を構えた黒装束の集団だった。
「……お前ら、何者だ。何故俺達を付け狙う」
「仔竜を渡せ」
「何?」
先頭のリーダーらしき男の言葉に、思わず眉が寄る。……まさか、ネルが竜である事がバレた?
「何の事だ。竜なんてものは知らないぞ」
「とぼけるな。十年前貴様が孵化した仔竜を連れ去った事は解っている、『断空のゼレス』」
「!!」
だが捨てた筈の名を呼ばれ、俺は気付く。コイツらはネルを竜だと気付いて来た訳ではない。——十年前の出来事を知って、俺を追ってきたのだと。
「……何故、俺がその仔竜とやらを連れ去ったと?」
「竜の住処だったあの場所に竜の死体と卵の殻はあっても、仔竜の死体はなかった。貴様の死体もだ」
「どこか他の場所で殺したかもしれんだろう」
「ふん、まだシラを切るか。いや、無理からん事か、仔竜の角の莫大な価値を知っていればな」
仔竜の角。その単語を聞いた瞬間、嫌な予感が膨らんだ。同時に持ち上がる、一つの仮説。
もしも、もしもだ。あの依頼を出した王国が、
「全く、素直に依頼だけこなしていれば、竜と相討ちで死んだ悲劇の英雄になれたと言うのに。仔竜の角を自分のものにしようなどと、欲を掻くからこうなる」
「……お前らは、仔竜の角が欲しいのか」
「ああ。竜が成体になる前、性別が決定される前にしか入手出来ない希少な角。高級品として知られる雄竜の角を百本積んでも買えない、お宝の中のお宝。欲しいと思って当然だろう?
「——っ!」
疑問が、一気に確信へと変わった。つまりコイツらは……最初から俺達を利用し始末するつもりで……!
「……さて、少しお喋りが過ぎたようだ。安心しろ、仔竜の居場所を吐くまでは殺さん。……いや、死にたくても死なせんさ。貴様のガキもろともな」
黒装束の集団が、じりじりと俺達との距離を詰める。このままでは間違いなく捕まり、ネルが竜である事もばれ、二人揃って殺される。
ならば。どうせもう、隠し通せないのならば……。
「……ネル! 変身を解いて飛べ!」
「いいの!?」
「ああ、思いっきり飛んでいいぞ!」
俺が頷くと、ネルの体が微かに発光した。そしてぐにゃりと姿が歪み、次の瞬間には、人間サイズの竜がそこに現れる。
「な、何!?」
突然現れ羽ばたいた竜に、黒装束達の意識が完全に奪われる。俺はその隙を見逃さず、リーダーとの距離を一気に詰める。
「オラアッ!!」
そのままボディブローを叩き込むとリーダーが体をくの字に曲げ、手にした長剣を取り落とした。俺はそれを素早く拾い上げ、構える。
「大剣じゃあないが、お前ら程度ならこれでも十分だ! コイツには、指一本触れさせん!」
「クソ……舐めるな、ハンター風情があああああ!!」
そして俺は、いきり立ち向かってくる敵に向かって、躊躇いなく剣を振り抜いた。
「……あー、何人か逃がしちまった。やっぱ十年ぶり、しかも得意な獲物でないとキツいわ」
俺とネル以外に動くもののなくなった袋小路で、俺は深く息を吐いた。息はすっかり上がり、酷使した筋肉も悲鳴を上げている。
だが、当面の脅威がひとまず去ったのも確かだった。
「ぱぱ、けんか、おわった?」
それまで少し上を旋回していたネルが、ゆっくりと降りてくる。そして再び、人の姿を取った。
「ああ、終わった」
「くろいひと、むずかしいこと、いってた」
「ああ。ネルにはまだ早い話だな」
頭を撫でてやると、ネルは嬉しそうに笑った。それを見ながら俺は、今後の事を考える。
王国の刺客は、また遠からず現れるに違いない。今回は不意を突いて武器を奪えたが、もう同じ手は使えないだろう。
ネルを守り抜く。その為には、一度は捨てた剣を再び握るより他にない。
「ネル、これからは多分、パパはたくさん喧嘩すると思う」
「そうなの?」
「そうだ。喧嘩するパパは嫌いか?」
「んーん。どんなぱぱも、ねるはすき」
「そうか。……パパは絶対に喧嘩に負けない。約束する」
「うん、やくそく!」
無邪気に笑うネルに、心の中で誓う。お前だけは絶対に、人間の汚い欲の犠牲になどさせない。その為ならば、俺は——。
(世界だって、きっと滅ぼしてみせるさ)
そう決意し、俺は、剣を握ったままの右手を固く握った。
fin
贖罪の竜殺し 由希 @yukikairi
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