二 黒髪の青年の覚悟
「さて、鬼よりも怖い存在がいなくなったところで……逃げるぞ」
祠の管理人さんがいなくなったのを見計らい、青年がそう告げてまりんを促す。
ファー付のフードを脱いだ青年はストレートショートの黒髪と目をしていて、言い方も今までとは打って変わっていた。まりんが思うに、こちらの方が素の状態なのだろう。黒髪の青年に戸惑いながらも、フードを被ったまま、まりんは尋ねる。
「逃げるって……どうやって?」
「瞬間移動さ」
気取った笑みを浮かべて返答した黒髪の青年は、
「こうやってね」
さりげなくまりんの手を取り、握手をする。気取った黒髪の青年と握手をすることしばし、何も起こらないことを不審に思ったまりんが第一声を放つ。
「……何も、起こらないじゃないですか」
「うん……そうだね」
冷めた口調で告げたまりんに、愛想笑いを浮かべた黒髪の青年が返事をする。
「本当は、握手をした瞬間に体がふわって浮いて、あっという間に移動出来ちゃうんだけど……なんで、何も起こらないんだと思う?」
「そんなこと、私に聞かないでくださいよ」
いきなり尋ねられ、困惑しながらも冷ややかに返答したまりん、この事態に心当たりがあり、前置きをした上で静かに予測する。
「これはあくまで、私の勘……なんですけど。握手をしても、何も起こらないのは……さっきまでここにいた、祠の管理人さんの仕業かもしれませんね。たぶんですけど、私達を逃がさないように、結界で囲ったんじゃないでしょうか」
「管理人さんが、俺達を逃がさないようにするために結界を……?」
まりんの予測を聞き、あっけらかんとした青年が苦笑した。
「ないない。あの人に限って、そんなことする筈が……あるな」
苦笑しながらも、まりんの予測を否定しようとした黒髪の青年だったが、ふと我に返ったように真顔を浮かべて、
「試しに、こいつを投げてみるか」
握手をしていたまりんから少し離れた道端で拾い上げた小石を、思い切り投げてみる。すると……
誰もいない方へ、天に向かって黒髪の青年が投げた小石が、無色透明な壁に当たった瞬間、バリバリと青白い電気が迸った後、爆発音と共に木っ端微塵になったではないか。
「ふーん……なるほどね」
投げた小石がさらさらの砂となってアスファルトの路面上に落ちきった時、そのさまを見届けた黒髪の青年がフッと気取った笑みを浮かべてまりんの方に体を向けると口を開く。
「どうやら、きみの予想は当たっていたようだ。あの人は初めから、俺達を逃がす気なんてなかったんだ」
そう、嘆かわしい表情をして告げた黒髪の青年はやっぱり気取っていた。本当に、心から嘆いているのか疑問を抱かせるほどに、黒髪の青年はやけに落ち着いていた……かのように見えた。
「だったらさぁ……」
愚痴っぽく口を開いた黒髪の青年がこの後に見せる言動を目の当たりにしたまりんは、黒髪の青年が気取っていてやけに落ち着いて見えていたのはやっぱり見せかけだったのだと思い知ることになる。
「なんで「絶対にここを動くなよ」なんて言ったんだよあの人!そんなこと言われたら逃げろの前振りだって思うじゃん!」
「前振りって思ったんだ?!」
態度が豹変した黒髪の青年にびっくしりして、すかさずつっこみを入れたまりんにお構いなしで、黒髪の青年は怒り狂ったようにまくし立てる。
「悪事を働いたかもしれない俺達を逃がしてくれるなんて、いい人だなって思っちゃったよ!でも本当は微塵もそんな気なくて、なんならここから動いた瞬間、結界に当たって木っ端微塵になりますけど?的な仕打ちまでしやがって……」
膝から崩れ落ち、地面を叩いてめちゃくちゃに悔しがりながらも、
「なんだよ
四つん這いになって悔しさを滲ませる黒髪の青年の声が、相手を気遣う祠の管理人さんに心を打たれて涙に震えている。
「そこは感動するんだ?管理人さん、実はめちゃいい人で良かったですね」
だんだん黒髪の青年に慣れてきたまりんが、無のオーラを纏い淡々と同情する。
「祠の管理人さんがいい人だからこそ、俺達はここから脱出せねばならない!」
「いやもう全然ワケ分かんないから」
俯いていた顔をぱっと上げて、謎の使命感に燃える黒髪の青年にまりんはそう、冷静沈着につっこみを入れたのだった。
「脱出するにしても、結界に囲まれたこの場所からどうやってするんです?」
「瞬間移動が出来ないしな……結界に触れると木っ端微塵になっちゃうし……せめて、結界そのものをなくすことが出来れば……」
アスファルトの路面から立ち上がり、難しい表情をして考え込む黒髪の青年が口にした『結界そのものをなくす』の言葉にまりんはぴんと来た。
「私なら……それが、出来るかもしれない」
「え?」
意表を突かれたような表情をしている黒髪の青年の脇を通り、結界の端で立ち止まったまりん。徐に右手を翳し、手の平に力を集中させる。頭の中で、結界が消えるイメージをして集中することしばし、翳していた右手を下ろしたまりんは、ゆっくりと前進した。
張り詰める緊張感が辺りに漂う最中、三歩ほど進んだまりんは立ち止まる。青白い電気が流れることもなく、体に何も異変は起きなかった。
「結界が、解けたみたいですね」
振り向きざま、得意げな笑みを浮かべて、まりんはそう黒髪の青年に告げる。まりんの言葉を確かめるべく、緊張の面持ちで歩み寄った黒髪の青年。まりんの左隣で立ち止まると、たちまち面食らった。
「す、スゲー……」
結界が張られていた辺りを通過しても、体に何も起きなかったことにちょっとした感動を覚えた黒髪の青年は、
「きみ、一体どんな力を使ったんだい?」
俄然、まりんに興味を持ち、気さくに尋ねた。ちょっぴり頬を赤くして照れながらも、まりんは返答する。
「使い方によって変化する、特殊能力を使ったんです」
「使い方によって変化する……?」
まりんの返答を不審に思い、考えを巡らせていた黒髪の青年がはっとする。
「その特殊能力ってまさか……堕天の力じゃないだろうな?」
なっ……!なんで分かったのよ、この人……!
黒髪の青年が見せた、鋭い感覚にまりんはどきりとした。現時点で、何者なのかは分からないがこの青年が、祠の管理人さんの仲間であることを想定して、まりんは平静を装い、とぼけてみせる。
「堕天の力……って?」
「使い方によって変化する、万能の特殊能力だよ。堕天の力は、堕天使にしか扱えない力なんだ」
あの時、堕天使はまりんにこう告げた。
『――私と契約関係にある間は、堕天使にしか扱えない、堕天の力が有効となる』と。
黒髪の青年が言っていることが、ここまでどんぴしゃなのにまりんは恐怖を覚えた。それはまるで、凜然たる雰囲気を身に纏う、知的な青年を彷彿させるような……堕天使や、堕天の力を知っているとなると、堕天使の仲間の可能性も否定できない。この青年、一体何者なのだろうか。
「そう言えばさっき……ここにいた管理人さんに、祠に侵入してしまったって、あなたは言っていたけれど……」
「ああ、あれね……実は俺、この町に来たのは今日が初めてで……あちこち散策している内に日本家屋の、大きな屋敷を見つけて、興味本位で屋敷の中に入ったんだよ。そしたら地下室へと通じる階段を見つけて……堕天使が封印されている祠が、この世界にあるのは知っていたけれど、まさかあの屋敷の地下室がそうなっていたのは知らなかったよ」
興味本位で、祠に侵入したのは本当だったのか。
青年のまじめな話を聞き、まりんは密かにそう思った。
「俺が祠に行った時には堕天使の像が消えていて……誰かが、封印を解いた後だってのは、容易に察しがついたんだけど……堕天使も、堕天使の封印を解いた人物の姿も、祠のどこにも見当たらなくて。聞くところによると堕天使は根っからの悪で、利用価値がないと判断した人間の命を奪うと言う……取り返しのつかない事態になる前に堕天使と、その封印を解いた人物を捜し出さないと」
この、まじめな青年の話にまりんはぞっとした。全身から、血の気が引いて行くのを感じる。
「本当……なの?」
フードを目深に被ったまま、恐怖で声を震わせながら、顔面蒼白になったまりんは、面前にいる黒髪の青年に問いかける。
「今の話……堕天使が、利用価値がないと判断した人間の命を奪うって……」
真っ赤なロングコートを着て、フードを目深に被る女の子の様子が、今までと明らかに違っている。その異変に気付いた黒髪の青年が、真剣な面持ちで口を開きかけた、その時。
「本当だよ」
黒髪の青年よりも早く返答した、若い男の甘い囁き声が、まりんの耳元で聞こえた。耳に掛かるくらいの、銀鼠色の髪に優しい目をした、二十代くらいの青年が、後ろからまりんをハグしていた。
「この青年の言う通り、私は根っからの悪だ。そして利用価値がないと判断した人間の命を奪う。このようにね」
甘くも冷酷な雰囲気を漂わせて青年がそう告げた、次の瞬間。
ドクンッ
まりんの心臓が大きく鼓動をしたのを最後に、動かなくなった。背後からハグする青年の腕を掴んでいたまりんの手が滑り落ち、両腕がだらんとした。
「感謝するよ。ついさっきまでここにいた祠の管理人が張って行った結界に阻まれて、君に近づくことが出来なかったのだから」
薄ら笑いの浮かぶ冷めた表情をして、青年はまりんにそう告げた。意識を失ったまりんにはその言葉が届かないのを知っていながら。
「おい、お前……」
悲惨な光景を目の当たりにし、言葉にならないショックから怒りへと変わった黒髪の青年が、爪が手の平に食い込むほどきつく指を折り曲げて感情を押し殺しながら口を開く。
「彼女に……何をした?」
ギロリと殺気に満ちた形相で相手を睨めつける黒髪の青年、意識を失ったまりんを抱いたまま、銀鼠色の髪をした相手が冷ややかな笑みを浮かべて返答する。
「堕天の力を使って、心臓を麻痺させた。もう二度と、彼女は目を覚まさない」
相手がそう言い終わるか終わらない、絶妙なタイミングで黒髪の青年が相手に迫り、真っ赤なコートの
感情を押し殺し、怒りで体を震わせながら耐えてきたが、もう我慢の限界だ。黒髪の青年がぶっ飛ばした相手がしたことは断じて容認出来ない、残忍な犯行だった。
とんでもない相手に手を出しちまったな。
辺りが、不気味なほど静まり返る最中。さりげなく救出した赤ずきんちゃんを抱いて、ひとりその場に佇む黒髪の青年はそのことを軽く後悔したが、
けど……目の前で人ひとりが殺されたら……誰だって、正気でいられなくなる。
怒りに支配されていた心が冷静さを取り戻し、自分自身に言い聞かせるように内心そう思うに留まった。
「すっげーかわいい顔、してんじゃん」
低い姿勢になり、赤ずきんちゃんが被るフードを脱がした黒髪の青年が、頬を染めて微笑むとそう呟いた。愛おしそうに見詰める黒髪の青年が抱く腕の中で、雪のように白い少女が、口を半開きにして永遠の眠りについている。まぶたが閉じられたその顔はかわいくも美しかった。
「ごめんな。俺がついていながら、護ってやれなくて」
静かに謝罪した黒髪の青年は、少女にそっと顔を近づけるとキスをした。黒髪の青年がキスをした瞬間、少女の体が金色に光り輝いた。少女を包み込む、金色の光が消えたのを見計らい、黒髪の青年はキスを止めると顔を離す。
まだ、人間には試したことがない蘇生術……うまく、成功しているといいけど。
黒髪の青年が今、少女に使った蘇生術とは……その昔、時の神、クロノス様とカイロス様の許可の下、時の神殿内にある『修行の間』にて修行をしていた青年が習得した術のことで、死した肉体の中に魂が残っていれば時を逆戻りさせ、死した動物や植物など生きとし生けるものの命を救い、蘇らせることが出来る。今のところ、この蘇生術を使えるのは青年ただひとりだ。
過去に一度だけ、時の神殿の近くを流れる運河を泳ぐ魚が死にかけていたところに遭遇し、蘇生術で以て、命を助けてやったことがある。それを、カイロス様に目撃されていたらしい。青年の傍まで歩み寄ったカイロス様が、厳格な表情でこう告げた。
「お前のその術は、自然界の秩序を乱す恐れがある。そればかりか、術を習得したお前が悪しき者の手に渡れば、悪用されかねない。したがって、蘇生術を使うことを禁ずる。これに違反した場合、それ相応の罰が下るだろう」と。
カイロス様に禁じられてから絶対に使わなかった禁断の蘇生術を使ってしまった。その時点で、時の神との約束を破った青年には、それ相応の罰が下る。後悔はない。蘇生術で彼女が蘇り、再びひとりの人間として人生を歩めるのなら。罰が下る、その前に……
口を真一文字に結び、覚悟を決めた黒髪の青年。瞬時に出現した二本の銀色の剣を両手に、悠然と歩き出す。
つけないとな。彼女を手に掛け、俺が喧嘩を売った……悪しき
不意に立ち止まり、前方にいる相手と対峙する。黒髪の青年が眼光鋭く睨めつける視線の先、容姿端麗で清楚な服の上からねずみ色のロングコートを着た、こぎれいな佇まいに大きな灰色の翼を広げた
今の俺には、時間をかけるだけの余裕はない。さっさと、決着を付けさせてもらうぜ!
体の全神経を集中させ、深呼吸をした黒髪の青年。両手に携えた銀色の剣をクロスすると柄を瞬時に引き、発動した銀色の光線を撃つ。無数の刃となった銀色の光線が、涼しい顔をして佇む堕天使の体を掠めて飛び去って行く。
「……っ!」
黒髪の青年が撃った光線が、思わず目を見張った堕天使の、右肩を掠めて傷を負わす。
ただの青年かと思いきや、この私の体に傷をつけるとは……
黒髪の青年を軽視していた堕天使は、要注意人物として重視する。銀色のオーラを身に纏い、闘志の炎を燃やす黒髪の青年は今や、無敵の雰囲気を漂わせていた。
あの様子では、闇雲に戦えば、こちらの方が圧倒的に不利になる。やむなし……か。
的確に判断した堕天使は黒髪の青年と戦うことを諦め、瞬時に姿を消すと退散したのだった。
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俺はただ、彼女の命を救いたかっただけなのに。なのに……なんで、こんな仕打ちを受けなきゃならないんだ?
対峙していた堕天使を退散させた後のことだった。片田舎の、広大な田圃のまんなかに設けられたアスファルトの路面に、仰向けの状態で横たわる赤ずきんちゃんのもとへ戻った黒髪の青年が不意に立ち止まり、息を呑んだ。
真っ赤なコートを着た赤ずきんちゃんを抱いて佇む、容姿端麗な少年の後ろ姿が、ぎょっとする青年の視界に入っていた。
「まっ……待ってくれ!」
ウェーブした焦げ茶色の長髪を一本結びにした小学生くらいの美少年が、赤ずきんちゃんを抱いて今にもどこかへ姿を消してしまいそうな気がして、黒髪の青年が慌てて待ったをかける。
「きみは一体……彼女を、どうする気だい?」
赤ずきんちゃんをお姫様だっこする少年がゆっくりと振り向き、黒髪の青年に応じる。
「お前は、禁忌を犯した。時の神との約束を破った罪は重い。彼女の身柄は、私が預かる」
黒髪の青年を
「まさかきみ……カイロス様……なのかい?」
「残念ながら、私は時の神ではない。が、クロノスとカイロスとは旧知の仲にある。故に、蘇生術のことも、それが禁じられていることも知っている」
冷ややかな少年の返答を受け、黒髪の青年に緊張が走る。時の神と旧知の仲と言うことは、この少年も何らかの神である可能性が高い。黒髪の青年は慎重に口を開く。
「少年、きみは一体……」
「名乗るほどの者ではない。が……私は、お前より遙かに格上であることは事実だ」
厳格な表情をして、黒髪の青年を見据えながらも少年が、
「目の前で、大切な
黒髪の青年の気持ちを
「うっ……!」
目がくらむほどの強烈な金色の光が辺り一帯を照らし、思わず右腕で目元をカバーした黒髪の青年は気を失った。
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