06.抗がん剤開始

 目を開けると、白い天井が飛び込んできた。

 軽く伸びをしてシャッターカーテンを開ける。けど窓の向こうは逆側の病棟が見えるだけだ。ハッキリ言って景色は悪い。


「おっはよーはよー! 颯斗くん、今日から抗がん剤使っていっくよぉお!」


 テンション高く入ってきたのは主治医の小林先生ではなく、もう一人の小児科医の大谷おおたに先生だ。五十歳は過ぎてるだろうけど、背が高くて元気な先生である。


「まずはメソトレキセートなぁ。これ一般的な抗がん剤! とりあえずゆっくり落としていくから、気分悪いとか蕁麻疹出たとか、なんかあったらすぐにナースコールしてな。わかった?」

「はい」

「一応今日は小児病棟の中で過ごしてもらえるか? 明日からは体調良ければ院内学級に行ってもらってもいいけど、行く前は誰でもいいから看護師に一言声掛けてから行ってな」


 そういうことで、残念ながら山チョー先生の所に行くのは明日以降になった。今日は一日どうやって過ごそうかな。

 病室で少し勉強した後、俺は休憩と暇潰しも兼ねてプレイルームに行ってみた。

 小さな子どもたちとその親らしき人、小学生が二、三人いる。中学生っぽい子は見当たらなかった。みんな院内学級の方に行ってるのかな。

 俺がプレイルーム前で少し尻込みしていると、一人の女の人が出迎えてくれた。


「あらー、いらっしゃい、どうぞ上がって。なにクンかな?」

「えっと、島田颯斗です」

「私はここの保育士の志保美しほみでーす。あっちは沙知さち先生。よろしくね、ハヤト君!」


 へぇ、保育士がいるのか。院内学級もあるんだから、保育園みたいな所もあって当然か。

 俺は妙に納得しながら靴を脱いで上がった。ちなみにスリッパは禁止らしい。大人はいいけど、子どもは動き回るから危ないので、きちんとした靴か上履きを履くように言われている。夜にトイレに行く時とか、いちいち面倒臭いけど仕方ない。


「今日は新しいお友達が何人か増えたから、自己紹介しましょうね〜」


 志保美先生がそう言ってみんなを集め、輪になって座る。


「じゃあ皆も歌ってね〜!」


 そういうと志保美先生は手拍子を始め。


「あ〜なたのおっなま〜え知っりた〜いな! おっしえーてくーださーいあ〜なた〜のなーまえ」


 と、隣の女の子に聞いている。


「池畑リナですっ」

「リナちゃーん、これっから〜もよーろしっくね〜」


 リナという、香苗と同い年くらいの子が答えると、また手拍子しながら先生が歌う。周りの子も何回かやったことがあるのだろう。同じように歌っていた。


「ほら、ハヤト君も歌ってね! 簡単でしょ?」


 いや、簡単だけどさ! 俺、中二なんだけど!?

 幼稚園児や小学校低学年に混じってこんな歌を歌うとか、恥ずかし過ぎる。


「あ〜なたのおっなま〜え知っりた〜いな! おっしえーてくーださーいあ〜なた〜のなーまえ」

「諏訪部さくらですー」

「さくらちゃーん、これっから〜もよーろしっくね〜」


 今度は小さな女の子を抱えたお母さんが答えていた。あんな小さいのに入院してるんだな。頭に柔らかいメットみたいなのを被ってる。怪我してる様子はないけど、なんの病気だろう。

 当然だけど、色んな病気の子がいるんだよな。どんな病気かはわからないけど、それこそ生まれたての赤ん坊もいた。ここにいる全員、なんらかの病気や怪我を抱えてるんだろう。

 そう思うと、俺はいつの間にか手拍子しながら「これっから〜もよーろしっくね〜」と歌っていた。

 病は気からって聞いたことがある。俺がここで歌わずにそっぽ向いたら、どれだけの人を嫌な気分にさせる? ここにいる志保美先生、沙知先生、子どもたちのお母さん、そしてなにより病気で大変な思いをしてるはずの子どもたちを、嫌な気分になんかさせたくない。

 だから俺は笑った。笑って「あ〜なたのおっなま〜え知っりた〜いな!」と歌った。そうしたら皆の笑顔が増えた気がして。俺は身振り手振りを付け加えて笑いを取りながら、ノリノリで歌った。


「あ〜なたのおっなま〜え知っりた〜いな! おっしえーてくーださーいあ〜なた〜のなーまえ」

「島田颯斗ですっ!!」


 最後に俺の順番がきて、大きな声で答える。


「ハヤトくーん、これっから〜もよーろしっくね〜」


 子どもたちのお母さんから、クスクス声とともに温かい拍手が起こった。


「はい、自己紹介ありがとう〜! じゃあ今日は画用紙に絵を描いたり色紙をくっつけたりしまーす」


 そう言って志保美先生が画用紙を取り出す。まさか俺もそれをすんの? と思ったら、隣の女の子の製作を手伝ってあげてほしいと言われてホッとした。

 隣の子は一番最初に自己紹介していた、えっと確か名前は池畑リナだ。


「よろしくな、リナちゃん」

「リナでいいよ、ハヤトお兄ちゃん。リナね、みんなにそう呼ばれてるから」


 リナはそう言ってニッコリと笑った。彼女の頭は帽子で隠されていて、髪の毛が一本も見えない。

 というより、ないんだろう。多分、この子もなにかの病気で抗がん剤を使ってるんだ。


「リナは何歳だ?」

「リナね、七歳になったよ」

「じゃあ、小一か?」

「うん。小学校行ったことないけど」


 小学一年生。学校に行ったことがない。

 その言葉にズンときた。香苗と同い年のこの子は、小学校に通ったこと がない。今は七月も後半だ。小学校に行くこともないまま、夏休みに入るわけだ。


「ハヤトお兄ちゃんは何年生なの?」

「俺は、中学二年生。十三歳だよ」

「へぇぇ。リナにはね、高校生のお兄ちゃんいるよ」

「そうなのか。俺にはリナと同じ小学一年生の妹がいるよ」

「本当に!? 写真見せて!」

「写真は持ってないな」

「スマホはー?」

「スマホを持ってないんだよ」

「なぁんだ」


 そっか、そういや家族の写真もないんだな。今度母さんに持ってきてもらおう。写真を持つとか飾るのってちょっと恥ずかしいけどな。でも長期間会えないんだし、香苗の写真を病室に飾っておこう。


「リナの兄ちゃんの写真はないのか?」

「ママのスマホの中にあるよ」

「そのママは?」

「今、スポーツジムにお風呂に入りに行ってるー」


 そう言ってリナは窓の向こうを指差した。病院の前にはスポーツジムがあって、そこに浴場があるらしい。小さな子の付き添いで泊まっている親は、あそこで風呂に入ってるんだな。

 リナが魚を作ってほしいと言うので、俺は色紙いろがみを魚の形に切ってやった。それをリナが画用紙に糊で貼り付けていく。


「かんせーい!」

「わぁ、リナちゃん上手にできたねぇ!」


 リナは俺が作った色紙の魚を貼り付けた海の絵を、自慢げにみんなに見せている。小学一年生にしては絵も中々うまいし、『いけはた りな』と書いている字も上手だった。香苗は『え』の字が未だに反転したりするからな。


「リナねぇ、海の近くのおうちに住んでるんだよ。おうちはパン屋さんなんだ。だからリナも将来パン屋さんになるの」

「へぇ、家を継ぐのか。立派だなぁ」


 俺が褒めながら頭を撫でてやると、リナはくすぐりを受けた子猫のように目を細めて笑っている。かわいいなぁ。顔は全然違うけど、花苗を思い浮かべてしまう。


「ハヤトお兄ちゃんはなんになるの?」

「俺はサッカー選手だな。もちろん、ポジションはフォワードだ!」

「ふぉわーどって?」

「えーと、主に点を取りにいく人のこと」

「へぇ、ハヤトお兄ちゃんはキックする人なんだ」

「う、うん、まぁサッカーはほとんどキックだから、合ってるっちゃ合ってるけどな……」


 合ってると言われたことが嬉しかったのかニコニコしているので、俺はそれ以上なにも言わなかった。

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