07.色んな病気

「すみません、遅くなりました〜」

「あら、リナちゃんママ。もっとゆっくりしてきて良かったのにぃ」


 隣にいたリナが、志保美先生の言葉に反応して顔を上げる。

 リナのお母さんは先に手を綺麗に洗ってから、リナの所までやってきた。


「リナ、お待たせ。ごめんね、遅くなって」

「大丈夫だよ、ハヤトお兄ちゃんと遊んでたから」


 リナが俺の方を見てニコッと目を細める。それにつられるように俺もニコッと笑い返した。


「ハヤトくん? ごめんなさいね、リナの面倒見てくれてありがとう」

「あ、いえ。俺も暇だったし」

「最近入院したのかな? 退院はいつ?」

「あ、俺、八ヶ月くらい入院って言われてて……」

「あら、じゃあリナと同じね。うちも三月の中頃から入院してて、順調に行けば十一月に退院予定だから」


 三月から……小学校に上がる直前に入院になったんだな。

 入学式にすら出られてないとか、ちょっと……いや、かなり可哀想だ。


「院内学級は行かないんですか?」

「最初の頃は行ってたんだけどね、白血球が下がってくると行かせてもらえなくなっちゃって」

「白血球……?」

「ああ、リナは白血病なのよ」


 白血病の言葉にピクリと耳が動く。俺と同じだ!


「俺も! 俺も、白血病で入院したんだ」

「まぁ、そうだったの。慢性?」

「いや、急性骨髄性白血病だって」

「リナは慢性骨髄性白血病なの。子どもで慢性は珍しいんだって。ハヤトくんも不安だろうけど、一緒に頑張ろうね!」


 俺はリナのお母さん……池畑さんにそう言われて強く頷いた。こんな小さい子が俺と同じような病気になっても頑張ってるんだ。俺が頑張らないわけにいかない。

 どうやら池畑さんは、ずっとリナと一緒にこの病院で暮らしているみたいだった。小学校低学年以下の保護者は、付き添いとして一緒に宿まることを許可されているらしい。


「ハヤトくんはどこから来たの?」

「俺は山中やまなか市から」

「本当? うちは海近うみちか市からなのよ。お隣じゃない」

「え、海近市?!」


 大きくて砂浜が綺麗な海水浴場のある所だ。お隣の市と言ってもバスで三十分以上かかるけど、夏場にはいつも泳ぎに行ってたから馴染み深い。


「俺、何回も海近市の海水浴場に行ったことあるよ!」

「じゃあ、うちのお店知ってるかしら。『うさぎ』っていう海水浴場の近くのパン屋なんだけど」

「『うさぎ』!? いっつも行くたびに買ってたよ! あそこのメロンパン、大好きなんだ! 皮がガリってしてて、大きくて食べ応えがあってさ!」

「うふふ、ありがとう。主人に伝えておくわね。まさかハヤトくんがうちの店に来てくれてたなんて、世間は狭いわねぇ〜」


 本当に世間は狭い、と思う俺の顔は満面の笑みだ。誰も知り合いなんかいないと思っていたこういう所で繋がりのある人に会えるのは、結構嬉しい。


「ハヤトお兄ちゃん、うちの一番のオススメはカレーパンなんだよーっ」

「そうなのか? 食べたことなかったな」

「んもう、カレーパン食べなきゃ許さないんだからー!」

「こら、リナ!」

「わかったわかった! 来年の夏、泳ぎに行った時には絶対カレーパンを買うよ」

「約束だからねーっ」


 プンスカ怒るリナと、小指を絡ませて指切りげんまんする。

 あんまりメロンパンが美味しくって、他のは見向きもしてなかったな。よし、来年は絶対にカレーパンだ。

 そんな決意をしていると、目の前からよろよろと女の子が歩いてくる。まだ歩き始めて間もない感じの、拙い歩きだ。

 危なっかしい、と思っていたら、案の定その子が体勢を崩す。


「危ないっ」


 俺はその子がこける前に素早く手を出し、倒れるのを阻止して抱きかかえる。


「きゃあ、さくらっ!! ごめんなさい、ありがとう!」


 さくらと呼ばれた女の子の母親が、びっくりするほど青ざめて飛んできた。


「大丈夫、さくら!?」

「さくらちゃんって言うんですか? 可愛いですね」


 池畑さんが気軽に話しかけている。四ヶ月もここにいるから、慣れているんだろう。


「あ、はい。諏訪部さくらって言います。入院したばかりで……よろしくお願いします」

「私は池畑です。この子はリナ」


 自己紹介を終わらせると、池畑さんはさくらを覗き込んだ。さくらは俺の腕から逃げるように、母親の諏訪部さんにしがみ付いている。


「可愛いの被ってるねぇ。帽子………じゃなくて、ヘルメット?」


 さくらは布で作られたヘルメットのようなものを装着している。それは女の子らしくピンク色していて可愛い物だったが、明らかに帽子とは異なっていた。


「ええ。さくらは病気で、血液が固まらないようにする薬を使わなくちゃいけなくて。転んだりして怪我をしたら大変だから、布ヘルメットを被ってるんです」


 血を固まらなくする薬……?

 怪我しちゃ駄目って、それって子どもには大変なことじゃないか?

 スポーツも激しいのはできないんじゃ……


「でも、治るんだろ?」


 俺は思わず、そんな風に聞いてしまった。諏訪部さんの気持ちも知らないで。


「……このお薬とは、一生のお付き合いだって先生に言われちゃって」


 諏訪部さんの目と眉毛が、悲しそうに垂れ下がる。

 一生、ずっと、怪我をしないような生活。小一の頃からサッカーを続けてきた俺には、想像がつかない。


「血液をサラサラにする薬……? 私の友達にも同じ薬を使ってる子がいるわ。確か、虫歯すら作っちゃいけないのよね。治療ができないから」


 池畑さんの言葉に、諏訪部さんはコクリと頷く。その目には少し涙が溜まっていた。


「じゃあもしかして……子どもも?」


 またもコクリと頷くだけの諏訪部さん。池畑さんの言っている意味が、俺にはよくわからない。

 ただ諏訪部さんも池畑さんも、ものすごくつらそうな顔をしていた。


「そう……それは、つらいですね」

「女の子なのに子どもを産んじゃいけないなんて……この子が、可哀想で……っ」


 そう言って諏訪部さんは言葉を詰まらせている。

 俺はどこを見ていいのかわからずに視線を泳がせた。するとリナがどこからか絵本を持ってきて、読んでくれとせがんできて少しホッとする。

 俺は絵本のページを一枚捲った。


「昔々あるところに……」

「私の友達も、仕事のし過ぎで倒れちゃってから、同じ薬を飲まなきゃいけなくなっちゃって……」


 俺はリナに絵本を読み聞かせながら耳をそばだててしまう。

 血液を固まらせないようにする薬っていうのは、子どもを産んじゃいけなくなるらしい。子どもを産む時に血が出るからかな。それとも薬の影響を胎児が受けるからかな。

 どっちかはわからないけど、さくらが子どもを産んじゃいけない体だっていうことは確かだ。まだ本人は二歳にもなってないけど、いつか知らされるんだろう。

 それを考えると胸が痛い。

 俺だって子どもができないかもしれないと思った時、めちゃくちゃ絶望的な気分に支配された。結局俺は精子の凍結保存っていう可能性と、治療が終わった後に回復するかもしれないって可能性がある。

 けど、さくらは違うんだ。子どもを作ってはいけないっていうのは確定事項なわけで……

 それをいつか伝えなきゃいけない諏訪部さんも、伝えられてしまうさくらも。

 男の俺にはわからないくらい、めちゃくちゃ悲しい病気になってしまってるんだと思うと、胸の底にしくしくと涙が溜まる。

 俺なんかがなにも言えるはずもなく、絵本を坦々と読んでいると、池畑さんが優しい声を上げた。


「でもその私の友達、今は結婚して幸せに暮らしてますよ。子どもができないことも病気のことも全部理解して結婚してくれた人がいて……二人ですっごく仲良く過ごしてます」

「……本当ですか?」


 ズルッと諏訪部さんの鼻のすする音がした。


「だからさくらちゃんもきっと、いつかそんな素敵な人に出会えて幸せになれますよ」


 また、ズズッと音がして。


「そうですか……そんな人がいるって聞けただけで、ちょっと安心しました」


 俺が絵本から目を上げると、諏訪部さんはさくらを抱き締めながら少しだけ笑っていた。

 今は本人よりも、母親の方がつらいんだろうな。

 母さんも……俺のいないところで泣いてたりするんだろうか。

 俺の、病気のために。


 そう考えると、無性に母さんに会いたくなってきた。

 昨日会ったばかりだっていうのに。まだまだこれから闘病生活は長いっていうのに。

 ガキじゃないんだから、会いに来てだなんて簡単に言えない。そんなこと言ったら、母さんの負担が増えるだけなんだから。


「ハヤトお兄ちゃん、早く次のページぃ!」

「あ、ごめんごめん」


 俺は自分の思考を塗り潰すように搔き消し、絵本のページを捲った。

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