少年のそのあと

僕が若かった頃は

少年のそのあと

 かくして僕は、雑踏の中に在来線の接近放送を聴いた。もし破けたりして中身が飛び散ってしまったりしたらそれもどこか恥ずかしいし、この子たちが僕と一緒くたになる必要もないので、とりあえず手に持っていた体操服が入った手提袋と一緒に重いナップサックを降ろした。その荷物たちが点字ブロックに触れたと同時に、右横のイヤホンをしたパーマの大学生らしい男の人がこっちに目をやったのを感じた。数十m先に眩しいフロントライトを見た。もう少しで列車は僕の前に来るらしい。

そうして、ホームの縁を蹴った。


──点字ブロックがどこかグラウンドの白線に似ていて、昨日の体育の走り幅跳びを思い出した。自分は運動がひどく苦手だったので少し嫌に思えた。もしこれが白線だったら線越えでしっかりとファールなんだけど。同じクラスの高橋くんは、走り幅跳びで全国大会にも何回も出ているとかなんとか聞いたことがある。かっこよくてその上みんなの人気者だったので、顔を見るたびに羨ましく思っていた。自分にできないことができて、持っていないことを持っている子はここまで輝かしいのかと感じていたし、僕の好きな里奈ちゃんもずっと高橋くんと喋っていた。いけない。いくら僕といえどこの世を去る上で最後に考えたことが高橋くんのことだと思うと、少し嫌気が差す。最後くらいは親友のことを考えようと思った。一年の頃から仲良くしてくれた三宅は、ちょっと抜けてるけど憎めない、それでもすごく優しいやつだった。1番思い出に残っているものは去年の冬頃に昼食を買えなかった僕に菓子パンを分けてくれたことだ。あの時の温かみといったら何にも代えられない。それ以来からクリームパンを見る度にあいつのことを思い出すことになった。里奈ちゃんもお菓子を分けてくれたことがあったっけ。クラスが離れてからろくに話せてもいなかったから、もう少しだけでも喋っておけばよかったと少しだけ後悔した。でも、今僕が欲しているのは三宅でも里奈ちゃんでもなく、もうすぐそこに迫っている鉄塊、体温を奪う鉄塊、光。それらが愛おしくすら思えた。うまいことこの燻んだ銀色に僕の身体がクリーンヒットしたとして、その僕だったものはどこにいくのだろうと考えた。おそらく四方八方に塵となって、赤い何かとなって飛び散るのだろうけど、もうしそれを僕のお母さんがそこの道で拾ったとしたら、それを僕と認識してくれるだろうか。三宅くんだったら、里奈ちゃんだったら、あの時の担任だったら、僕とわかってくれるだろうか。或いはちょうど出勤するところだったスーパーの店員に拾われて、店に陳列されるのもいいかもしれない。お勤め品としてはちゃめちゃに安く売られたらどうしようかなと、僕に値段をつけられるその瞬間を目の当たりに出来ないことが悔やまれた。四散した骨は煮込まれていずれ濃厚でクセの強いどろどろのスープにされ、いつしかそれが僕という人間の骨であることに気づかれないまま家系と呼ばれることになる。勤務帰りの中年男性に啜られ、高校生の団欒の餌食になる。それか僕の肉片が空を舞って、改札を通って、雑踏をかき分けて、階段を降りて、地下通路に吸い込まれ、ホームレスのお爺さんの下へ行ったとしたらどうなるだろうか。美味しく食べてくれるといいんだけれど、そんなものを食むくらいだったら蛇の死骸でもしゃぶっていた方がいいだろう、と考えるのも今の時代はポリコレ違反になるのかもしれない。いいじゃないか、食うものがなくて飢え死ぬよりも。苦しみに襲われることなんかより、生きていた方がいい。生きるって素晴らしいんだ。とは言っても一概にはそうは言えない。この国みたいな豊かさを持った環境であればいいものの、世界中では貧しさに苦しむ人だってうんといる。戦争に駆り出される人だって山ほどいる。ただ、そういう人たちを救うというのが欺瞞であって偽善であるとも言い切れず、もしかしたら本当に活動者の人たちがそういう利己的な感情を持っていないとも言い切れないが、僕なんかにはそんなことはできない時点で世のための偽善というものが成立する。列車の汽笛の音を聞いた。それはもう途轍もない爆音で、今生きている人の中では僕が1番大きい音量で汽笛を聞いた人になると思う。それもあと一秒もせずにその座を降りることになるんだけど。いや、列車の点検をしている人の方がよっぽど大きい汽笛を何回も聞いたりしているだろう。おそらくそれは僕とは比べ物にならない、それも職業としてやっているんだ。生きるためにそれをしているのに、僕はいま、その生を線路に投げ捨てるためにそれを聞いた。高校生なんか生きているだけでいいのに、僕はそれを捨てた。でもそれがダメだとは言わせない。多様性の社会、ポリコレ、コンプライアンス。その言葉の前で「ダメ」だとか言ってみなよ、各方面からメチャクチャにされる。SNSに投稿されているような「自殺をひき止めて表彰」みたいなニュースのコメント欄にもそう書いてあるだろう。それを僕は盾とする。そもそもこの辺りにホームレスの人々なんていないことに気付いた。平和なのか、そうでないのかはわからないけど、とりあえずこの綺麗な街とおさらばする。老人ホームは多い街だった。所属していた合唱部の活動で訪問したことがあるけど、アホみたいな老人ばかりだった。というとまたコンプラに反するだろうか。クソ喰らえ。治安の悪い街。合唱部に所属するにおいて1番もの悲しいのは「この部活は運動部か文化部か」という論争に一切の参加権を与えられないことだ。稀に山岳部とかがこっち側に放り込まれるときがあるが、本当に断固拒否といったところだし、特にもともとこっち側の吹奏楽部とかは屡々対象になる。そもそも文化という言葉は運動という言葉と対になるわけじゃないし、どちらかというと運動は運動という文化、といったほうが正しいとすら思う。その運動とやらができない僕は文化部失格なのかも知れないとは考えたけど、文化というものはある種ひっそりと守られて存在するものだと思う。一般の人々の生活に溶け込む文化はいずれは習慣と呼ばれることになって、だんだん生活と一体化していく。僕はそれがいいことだとは思えない。わかる人にだけわかれば良いのだ。まだ汽笛は続いている。ふっと前を見ると、反対側のホームに立っていた同い年くらいの女の子がこっちを向いて口を開けていた。反応が早いけど、多分こっちを見ない方がいいとは思った。いや、出産シーンで感動するくらいならば、その反対のシーンでも感動するべきだと思う。生と死は表裏一体で、それぞれそれ以外の何者にもならず、ただ生物がそれを迎えるのを待つ。そもそも生も死も人生においては一つの点として見れば大したことがないわけで、それが大きなものとされているのは宗教学的なところだけだと思ったけど、生物学的な観点から見ても「始める」「止める」というところなので小さくはないのかもしれない。いや、出生が「始まり」だけとするのは間違いなのかもしれない。母体が妊娠し、僕たちが受精卵として内包される時点でそれは「生」とも言えるし、或いは「死」とも言える。胎児には胎児なりの人生観があって、死生観がある。釈迦は天上天下唯我独尊と唱え、キリストは臍の緒をつけていたときから救世主と呼ばれた。いつも優先席に座る妊婦の子供だってもしかしたら世界征服とかも企んでいるかもしれない。そういうものを今から、その概念を、たった今から僕が自主的に迎えにいくというのに、どこが悲しいんだ。17年とちょっとの人生に幕を閉じるだけなんだぞ。ただ、幕を閉じる、というのは少し的外れで、幕が閉じるならばそれ以降にまた開けられるべきで、僕が何回、何十回、何百回、何千回、何万回、何億回、何兆回、何京回、えーっと、何垓回、輪廻転生を繰り返してもその瞬間が来ることに確証がないわけで、もしかしたらここで閉じられたらそれっきりだし、もしかしたら閉じたらそれなりにまた子宮から再開されるかもしれないし、もしかしたら閉じることもなく、スーパーマンが僕をここから救って、連れ去って、星空の下で一緒に飛んで、恋バナでもして、今まで救ってきた武勇伝を長々と話されて、強敵と戦った時に敗れたマントをしぶしぶ僕が直すことになって、ミシンを買って、玉留めと玉結びを教わって、執事になり、全ての家事をこなし、そんなこんなで家族の下へ帰してくれるかもしれない。そんなヒーローははなからごめんだけど。もし転生モノのラノベみたいに僕がこの世界じゃないどこかへ擬似的なワープをしたとしたら、それは閉じたと言えるのか、開かれたと言えるのか。灯ろうかとどぎまぎしている客電を憂いている暇は少しも無い。照明係よしっかりとしてくれとは思うけれど、僕自身が稚拙である以上はそんな文句は言えるわけがない。月五千円のお小遣いでやりくりしている男子高校生の演技はそんなもんだろう。と思っていると、甲高い叫び声が聞こえてきた。さっきこっちを見ていた女の子だ。まだ僕と車掌とは距離があるのに気が早い女だ。こういう人に殺されて、生かされる。ここでその話をするにはやっぱりホーム上で気にかけてくれた男子大学生のことは放っておけないわけで、あの人がもしあの時あそこで僕に声をかけていたら少しは変わったかもしれないけど、そんなのは迷惑でしかない。もしあそこで声をかけられていたら踏み留まるでも咽び泣くでもなく、恐らくあの大学生と心中していた。恐らく大学生の肩を掴んで、一度投げ飛ばしてから後を追って飛び込んだ。正確にはスーパーマンが参上する可能性も捨てきれないから心中ではないかもしれないけど。一緒に心中もどきをして、大学生のチリチリの髪に僕の肉片と脂肪が絡まり、僕の制服に大学生の体液という体液が染み込む。どっちがどっちのものなのかも分からなくなって、僕もあの大学生と一緒に忘れられて、僕は大学生になって、大学生は僕の高校に通うことになる。三宅はその大学生と仲良くする。僕は美容院で定期的にパーマをかける。そう思うと、あの大学生の顔つきにイライラしてきた。やけにチリチリした髪に一重、高い鼻、色素の薄い唇に目立つ痘痕。万が一、億が一、兆が一、京が一、垓が一、えーっと、僕が踏み留ったとしても、今なら僕はあの男を突き落としていた自信がある。そうして僕は大学生の眼球を飴玉にしてコロコロ口腔内で遊ばせる。でも今更そんなことはできない。少しだけ鉄塊との距離が縮まった気はしたけど、残念なことにまだ猶予がある。ただ、今の所言えることといえば、ベストタイミングだったということだ。僕がこの鉄塊に肉塊にされ、スーパーに並んだとしても、それが売れてくれるだろうか。もしショッピングモールの片隅にある串カツ屋で僕が詳細不明の食材として出され、それがお客さんにうまくカラッと揚げられ、口に運ばれたりもすればいいが、いや、店側が出してくれたとしても客側の揚げ技術が最悪で油だらけのベチョベチョに、まともに火も通ってないので人肉特有の繊維質が歯に挟まって気付かれるなんてことになるかもしれない。やはりスーパーにでも並べられればいいが、否。無論人肉などは売れない。恐らく得体の知れないものだから、せっかくだから黒毛和牛として売ろうと店側は思うだろう。そうして僕は黒毛和牛のサーロイン、100g千八百円で売られることになるかもしれない。そうすればお勤め品にはならないだろう。そうして僕は温かい家庭に潜り込み、運動会を頑張ったからという子供のためのパーティに潜み、父が焼いたステーキとしてその妻と娘に振る舞われる。パーティなので、妻も娘も、焼いた張本人であるその父もいつになくフォークとナイフを使って食べ、揃って頬を落とすことになるだろう。ただ、僕はこの特別な場合だけフォークとナイフを使って食べるということには反対で、というよりも、間取りも家具もその空間の全てが洋で構成されているところにおいて、日本伝統の箸を使って食べることが非常に気味が悪いと思うのだ。その行為を和洋折衷とでも呼べば反吐が出る。もちろんそれが食べやすいからと言われればそれまでだが、その生活の中で急に洋の世界に入り込もうとすることが気持ちが悪い。それならば和室で囲炉裏を囲んで箸で仮称サーロインステーキを食らえばいい。かぶりつけばいい。僕を骨の髄まで、脂身まで、焼け焦げた一つ一つの細胞と中にこっそりとある少しの赤身まで、僕の気色悪いこの心情まで、その家庭全員にしゃぶって貰えばいい。血液かリンパ液か胆汁かわからないような肉汁でソースを作って、啜って貰えばいいわけだ。そうして僕はその家族と暮らしを共にする。それが無理なら野良猫にでも貪って貰って、世界を旅する。それで成り立つことだってある。ただ、僕がサーロインとして一生を終える上で拭いきれない懸念というものが、その家庭が里奈ちゃんの家庭かもしれない、ということだ。もし里奈ちゃんの家庭の食卓に並ぶとしたら、里奈ちゃんのお父さんとお母さんと弟の雄太くんの分を柔らかくして食べやすくし、里奈ちゃんの分だけは噛みきれない筋のある、汁だけが出る嫌な肉にして、いつまでも咀嚼をしてもらう。いつまでも唾液を纏わせてもらう。もし飲み込まれるようなことがあったらプリオンのあーだこーだでどうにかなってもらい、いつかどろどろになったその憧れの肉とその日から火がついて熱されたままのフライパンに一緒に飛び込む。僕だって半ばミンチみたいなものになると思うから、それでハンバーグステーキが完成され、実質的に一心同体になる。お互いの体液を垂れ流しながら、どっちのものかも分からないままに暮らす。ふう、なんとか解決できたが、もっと根本的なところにまだ懸念が残っていた。万が一、億が一、兆が一、えーと、京が一、それから垓が一、僕がこの鉄塊に激突せずに先に線路に落ち、車輪に轢かれるようなことがあったら。その時は車輪と線路の摩擦熱で既に焼かれることになるかもしれない。僕の髪の毛だって、あの大学生みたいなチリチリになるかもしれない。僕の擦られた体液はその熱で蒸発し、臓物はうまいこと自分のチリチリに絡まる。そうなってしまうと、僕の肉塊は宙へ舞わず、ホームレスのお爺さんの下へも行かず、温かい家庭にも届かず、ただ僕だったものが線路と砂利に広がるだけかも知れない。それだけはどうにかして避けたい。命が無駄になるというものだ。車掌と目があった。目だけを見開いた、滑稽な表情だった。ひどく滑稽で、笑いが止まらなかった。まだまだ汽笛は鳴っているけれど列車は止まらない。恐らく止められない。ここのへんで辞世の一句でも読むことができればかっこがつくんだけど、どうにも頭が悪いからそんなこともできない。ここらでフェルマーの定理を解くことができればかっこいいんだろうけど、一次関数も分からないからできない。この辺でアクロバティックな回避ができればと思うけれど、あいにく運動神経が最悪。英語で決め台詞を言えたらいいんだけど、順位は万年ビリ。落ちこぼれだからできない。でも、僕だって肉片になって飛ぶことはできる。いつまでも見つからないままに駅の砂利に、商店街のタイルに潜むことだってできる。それか、列車の先頭に張り付いたまま過ごして、江戸川乱歩の作品の如く人間列車として暮らすことだってできる。大学生にこびりつける。ホームレスの食事になる。コンビニの菓子パンとして陳列され、三宅の糧になる。僕だったものがどこかでタンパク質になって、プロテインとして高橋くんを育てることができる。温かい家庭に運ばれ、一家を繋げられる。里奈ちゃんと一心同体になれる。僕が肉塊になることで、赤に変貌することでみんなどうにかなる。

 どうにかなるけど、真冬の線路は冷たかった。

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