義夫
玄関の戸を開けると旨そうな臭いが飛び込んできた。
しかし出迎えたのは妻の利子ではなく、見知らぬ男…土気色の荒れた肌、こけた頬、目だけが大きく見開かれ気味の悪い輝きを放っている。
体は骸骨のように痩せ細っているのが、服を着ていても察せられる。
「誰だ?!お前は?!」
思わず後退り、義夫は警戒した。
「誰って、冗談やめてよ。」
見知らぬ男は肩をすくめた。
「まさか…健児か…?」
今日、いきなりかかってきた健児からの電話、その内容を思い出した。
まさか本当に覚醒剤をやっているのか?それでこの姿…
「何驚いてんだよ、まあとりあえず入りなよ、飯食うだろ?」
入りなよって、ここは俺の家だぞと思ったが、何も言わず健児の後に続いた。
健児の変わりよう、そして疑惑で頭がいっぱいだった。
「ただいま…あれ?父さん…」
玄関の戸が開く音がしたので振り替えると、次男の信二だった。
信二は義夫の名を呼びながらも、視線は健児に釘付けだ。「父さん、その人誰?」そう聞いている様だった。
「信二も帰って来たのか、ちょうど良かった。」
「え…まさか…」
信二の表情と体が固まる。おそらく自分と同じ事を考えたのだろう。健児はきっと、信二にも同じ内容の電話をかけたはずだ。
テーブルにつくと、健児は上機嫌に深皿に注いだスープとバゲット、サラダを並べた。
バゲットとサラダはともかく、スープはやたら肉が多く脂っこくて生臭い気がした。
信二も同じ感想らしく、一口食べてスプーンを置いた。
「せっかく作ったんだから全部食べてよ。」
健児が口を尖らせる。
異様な容姿でこんな仕草をする様は、非常に不気味だった。
健児の言う事や頼み事など相手にしないのが常であったが、今はこの長男が恐ろしい。
義夫はスープを掻き込んだ。隣では、信二も眉間に皺を寄せながら懸命にスープを貪っている。
ブヨブヨとした肉や生臭い液体を流し込みながら、義夫の脳内は不安でいっぱいだった。
目の前で不気味な笑顔を向ける長男は、確実に覚醒剤をやっているだろう。
覚醒剤は違法薬物だ。警察沙汰である。
新聞やニュースの一面に健児の名前や顔写真が載る未来…苦労し手に入れた教授の椅子を失うだろう。
それだけでは済まず、もうここには住めない、いや日本全国どこへ行っても悪評から逃れ得ない…
背筋が寒くなった。
「…母さんは?」
信二が遠慮がちにたずねる。
そう言えば利子の姿が見当たらない。
「いるよ?ここに。」
健児が「何言ってんの」とでも言うように、台所を指差し答えた。
「母さん?」信二が利子に呼びかけながら、台所を覗きに行った。
「ぎゃああああああ」
天井にまで響きそうな叫び声をあげ、信二がその場にへたり込む。
目は台所の方に釘付けだ。
まさか…
嫌な予感を否定しながら信二のいる場所へ行くと、シンクの上に利子の顔が見えた。
顔だけが。首から下が無い利子の顔は眼球が飛び出さんばかりになり、長い舌が飛び出している。
コンロの上にはスープの入ったポット、血塗れのまな板には肉片が散らばり、プラスチックの破片の様なものがまとめてある。
よく見ると、それはプラスチックなどではない。爪だ、おそらく利子の。
そしてスープの中には…俺たちが食べた、ブヨブヨとした肉は…
義夫はその場で嘔吐した。背後で信二も嘔吐している。
もう吐くものが胃液しか無くなった後も、えずくのを止められなかった。
「母さん便秘気味だったみたいでさ、腸の処理が大変だったよ。
でも安心してよね、スープの中に汚物は入れないようにしたから!ちゃんとトイレに流して処理して、掃除もしたから臭くないでしょ?」
気付くと健児が台所の入り口に立ち、誇らしげに胸を張っている。
こいつはもう駄目だ…外に出すわけにいかない。
昔なら座敷牢にでも閉じ込めておけば良かったが、うちにはそんな便利なものは無い…
くそっ、それに似たものを作っておくべきだった。
どうすれば良いんだ、秘密裏に病院に一生閉じ込めておいて、利子は見知らぬ変態に殺された事にできたら…
ガツン、と大きな鈍い音がして義夫は現実に引き戻された。
健児が信二に馬乗りになり、おそらく台所にある某を手にして殴っている。
覚醒剤の効果なのか見ているだけでも、今の健児が圧倒的な力である事が分かる。信二はなす術もなく、悲鳴をあげる事すらできない様だった。
「ずっと…俺を馬鹿にしやがって…」
健児は殴っている間、ずっとぶつぶつと呟いており、顔は無表情でしかし目だけが嬉々と輝いていた。
義夫はへたり込み、震えながらその悪夢から目を反らす動きすらとれない。
信二の顔はもはや原型をとどめておらず、顔のパーツがどこにあるのかも分からない程で、まるでケチャップでもぶちまけた様だ。
それでも手足が痙攣しているあたり、息はあるのだろう。
信二に馬乗りになっていた健児が、すくっと立ち上がり、義夫の方を見た。
背筋が凍り付いた。
腰が抜けて、立ち上がる事すらできない。
必死に後退るが、出口は健児のいる方角で逃げ道は無い。
「け、健児…健児、すまなかった、もう止めてくれ、頼む!」
何をすまないと謝っているのか自分でも分からなかったが、とりあえず健児の気を宥めるため必死に命乞いした。
しかし健児は「陛下…陛下…分かりました…」と上の空でぶつぶつ呟いており、全く耳に届く様子が無い。
義夫の前まで来た健児が右腕を大きく振り上げた。
目の前が真っ暗になり、鈍い痛みが走った。
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