健児

外に出ると、茜色の光が飛び込んできた。

一歩も外に出ておらず、カーテンも閉めきっていたので分からなかったが、今日は天気が良かったらしい。


マンションの廊下やエレベーターでは誰にも会わなかった。

残念だった。常日頃は無愛想に目も合わさず、聞こえているのかも分からぬ声で挨拶していたが、今日のこの最高の気分なら、爽やかで気の良い挨拶ができると思ったのに。


誰かいないだろうかと、周囲を見回しながら移動する。自然、鼻歌を歌っていた。

エレベーターが一階に着きドアが開くと、目の前に住民らしき人物が二人待っていた。


「おはようございます!」


満面の笑みで挨拶すると、二人とも目と口をまん丸にし「こ…こんばんは…」と遠慮がちに言って、そそくさとエレベーターに乗り込んで行った。


悪い気はしなかった。二人の恐怖に歪んだ顔を、シャブの効いた健児の脳は好意的に受け取った。


鼻歌を歌い、スキップしながら最寄り駅へ向かう。

鼻歌の曲名は高貴な自分に相応しく、クラシック、「エリーゼのために」だ。


通りすがる人、手当たり次第に笑いかけ手を振った。

皆、目を背け足早になるべく自分から遠ざかろうとしているのが面白かった。


久々に足を運んだ実家。定期的に改装しているのか、崩れの見られない漆喰塗りの日本家屋、ドアベルを鳴らすと母親らしき声が聞こえた。


「俺だよ、健児だ。久しぶり、母さん!」


元気良く呼びかけた。

少ししてドアを開けた母親が、目と口をまん丸にし驚愕の表情を浮かべている。


「け…健児?健児なの…?」


母親は信じられない、とでも言う風に健児の姿を頭から足先までじろじろ見ている。

一体何をそんなに不思議がっているのか、自分の何がそんなに物珍しいのか分からず、健児は首をかしげた。


呆然とする母親の横をすり抜け、健児はリビングに入った。母親が追いかけるようにして後へ続く。母親の表情は未だ驚愕に凍り付いていた。


「皆に教えてあげたい事があってさ。父さんと信二もいる?」


「多分…もうすぐ帰ってくると思うけど…」


父親と弟、信二は自分の素晴らしい知らせを馬鹿にして一蹴した。

しかし母親は聞いてくれるかもしれない。


「母さん、母さんにシャブの素晴らしさを伝えに来たんだ。」


「シャブ…?シャブって覚醒剤の事…?健児、あなたまさか…覚醒剤をやっているの?」


母親が怪訝な表情になった。


「すごいんだぜ、これ。何日寝なくても平気だし、悩みやネガティブな感情も全て…」


「やめてよ!何考えてるのよ?!」


「でも母さん…」


「でもじゃないわよ!こんな事…お父さんに知られたら…周囲の人達に知られたら、何て言われるか…

どうして…どうしてあんたはいつもそうなの?!何で私の足を引っ張るのよ?!」


しっかりと黒く染め、束ねた髪を振り乱した母親が狂った様に叫ぶ。


「…陛下。」


「陛下?あんた何を言っているの?」


健児は母親ではなく、彼女の隣にいる何かをじっと見ている。

そしてぶつぶつと一人で何か呟き始めた。


「陛下…分かりました…」


「け、健児…?一体…」



健児は虚ろな、しかしやたらギラギラとした目を母親に向けた。






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