健児

繁華街の雑踏を抜けて、健児は人気の無い路地裏に入った。

周囲の店は皆、既にシャッターを下ろしており、路地裏は月明かりに照らされ薄暗い。

携帯電話を取り出した時、すぐ隣で物音がし、心臓が止まるかと思う程の衝撃を受けたが、目の前を一匹の溝鼠が走り過ぎ安堵の溜め息を漏らした。


暗く、不潔で湿気た路地裏。かつての自分には足を運ぶ事など考えられなかった場所だった。


健児の家は由緒正しい旧華族の家柄だ。

父は地元の名士でもあり、有名大学の教授に就いている。長男である自分が後を継ぐ事になっていた。しかし成績芳しくなく、かといって運動神経も優れず、また人望を集める才能も無かった健児に父は早々に見切りを付け、弟が後を継ぐ事となった。

幸いにして弟は父の期待通りに育ち、次期教授は確実とされている。


お払い箱となったにしろ、自分の息子である以上それなりの役職に就かせなければという体面を重んじる父の計らいによって、健児は宮内庁に勤める公務員となった。


父に見限られたにせよ、健児には旧華族というプライドを高く持っていた。

宮内庁職員というのも、なかなか人に自慢できる職業だと思っている。


そして才色優れずとも、家柄や職業により彼には花嫁候補が列を成している。

女は現実的である事が多い。彼女達は弟のような男は倍率が高いと知っている。また、自分のレベルでは射止める事は無理な事も。

なので、自分のような出世の見込みが無く男性的魅力も劣るが、それなりの金銭を安定して稼ぐ男は婚活市場においての需要が低くない。

弟に群がるハイクラスな女達に比べればかなり見劣りするが、自分の機嫌を取り下手に出る女達の姿は健児の自尊心を満足させた。


しかし今、下手をすればそれらを全て失う事態だった。


周囲を見回し耳を澄ませ、誰もいない事を確認してから電話をかけた。


三回のコール音で相手は出た。


「約束通りにやってきた。」


「そうか。また何かあれば、こっちから連絡する。」


「なあ、あの写真は返してくれないのか?!」


「写真を渡したところで、あんた安心できるのか?」


男の言う通りだった。数枚写真を渡されたところで、コピーが手元にあるであろう疑念は消えない。


「俺があんたにできる事は、どこにも誰にも流出させないって事だけだ。

忘れるなよ、あんたが共犯だって事を。」


そう言うと、男は一方的に電話を切った。


ガックリと項垂れ、そこが不潔な路地裏である事も忘れ健児は座り込んだ。


数週間前、健児がマッチングアプリで会った女子高生とホテルに入るところを撮った写真を見せながら、一人の男が脅迫してきた。


「コネで警察沙汰は逃れられるかもしれねぇが、確実に首だろうな。」


男は写真を近隣に張り付け、職場の同僚や実家に送り付ける、と言った。

同僚や近所からの冷ややかな視線、父の蔑視、弟の嘲笑が目に浮かび、健児は何でもやるからやめてくれと懇願した。


男の要求は金ではなかった。そして金である方がマシだった。


父に見限られ、弟に見下され、それでも出自の良さと宮内庁職員という立場が健児の自尊心を支えている。

こんな事が知れたら勘当は間違い無い。いや、父は怒る事すらしてくれないかもしれない。

職を失い、醜聞が広まり、列を成していた花嫁候補達も蜘蛛の子を散らすように消え去るだろう。

もう誰からも感心を持ってもらえなくなる、誰からも見向きされなくなる。


恐ろしかった。健児には、被害者になるやもしれぬ人々への心配や罪悪感など微塵も無く、ただ自分の犯行である事がばれぬよう、強く祈った。







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