第四章
八月
うっすらと冷えた夜風と会釈を交わしながら家路につく。時計はPM11:12を指している。塾が終わるころには日中の皮膚を劈くような暑さの影は何処にもない。この時間にもなれば車の走行音が聞こえることもなく、家々の電気は静まり、控えめな街灯と風で揺れる木々の葉のメロディーのみが世界を彩る。高校に入学した直後は心労が絶えず、趣を感じる余裕などなかったが、今ではすっかり顔なじみだ。とはいえ、肉体への負荷による疲労感は相変わらずで、肩から足先に至るまで筋肉が執拗に張っている。正直すぐにでもベッドに身を委ねたいところではあるが、間違いなく今日も母さんは冷淡と小言を並べるだろう。矢庭に悠然と下界に光を垂らす月に目を向けてしまう。身構えるようにゆっくりと玄関の扉を開けると、いつものように温かみのない「おかえりなさい。」という母の言葉に拭いようのない嫌悪感を覚えるものの、「ただいま。」という言葉をなんとか絞り出す。そそくさと片付けを済ませ、シャワーを浴び、寝間着に着替え、テーブルに置かれた食事を淡々と口に含み、食器を洗うと、足早に部屋に身を置く。この頃、世の中に酷く失望している自分がいる。世に蔓延る規則や価値観、それらによって自らを正当化し、他者への批判を平然と遂行する者。自らの真価を年齢という枠組みによって大きくはき違える、大人という枠組みに位置付けられている人々。ネット社会であるが故に、情報の選択が容易ではない現代において、それらを嘲笑するかのような胆力を持つべきであるというのは考えるまでもなく理解している。だが誰よりも愚かなのはそれらに対して激しく煩わしさを感じ、我をも忘れて批判に感ける己なのだ。教養が明らかに人足らずでありながら浅はかな物言いで誰に言うでもなくひとり喚き散らす自分がなによりも愚かであり、空虚な身分であることを自覚する度に不安に苛まれる。少しでも気を紛らわそうとガラス戸をサッと開け、湿り気が残ったベランダに出る。そういう季節であるからだろうか、いつになく星屑が絶え間なく瞬いている。当たり前のようにそこにあるはずの情景はきまってこういう時ほど優しさを振りまくのだから、たいそう気ままな性分に違いないとか、彼方とついつい呼んでしまうなどという具合に触れようとしてしまう。閑静とした夜に浸っていると、不意に夕日さんといる所を目撃したという生徒、そしておそらく彼女についてであろう噂話に興じていた生徒とのことが頭によぎる。「どうにかしてしまおうかな。」その瞬間突如として悪寒に襲われる。その言葉を口にした一瞬に、僕は今までにないほど晴れやかな心地がしたのだ。
風がおどける夜はむず痒くってなんだかうまく寝つけない。そういう時、ふと、もの思いにふけってしまうことがよくある。今にして思えば、いつからだろうか。時折世界がどうしようもなく広く見えてしまう瞬間、否が応でも自覚させられる虚しさを埋めたい一心で何かにすがるようになったのは。あれだけ苦手だった缶ビールが手元にあるだけで、手を差し伸べてくれているような妙な心地よさに身を捧げるようになっていた。けれど快楽に満たされるのはほんの一瞬で、酔いが冷めるころには行き場のない閉塞感に酷く苛まれる。そういった意味では、晴君には深い馴染みがある。彼の傍にいるときは、周りの人間や建物でさえ情景のアクセントに過ぎない。彼の首元の刺激的な匂いに弄られ、気遣ってくれているのか微かに震える優し気な言葉に愛撫され、思わず溢してしまいそうになる彼の染料をやをら少しづつ融解させる時がなによりも愛おしく、夕日が沈み、秒針が時を刻むたびに薄れる彼の影を名残惜しそうに見つめる自分にどうしようもない絶望感を抱いてしまう。それでもやはり、救いの無い世に打ちのめされる度に優しさに犯され、乱雑に壊されてゆく身体から感じられる痛みを意識させられるたびに、自分の存在が現世と繋ぎ留められているかのような啓示を告げられているような気がして、そんな快楽は私の至上であり、それを求め、愛することで死へと近づくことは、何よりも私の生を証明する唯一の救いであると、そう納得しつづけなくては、今度こそ手放してしまえば、私は一体どこに逢着したら許されるのだろう。
日が道草を食うこの頃になると、夕日が常より長くそこに在るせいかいつもより胸が透く。そういうときほど自分に素直に振る舞ってしまうから、浮世離れしないよう加減するのが難しかったりする。夕方といえば、無邪気な彼女のことだ。正面から逢おうものなら身を潜め、出し抜けに悪戯を仕掛けて僕の慌てふためく様子を見てひどく満足するんだろうな。ふと口元がほころび、つられるように笑い声が口からこぼれる。いつになっても不思議だ。彼女のこととなると心底気持ちがいい。ほんとうに、落ち着く。このひと時に浸かる間だけは夢心地で居られる。一日、ひと月、ひととせ、と時間が経つ度に、世俗に置いて行かれるような、抗いようのない不安に怯え、時々ふと、生死の境さえ見失いそうになる。そのせいか、痛みや快感、そういった間違えようのない身体反応を感じるたびに、自分が生きていることを示してくれるような気がして。けれど、快楽と引き換えに襲ってくる絶望感が精神を侵食する度にもがきながらも離さまいと握りしめた一粒の希望が、砕かれるのを目の当たりにしていくうちに、僕は幸せを見失った。彼女と出逢うまでは。夕日さんで満ちたこの時だけは、生きていてよかったとおもえる。気づけばとっくにコンビニに着いていて、目の前に見えるエンジンが冷え切った軽車両の影にほのかに温もりを感じる。かすかに聞こえるいたずらな笑い声に、おもわず口を緩ませてしまう。堪えるように口を手で覆い、彼女を驚かせようとゆっくりと背後に回る。
玄関をくぐり抜け、足早にマンションの階段を駆け下り、コンビニへと足を急ぐ。時計は17:18を指している。日が地平線でたなびくこの時が好きだ。風流であることは言うまでもないのだけれど、それ以上にこの時は私の拠り所なのだ。空気が薄く、温かみのある茜色の空模様。この時だけは、何者よりも自由でいられる。仮にその想いが眉唾物だとしても、仮初めだとしても、あと少しだけ浸っていたい。彼に愛想をつかれるその日まで。けれど、罪を犯した自分が彼に逢っていいのか、そう自問するたびに、黄昏時の主に許しを請うように懺悔する。彼には罪の残穢を纏ってほしくはないから。導かれるように夕日が零れる道を進むと、そこにはいつものようにコンビニが佇んでいた。けれど、いつもと少し違って見える。どうにも滲んでよく見えないのだ。どういうわけか足を踏み入れることが出来ない。気づけば私は両手で目を塞いでいた。それでも生温かく、それでいて寂しい雫は私の決意に目もくれず、淀みなく溢れた。何もかもが私を苦しめる。でも、私にはその苦しみがふさわしいのだと思う。だれよりも醜いのだから。こんな時ですら、彼なら私を慰めてくれると願い、確信している。やっぱり私は卑怯だ。不意に荘厳とした夕日が目に映る。夕日さん。彼が、誰よりも愛おしい晴君が名づけてくれた愛称。彼の風貌に似つかわしくない笑顔が脳裏に浮かぶ。取り繕うように目元を擦り、息を整える。やっぱり私は彼が好きだ。
いつか現れるであろう僕を捉えようと屈んでいる彼女を見つける。正直もう肺が苦しいくらいに笑いを堪えていて、今にでも大笑いしたい所ではあるけれど、彼女を驚かせるその瞬間までは何とかして堪えたいという謎の意地が僕を諭す。笑いを漏らさないようゆっくりと彼女に歩み寄り、彼女に合わせるように身を低くし、丸まった背中の真ん中あたりを人差し指で差し込むように突く。「ヒャワー」という甲高い声が漏れるとともに、よろめいたと思ったら仰け反り、そのまま僕を巻き込むようにして倒れ込んだ。コンクリートに打ち付けられたものだから妙に身体に痺れが響く。いきなり彼女は僕の頬を両手で包み、「大丈夫?ケガはない?」と不安げな表情で優しく見つめる。目まぐるしい速さで罪悪感が巡り、「僕の事なんかより夕日さんは大丈夫ですか?ケガしてませんか?」とうろたえてしまう。すると彼女はより顔を近づけ、真っ直ぐな表情で、諭すように「僕の事なんか、じゃないよ。」と言い放つ。僕は思わずあっけにとられてしまう。衝動的なものだったのだろうか。彼女はハッとした表情で言葉を取り繕おうとしているのか、視線が定まらない。「ごめんね、つい。」物憂げな顔色でそう言いながら視線を落とす。「でも嫌だよ。君には自分を否定してほしくない。」そう口にする彼女の深く沈んだ瞳はどこかみていて苦しそうで、もがいているように想えた。どうして彼女の言葉を拒むことなどできようか。「ありがとう。夕日さん。」そう伝えると、顔を緩ませ、胸を撫でおろしたように見えた。またもや彼女は視線を合わせると、「でもびっくりした。まさか隠れてるのがバレてるとは思わなかったよ。」と、時折魅せる天真爛漫な笑顔でそう呟く。「夕日さんのことだから今日も悪戯仕掛けてくるんじゃないかと思って、今日のは今までの仕返しです。」と、どこか上手に立った気がして自信気になる。それに気づいたのか彼女は悔しそうに「ちぇ。驚かせたかったのになぁ。」そう言いながらもどことなく嬉しそうで、思わず僕も頬をを緩ませていた。けれど、胸の何処かでもどかしさを覚えてしまう。情欲から煽られてのものなのか、あるいは焦りからくるものなのか。その分別が出来ないでいるのをある日から漠然と責め立てれているような気が、彼女の色に酔いしれるほど自覚させられる。それでも、僕は不安から目をそらすように酔い続ける。たとえ、醒めない酔いが毒であるとしても、溺れているうちは生きている心地がするから。
いつものように他愛のない会話を交わしながら、戯れ、それでいて初恋の様な初々しさと心遣いに満ちるその様は、他人から見れば馬鹿々々しくて取るに足らないものなのだろうけど、触れるたびに、言葉で撫で合うたびに熱くなって周囲がぼやけていて、乱されるように心が揺らめいて、何度でも突き刺す憂いを薄めるように染めて欲しい想いで彼を求めてしまう。けれど、そんな狂乱じみていて汚れた想いを悟られてしまえば、この関係はあっという間に崩れるんじゃないかと考えると、どこか一歩踏み込むことが出来ない自分がいる。より多くの時間を過ごすほど、知らず知らずのうちに、心の距離を感じてしまう。一人焦る私に人目もはばからず濃密に甘い言葉を注ぐ彼の優しさが時々、辛い。いつだってそうだ。幸せを感じるほど同じくらいの辛さが押し寄せる。生きているかぎり、幸せを抱え続けることは許されないのだ。だけど、彼の息苦しくなるくらいに愛おしい瞳を見ていると、私も幸せを受け入れてよいのでは、という淡い期待を抱いてしまう。そんなふうに想いを巡らせていたら、気づけばとっくに買った商品を手に店先に出ていた。昼間の熱気はなかなか薄まらず、ぬるい風が時折彷徨いように肌に触れ、思わず汗を拭おうと額に手をやる。
「そういえば夕日さん。今日かなり暑いし、よかったら近くの公園で涼みませんか。東屋があるんですけど、木陰にも覆われていて涼しいと思いますよ。」
、と聞いてくれた。きっと私の素振りを見て心配してくれたのだろう。それがつい嬉しくて、舞い上がるように
「いいねぇ。行こっか。」
と彼に言う。
もう慣れているはずなのに隣り合うように歩いていると、はたから見れば、床入りを終えたばかりの若い夫婦のように見えているんじゃないかと、ふと想像してしまい、気恥ずかしくなって余計に身体が熱っぽくなる。それが叶うのであればどれほど幸せだっただろうか。夢というのは虚であるから儚いのだと、年を重ねれば重ねるほど身に染みてしまう。彼の視線を感じ、横目でちらりと彼の方を見てみると、私の歩調に合わせようとたどたどしく歩いていて、その姿がまたいじらしくて、愛おしいのだ。そんなことを想いながら、少し落ち着こうと買ったばかりのコーヒーをじっくりと流し込んでいると、
「夕日さんまたコーヒー買ったんですか。ハマりすぎじゃないですか。」
と、からかうような口調で語りかける。負けじと、
「そういう君だって最近ずっとアイスばっかで全然コーヒー買ってないじゃない。もしかして買うものが被ったら恥ずかしいとか。」
と、思わず湧き上がる感情そのままに煽る。一瞬恥ずかしそうに、それでいてまんざらでもない表情を浮かべ、すると少し間を置いてから拗ねるような口調で、
「仕方ないじゃないですか。夕日さんがいつもすごく美味しそうに食べているのを見てたら、そりゃ食べたくもなりますよ。」
と、想像以上にあどけない口ぶりに、思わず笑いをこぼしてしまう。そんな私の反応を見たのか、ますます顔を紅潮させている。けれど、そんな私の笑いを遮るように彼の雰囲気から静寂が漂う。唐突の出来事に、不思議と彼の顔に見入ってしまう。それからほんの少し間をおいて、彼はゆっくりと唇を楽にさせ、
「それになんだか...落ち着くんですよ。夕日さんを近くに感じるというか、繋がっているような...気がして。」
と、呟く。気づけば私は彼の瞳から目を離せなくなっていた。すると彼は慌てる素振りで、
「気まずくさせてごめんなさい。自分でもふつうじゃないって、分かってはいるんですけど...でも、どうしようもないくらい心地よくて....幸せなんです。」
と言葉を零す。やっぱり私はどうかしている。罪を背負う立場でありながら、幸せでいてはいけない人間なのに、彼の優しさで染まった快楽の底へと溺れていってしまう。あまつさえ、愉悦の許しを請おうとさえしている。けれど、より深淵へと沈んでいくと、意識の奥底で罪が叫び出し、生きることを阻む。死した人間なのだと自覚させられ、淡い期待を掴んだはずの手は無情に離され、気づけば目の前には何もない。ひたすらに、孤独なのだ。けれど、今だけでも、仮初めの幸せであったとしても、私は触れていたい。
「私も、君を近くに感じている時が......好きだよ。」
そう彼に呟く。彼はどこかほっとしたような表情で俯き、照れくさそうにはにかむ。それを目の当たりにした私は彼の純粋な笑顔を受け止めることが出来なかった。後ろめたさが私に向かって吹き荒れ、自分の醜悪さを突きつけられる。それでも私は足を前に運んでしまう。心地いいという衝動だけが私を支配し、快楽に殺され始めていた。気づけば何よりも愛おしかったはずの彼の表情が朧に見え始め、濁色とした染料を注ぐモノだけが傍らにいた。
公園に着くやいなや、鞄からタオルを取り出し、全身から吹き出る汗を強引に払うように拭う。ひどく暑そうにする僕の横で、彼女は涼しそうに僕の様子を見つめ、汗が地面に垂れれば々るほど何やら感心しているのか感嘆の言葉を楽し気にぶつけてくる。彼女のその様相に、僕は思わず目を奪われてしまう。それは目につくようなものでも、情を揺さぶるものでもなく、ただそこには僕の知らない彼女が腰を据えていた。そこから少しだけ歩き、鬱蒼とした木々に覆われている東屋に踏み入れ、何処かに向かった彼女に手渡されたアイスやらコーヒーを腰掛に置いていると、不意に冷えた水が顔に飛んできた。肌に触れた刹那の間に、公園の水だろうしそこまで冷たくはないだろうと高を括っていたら、存外冷えていて、思わず、
「キャー」
と声にもならない音が喉から捻じり出される。後ろから覗く水をかけたであろう本人は遠慮する様子も見せず、声高らかに散笑している。恥じらいはすぐに静まり、彼女が笑いに耐えかねている隙に水飲み場の蛇口を思いっきり捻り、ありったけの水を両手に彼女に駆け寄り、頭めがけて放水する。水は一瞬にして彼女の髪に溶け込み、所々で転調し、気怠そうにしていた彼女の漆色の長い髪は各所で束となり、心なしか艶やかさがいっそう華やかになっているように映る。すると、流し込まれるようにほんのわずかな間、嫌悪感が芽生え自分の行為を蔑まんかという時に、溢れんばかりの水が全身を濡らす。目元を覆う垂れた前髪を掃けると、「してやったり!」とでも言いたげな顔で僕を見つめて笑う。気づけばそんな意識はとうにどこかに飛ばされ、落ち着く暇がないほど我を忘れるくらいに水を浴びせあい、服がびしょ濡れになるたびに顔を見合わせては笑い合った。爛々としていて、どこか初心な繁茂する木々に包まれた東屋からは、寂しげな嬉笑と残水の打ちつける音が零れていた。それからどれだけの時が流れたのだろう。平静さが息を吹き返すときには、二人して倒れ込むようにベンチに腰を下ろしていた。動悸は激しく乱れ、呼吸は性急に荒れる。あんなに水をかけあったというのに、身体は一気に熱を取り戻し、わずかに冷えた手先で額を冷やす。気がまぎれたのか、視線を適当にやると、吸い寄せられるように彼女と目が合う。自然と互いに肩を寄せ合い、ゆっくりと頭を預けるように彼女のに宛がう。熱は皮膚を伝い、乱れた髪の擦れる僅かな音と妙に色づいた吐息が耳元で鮮烈に喘ぎ、衝撃とともに平生な魂の表層は惑い、快楽と心根が溶けるように堕ち合う。見せあうように彼女の艶やかな瞳を見つめ、求めあうように身体を優しく絡めあい、ふっくらとしていて艶めかしい彼女の桜唇を、互いに満たし合うように、接吻を交わす。それが僕の処女であった。
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