第五章

八月

 昨日の余韻に無断で立ち入る朝日が目を劈く刻に思わず起きてしまう。胡坐をかくような姿勢で起き上がるものの、身体の方は目覚める気配がない。ふと自分を両手で軽く抱きしめる。あぁ、温かい。首筋からほのかに彼の匂いを感じる。この感覚を手放したくなくって、しばらく抱きしめてしまう。果てなどないくらい、心地がいい。人は、これを温もりと言うのだろうか。そうなのだとしたら、私も今周りと同じように幸せなのだろうか。初めてのことで、少しもどかしい気持ちになる。なんだか不思議だ。こんなにも満ちているのに、飽きたりない自分がいることに気づく。そういえば彼の目、目を逸らすことを躊躇してしまうほど鋭く、深く、突き刺すような目で喰らう勢いでこちらを見つめる彼に、私はあられもなく激情に駆られ、身を委ねた。溶け合うことはなく、熱もない交わいを強要されてきた私にとって、愛撫するように甘く、時には知性すらも捨てて激しく染め合うあれこそがまぐわいなのだ。そんなことを思っていたら、目が覚めてからまだ十数分しか経っていないことに気づく。時が経つにつれて薄まる彼の甘美な優しさを埋めようと粗雑な情欲に耽る。あれだけ私を潤した酒でさえ、今では取るに足らない。彼と親しくなって以来、ずっと心に決めていたはずだった。我慢すると誓ったはずであった。一度でも含んでしまえばきっと、果てのない深海に延々と溺れ、彼をも巻き添えにしてしまうだろうから。私は所詮他人を愛欲の人形として弄び、優しさだけを吸いつくす、憎むべき知を牙とする人ならざる者達となんら変わりのない、いや、それ以上の愚者であり悪人でしかなかったのだ。誰よりも己を忌むべきであり、これまで何度も懺悔を吐露してきた。今も嫌悪感と断罪の念に駆られ、身体にさえも刻み、朱色の体液がポタポタと手首から垂れるたびに悶え苦しいはずなのに、それでも私は彼に逢い...、いや.....求めてしまう。私は快楽の奴隷となったのだ。それからも私は誤魔化すように彼の好きなコーヒーを冷蔵庫から取り出してはぼんやりと見つめ、物思いに沈んでは口に含むという一連の動作を時間が過ぎるまで幾度となく繰り返す。あれだけ鋭利であった斜光は柔らさに身を包み、カラスたちが一斉に近くの電線に舞い降り、騒々しいエンジンの音を響かせる車に臆することなく、けたましく鳴いていて、気づけば時刻は五時を回っている。そういえば今日彼は確か部活に行っているはずだ。くすんだ顔を軽く洗い、乱れた髪を結って、そこら辺に投げ捨ててあった上着を羽織り、夏の雲を纏わせている淡い夕日に誘われ、赴くままに足を運ばせる。夏の終わりが近いからだろうか、あれほど乱暴だったはずの生ぬるい風は、どこか柔らかくて、ほのかに暖かい。それにしても、この世界はこんなにも広々としていただろうか。横にも上にも果てしなく色がある。それもはっきりとした単色ではなくて、むしろ淡色とでもいうべきだろうか。家々も、車も、田んぼも、人もそこには在る。そう分かった刹那の間、私はどこか満足していた。けれど、それはたちまち横を通り去った車の轟音とともに消え失せ、彼の世界を犯したという現実だけが私に啓示された。あれほど理想であったはずの複雑性に富んだ色の住人は一斉に私に光を突き刺した。初めから私はくすみ色のあの世界の住人であり、人の欲にすがろうとした罪を犯した時にはすでに分かっていたはずだ。私は彼を愛しているという張りぼてで自らの行いを肯定していたにすぎなかったのかもしれない。それが本当だとしても、私の中にはたしかに、純白ともいえようか、ふつうで正しい真っ当な想いがあるはずだ。でなければ”愛”を実感できるはずがない。だって、愛というのはどこまでも喜ばしいものなのでしょ。私はたしかに世の渦でそれを見てきた、それを学んだ。そう理解して生きてきたはずなのだから。でなければ、私は何にすがればよいというのか。あぁ、そうか。ふとした時に願っていたのだ。私が生きていることを自覚するための感触を求めて。ハハッ。可笑しいなぁ。彼岸にいながら生を知るとは。ふと手に冷えた感覚を感じて手元をみると十分に冷えたコーヒーが握られていた。ここは、いつものコンビニなのだろうか。でも、なんで。それでも私にはためらう気力すらも無く、味わおうとするわけでもないのにじっくりと喉を浸すように注ぐ。ふと力がすっと抜け、コーヒーはアスファルトの地面に塗りつけるように零れる。あぁ...そっか。心地が良かったのではない。

......ちょうどよかったのだ。

ふと味を確かめるように口の中を舌で弄る。コーヒーって、こんなに不味かったかな。何を思うわけでもなく私はただ呆然と地に飲まれていく夕日に目をやっていた。夕日さん...か。あまりにも安直すぎはしないだろうか。けれど今にして思えば、彼がその名を私に付けた時からどこか満たされていくような感触があった。それにしてもどこもかしこも気怠い。あんなに夢中になっていたのが嘘のように思えるほど、興が冷め、意識が朦朧とする。この感覚とは何年も付き合っているというのにいまだに気持ちが悪い。けれどそこにある私は、ありたい私から逃れ、断罪の斜光が照らす鏡が淀みなく私の形相を露わにし、それがひどく相応しく思えて気が楽になれる。何を思い立ったのか、意識が茫漠とした果てを彷徨う合間に身体を起こし、もつれる足が言うがままに帰路を辿る。わずかに乾いた夕風がこちらに向かって流れているというのに、地から足を下ろすことに後悔を用意することを放棄した私には些末なものでしかなかった。そういえば肌がやけに座っている。確かめるように周囲を見渡す。すでに家に居たんだった。手に、そしてテーブルにも箱から取り出したであろう温い缶ビールが在る。とくに意味もなく一口、また一口と喉に含む。それからのことは正直よく覚えていない。

けれど一つ。

私は結局どうしようもなく生きてしまっている。

嫌でたまらない。

私は生に縛られている。

それこそが罰だったのだ。

そんなことを想いながら今日も私は目を覚ます。

今日も世界は眩しい。

半身を布団から浮かせると、私を諫めるかのような斜光が目を刺す。それから少しして、皮膚が熱を帯び始める。何に動揺してか、無理やりに差し伸べる手を拒むように手が激しく震えだす。波が立たず、たた見渡す限り深淵としている、心地よい自分の内にすぐさま溺れようと傍に転がっていたビール缶をすぐさま握りしめ、自らを浸す。あぁ...篤い。そっと胸に手をあてる。一回、また一回と動悸が感じられる。どうやら私はまだ此処に在るらしい。視線を変え、はみ出ている布団を手繰り寄せて軽く抱きしめる。少し、冷えている。私の内の私はまだなんとか生きているようだ。安堵した私は、やさしく愛撫するように何度も酒を乱暴に注ぐ。ゆっくりと、胸のざわめきが淀んだ何かに包まれていく。そうしていくらか時間が過ぎた頃、斜光が柔らかみを取り戻し、和しい空で満たされていることに朧げな意識の中気づき、慣れた手つきで空き缶を見回す。もう何本飲んだかすら見分けがつかない。ただどうも手になじむ重さの缶が見当たらない。あぁ、もう全部殻か。私は迷うことなく捩れる身体を引っ張りながら財布を手に取り玄関を抜ける。それにしてもほんとうにこの地というのは依り所とまみえることがない。このアスファルトも、電柱も、人でさえも、私には拒まれているように想える。思わぬうちに今ではそれがより顕著になってしまった。そう、彼と出逢った日、見初めあった刹那の間に、私は一滴の欲を感じとった。たとえそれが叶わぬと信じていた私の生であっても、その魅力に気づかないほど鈍くはなかった。それでもあるべき私はそれに視線を合わせようとはしなかった。ただ私はそれをそっと浸け続けた。彼が、いや情欲の捌け口が切望していた色に熟すまで。それを前にした時、私は繕い続けた有様を乱暴に染め上げ、満たされる限りの快楽を求めるだけの欲となった。熱は欲を刺激し、事切れるその時まで、衣を煩わくも想いながらひたすらに味わい、交わるなかで時折魅せる彼の溺れた表情がいっそう熱を誘った。欲が潰えた時、私の横には乱れた衣を羽織る...物だけがあり、私の熱はすでに冷え切っていて、とくに想うこともなく情を染め上げる物を求めていた。つまり...初めっから恋など、想い合ってなどいなかったんだ。今にして想えば彼に劣情をいだいたのも、都合がよかったからにほかならないだろう。私を、居場所すらない身分を優しく介抱した彼の心に自分の茫漠とした色を染め続け、浸蝕に身を捧げた私は、その時には人間ではなかったのかもしれない。ふと、侘しさを羽織った枯葉が舞い降りながら目の前のアスファルトに横になる。違和感を覚える。目頭が熱い。なんだろう、この胸の内がどこまでも空っぽになっていく感覚は。それが幸か不幸かは判断がつかない、けれどそれが満たされているだけで不思議と心地よかった。なぜだろう。思い出される彼の輪郭がぼやけるたびに、私の色が、染め上げた濃淡が滲んでいくような...そんなことを想ってしまう。途端に私は不安を覚える。焦りを感じる。罪の意識を抱く。そして今まで触れたことがない揺らめきと出逢う。私は逢いたい。とにかく逢いたい。どんな理由を無理やりにでも張り付けて逢いたい。私はこれまでの人生ですべての行為に理由を並べていた。いかにも適当で、納得のいく、正しい理由。周りのように、感じることができない私には、社会の、世界の戒律を鵜呑みにすることでしか生きることが叶わなかった。罪の意識を背負う度に私はそれに執着した。だからこそ、彼と出逢った時、私は私を演じた。今まで通り、理性的に他人と接しようと。それなのに苦しかった。彼を感じるたびに鼓動が荒くなり、手を伸ばそうとした。けれど堪えた。彼に想いを伝えてしまったら、私に宿った私が消えてしまう気がしたから。それがあの日、欲に支配された私は確かに死んだ。それでも、彼に逢いたいという想いだけが私を生かしている。腕も足も思いっきり振り上げ、乱れた呼吸を耳に入れず、ただただ走る。きっとそうだ。私は...私は、晴くんを愛している。彼に逢いたい。その想いで私は走る。


 網戸から滲む冷えた朝風に促されるように目を覚ます。それからいつものように顔を洗い、食事を済ませ、制服に着替え、玄関を抜けるというごく当たり前の行動をとっているというのに、自分の範疇にはない、絡みつくような違和感が離れようとしない。日頃から生じるこうした障害には常識に身を置くことで対処してきたつもりなのだが、今日はどうしてか、どれほどの時が経とうが静まる気配はない。そのせいだろうか。此処で生きなければならないという現実が億劫でならない。夕日に染まる時は幾分か楽になれる。人は夕日に呑まれ、街の煩わしい喧騒を一部とする。拠り所を求めるようになって、正気を装いながらも願い続け、そしてあの東屋の中で、床入りを迎え、僕の色で染めあがった彼女を交わうようにして感じ、ふと目をやると彼女の瞳には僕はなく、ただそれを悦ぶ貴女の表情に心を奪われた。想えばその時から、僕の内は彼女だけが常世の真理であり、世論は、正しさは、他者は、遵守するものではなくなったのだろう。僕という個人が存在するかぎり社会に縛られ続ける人生を辿ることは自らをもっとも苦しめる罪であって、僕の身の内が彼女に心酔することこそが何よりもの慈しみに違いない。そこにこそ望む自由がありうるのだと思う。想えば、他人との距離を、社会性を認識して以来、皮膚は必要分の熱を生成するだけで、目に映る情景は常に侘しかった。けれど彼女と皮膚を擦りあうにつれ、自らの内から感じられる熱に愛おしさを覚え、彼女の熱をも味わい、それ以来、すがるように卑しさを纏う自分がいることに気づく。けれど、情欲の昂りと同時に静けさを感ずる。冷えた秋風が揺らぎながら肺を巡り、締め付けるような息苦しさを覚える。あぁ...ひたすらに堪えがたい。望めば望むほどに正気を失い、醜悪かつ非人間的な身へと変貌し、守り抜いてきた居場所をも剥奪されてしまう。案外、死というのは生よりも掴みやすいのかもしれない。だが情欲というのはそれすらも些細な事らしく、絶え間なく彼女のことを想ってしまう。あの艶やかな柔い頬に触れたい。それだけが視界を占めている。そうこうしているうちに、日はひたすらに時を巻き、授業終了のチャイムが無情に鳴り響く。僕はもう世界の当事者という枠にさえ、置き去りにされているように感じる。どうにも遠いのだ。ほとんどの生徒がそのまま教室を出る傍らで、僕はどうにも動くことが出来ず、刻々と過ぎる時間から目をそらすように窓を見つめる。次第に陽は皮膚から剥がれ、窓から注がれた風が制服の隙間を擦り抜ける。ふいになんだか少し楽になった気がする。そのままゆっくりと腰を上げ、すでに人気のない校舎を抜け、ふと振り返りながら周囲を見渡す。咲き乱れていた草木はいつの間にかこぢんまりしていて、どこか苦しんでいるように想える。そういえば自分はもう高校三年生だったっけか。いつもそうだ。あなたは、どうも、せっかちが過ぎているように想える。私だけを取り残して。あなたを憎み切れないことに深い無力感を覚える。それでも、足を止めてしまえばさらに遠ざかってしまうだろう。けれど、彼女のことが鮮明に彩られた今となっては、案外どうでもいいような気がする。当然のことで、人はどこまでも深く、触れることの叶わない、わずかに感じられる鮮烈な味を明日よりも気にかける生き物なのだから。彼女だけが、僕の渇きを潤す。こうして今日もまた、僕は階段を踏み外すのだ。その先に何があるかを知っておきながら。胸の内に遍在する隙間を塞ぐように彼女への愛欲の綴りを浸す。そうしていくうちに憂いはぼやけてゆき、哀咽は笑いに、やがて狂乱へと色褪せ、そして膝をつくようにして倒れ込む。震えるばかりの指を無理やり重ね、額に被せるようにして、ひたすらに罪を贖う。打ちひしがれるたびに、祈るべき存在に許しを請うた。忌むべき存在である自分を、どうにか逢える日まで生きたいと、生かしてほしいと。死が生よりも目の前に見える自分には不相応だとは理解している。自分では生きられないと悟った日、それ以来偽り続け、その度に自分の生を疑った。恐れるにつれて、自分を何度も乱雑に扱い、あまつさえ、無いもののように振る舞った。その結果、自分が何なのか。まるで分からない。肉殻に常識を埋め込んだだけの人形でしかないのではないのか。自分が今、温かいのか、冷たいのか、嬉しいのか、悲しいのか。何一つ感じることはない。感じている素振りをしているのは、自分を装う得体の知れない物でしかない。もう生きているのかの判断もつかない僕だけれど、どうしようもなく生きたいと願っている。彼女にもう少しだけ触れていたい。あの時、東屋で感じた熱に、僕は確かに抱きしめられた。それだけを祈り、僕は足掻く。そう想い、足早にコンビニに行けども、今日も彼女の姿はない。思わず目を下にやると、いつの間にか大粒の雫が墜ちていて、水溜りは焦っている自分の姿をまざまざと映す。この季節の雨はどうにも陰気に満ちていて、それでいて纏わりつく。さっきまであれほど熱を帯びていたはずの身体は、ただの無情に染まっている。もう...どうでもよい。ただ横になりたい。人目をはばかることなく、コンビニの外の屋根下に崩れるようにして腰を打ちつける。止む気配のない雨粒のざわめき、淋しげに息を吐くエンジン音が辛うじて気を保たせてくれる。ふと胸の方に右手を宛がう。心音が乱れ、それでいて生温かい。てっきりもう息絶えたものだと想っていた。それほどまでに、僕は怯えている。答えのない、応えのない、そんな不安が支配する日常を生きなければならない現実に。「生きる」ということの不確かな性分に翻弄される自分が、心底嘆かわしいと同時に、ひどく同情してしまう。雨が落ち着くまでの間、胸から手を離すことなど、今の僕には叶わなかった。図々しいかもしれないのだけれど、少しだけ、ほんのわずかな間だけ...留まってもよいだろうか。芯まで浸かる寒さで血の気が引いていた皮膚は赤みを含み始め、硬直しきっていた筋肉は柔らかみを取り戻し、口から昇る灰色の吐息は纏う衣を一枚、一枚と剥がし、呼吸が落ち着いてきているのが感じられる。ふと左手を見つめる。何か思い出そうと指を少し遊ばせてやる。するとほんのわずかに指先に熱を覚える。そういえば、いつだったかここで、彼女の指先に偶然触れてしまって、思わず恥ずかしくなって自分の懐に戻そうとしたら、彼女が不意に絡めるように握ってきて、ずいぶんと雰囲気に似合わない、無邪気で憎たらしい表情で嬉しそうにしていた。それでもどこか憂いを抱えた目配せをしていたように想えた。今となっては定かではないのだけど。雨で一杯の制服が無遠慮に今をささやく。はぁ。なんだか随分と生きているような気がする。瞼はどうにも重く、気づけば暗く深い波を漂うように目を閉じていた。

ブッー、ブッー...。目が覚める。促されるようにポケットからスマホを取り出すと、思わず手から離してしまった。落ち着いたはずの鼓動が激しく動悸する。恐る恐る...そっと拾い、騒々しい画面に目を向ける。通知、それも不在着信が十数件、それだけでなく、メッセージまでも十何件と表示されている。不意に思い出される苦しさ以上に何とかしなくてはと、手をとにかく働かせども、堆積する怯えが冷静さを狂わせ、ひたすら鳴り止まない通知に思わず嗚咽を漏らし、絶望が目元を覆う。何とかこぎつけた返信に安堵する暇なく送信される文字の塊に苦しんでいる自分がまた心底情けなくって、それでいて絶え間なく続く恐怖に耐えきれず、俯いたまま焼けるような目頭から垂れる憎悪と悲しみは、より自分の醜さを映し、収まる気配はない。それでも対処しなくてはならないという、その場しのぎの義務感に従い、一時的にその場をしのぎ、逃げるようにコンビニから離れる。あれほど満ちていた熱は絶望に呑まれ、恋焦がれた熱があっという間に醒めてゆく。その時にはもう流す涙も枯れてしまっていた。いつだってそうだ。望み、求め、やがて手にした幸せは、ふと瞬間に、あっけなく不幸へと様変わりする。そう理解していたはずなのに...僕は心底愚かな性分を捨てきれずにいる。自分に待ち受ける境遇を想像するだけで苦しさに満ちた鼓動が木魂し、どうにか逃れられないかと思い、訳もなく周囲を見渡しては焦りは募りを増す。どんな不幸も今の僕にとっては些末な物でしかなく、もはや恋しいとすら想える。一歩、また一歩と距離は縮まっていき、踏みしめなくてはいけないと、強引に回る足を拒むようにわざと強く痛みつけるようにして地面を踏みしめるけれども、それでも記憶に怯える肉体は内の叫びを叩く勢いで歩みを進める。けれどその進んだ距離に何の意味があるというのか。生きることに安堵を覚えることのない、訳もなくされるがままに見えることが叶わない先へと歩んできた自分が、何もかもが後退へと様変わりしているように想える。乱れる情に会釈もせず差し込む雨粒が嫌に胸内で鳴り響く。その激しさは勢いを増し、辛うじて内に在った祈りの吉報も息絶えたその瞬間、目の前には止めを刺す重厚な玄関が無情にも現れた。開かなければ...けれどそれは僕の意思ではなくて本能的な、はたまた儚い幸への期待を望む形だけの私の命令でしかない。けれど、雨に打たれ続けた僕にとってそのあってないような、淡い未来への夢想ですら魅力的であり、ドアノブ一つを回すにはあまりにも十分すぎるもので、気づけばこの足はすでに家へと立ち入っていた。底へと墜ちていく内としての自分のことなど容易に吐き捨ててしまえるほどに、僕は死へと確実に歩んでいた。やはり母の姿はすぐそこにはない。こういった事態に起こる日常が平然と生じているこの状況が、より自らの絶望を確かなものとして示し、取り繕いのない自らの無力さが後ろめたさを残し、そうした外殻として生きることを定められる自分への失望の積み重ねは、いつものように自らを嫌悪の矛先とし、自分という存在の曖昧さを覚える。左足、右足、左足、右足...。踏み出す先にある自分一点に向けられた感情と冷静さが熱を激しくたぎらせる雰囲気とでもいうべき何かが恐怖を通じて響く。けれど、どこか尻込みする自分をよそに、ただ俯いている自分が存在する。その目はなぜだか少し愉悦に満ちていた。そしてそこに母は立っていた。何事もないかのような素振りで背を向けるようにして。母は僕が口を開くまで僕に視線を向けることはないだろう。そういう人間なのだ。親としての、はたまた大人としての身分に相応しいような施しを与えることになんの迷いもないその姿勢に、どうしようもない苛立ちを覚える。彼女の怒りが決して、僕そのものに向けられていることはないのだから。

「ただいま。」

精一杯の温もりを含んだ声色を吐き出す。一瞥をやることもなく、母が口を開く気配は感じられない。なぜだか急に違和感を覚える。身体がわずかに震え、熱がこみ上げているのが分かる。

「すみませんでした。」

抑えきれない憤りを含ませるように、露骨に弄るような低い声で呟く。

今母は間違いなく私にちらりと視線をやった。感情に促されるように睨みを利かせて。それでも母は、

「で。」

「だから何なの。」

と吐き捨てる。体裁を保とうとでもしているのだろう。

けれど、その母の姿勢は、

「あなたにひとつ言わせていただくけど、」

内で湧き上がる憎しみという得物をなりふり構わず振り回したい僕にとって格好の餌食であったのだ。

「愚かなのはあなたなのでは。」

それほどの間もなくこの人は酷い剣幕で僕に内を晒すだろう。おそらくは何十年も放置されて恥ずべきと断じた己に、淀んだ塗装をまといながらも無理やりに自らを文明化され、望まれた存在と成った人民なのだと。けれどその目には理性がもたらす憤りではなく、野性的とでもいうべきか、衝動による報復の兆しがまばらに煌めいている。部屋に満ちた湿気が乱れるこの状況で、胸襟の空いた感覚に戸惑いを覚えながらもどこか浮かない表情でいる自分に気づく。しかし、この湧き上がるある種の情熱に諭されるように僕は口を再び開く。

「だれよりもあなたが子供じみているだろうね。」

その瞬間、堪えがたいとでも言いたげな表情とともに、その目には失いかけの若干の潤いを含んでいる。俯いていた視線をふたたび僕に向けるその顔にはどことなく初々しさが感じられ、それはもう私の知るその人のものではなく、思わず手を伸ばそうになるも、抑留から溢れだす愉悦感に遮られるかのように背を向け、堂々とした足取りで静まり返った廊下を抜け、ツンとくる冷え切ったドアノブに手をかける。

「出ていって。」

形の無い、精一杯の音を張り上げるように喉から捻りだして、そう呟いた。

僕は理由もなくしばらく歩いてみた。やり遂げたはずの勝利の手は、思ったよりも軽い。

唐突に頭に叫びが木魂する。色が錯綜し、最期には剥がれ落ちた哀れで喪失感に満ちた切望していた己が内にはあるのだった。不意に外を感じる。止むそぶりを見せない傲慢で自由な雨がそこには在った。何を憂いることもなく、鮮烈な雨に視界を遮られ、理由もなくひたすらに歩みを進める。足は水を吸い、だんだんと動きが鈍くなるも、今にも冷めきるという熱は無理やりに四肢に叫びを伝熱する。何かを感じ始めた身体は、蒼染めの布の塊溶かしたブレザーを道の傍らに投げ捨て、冷め果てるその時までだと言わんばかりに足を前へと運ぶ。けれどすでに筋肉は硬くなり、アスファルトの地に踏み込む瞬間の反発すらも感じられず、呼吸のみが生を感じさせる。雨玉が目を襲い、悩むまでもなく指で弾き、確かめようと目の前をじっと見つめると、渋みを深め、色褪せる紫陽花の葉があり、突然に気まぐれな性分を晒す、秋の温い風に大きく揺れる。その時、僕は確かに夏を感じた。季節外れの夏風を。そしてそれは示す。内が愛しみを抱く園への入り口を。


 迷うまでもなく、私はコンビニへ向かった。彼を見初めた、拠り所なのだと教えてくれた場所。着けども、そこにはまだ彼の姿はない。でも私は感じる。皮膚の疼きがその確たる証拠だ。目の前にエンジンを炊く軽トラが視界に入り、不意に寒気を覚え、適当に服を絞ったりして気を紛らわす。けれどそれにも飽きて、とりあえず腕を組むようにして身体をさすってみる。暖かい。けれどそれは私の求める熱とは異なるものであった。腰を掛けるその上で雨を弾かせる簡素な屋根に感謝しながら、身体に注がれる雨音に耳を澄ます。水が重くなったはずの髪が揺れ、思わず向けたその視線の先には彼がいた。皮膚が熱くなって、呼吸すらもわずれてしまう。気づけば私は想いのままに彼に向かって体を震わせ、無我夢中で彼を包むようにして抱きしめた。どうしたのだろう。こういう時は決まって顔を赤らめながら、恥ずかしそうに小声で言葉を零すはずなのに。目をやると、皮膚は色を失い、手は震え、動悸が乱れているのが布越しでも感じられる。

「晴くん。」

返事はない。それもそのはずで、目は焦点を見失い、彼の灯が弱っているのを示すように間を置くことなく、無気力に私の右肩にもたれる。視線の先にある水溜りがその大きさを広げる度に、私は焦りを感じ、追い打ちをかけるように自らの熱も刻々と息絶えようとしている。次第に硬くなってゆく手を合わせる。今更のようにも想えるのだけれど、私はなんて些末な身分なんだろう。雨粒にさえも、私は怯えているのだから。唐突に地に打ちつける雨がそうするよう伝えているような気がして、私はひたすら祈るように空を見上げる。そのとき、彼と見たあの情景をふと想う。気づけば彼の手を引いて、車のエンジンから溢れる煙が舞う道を駆け抜け、私たちはあの山を登っていた。乱れる呼吸が言うように、私の内が、心が、萎れていっているのが感じられる。それなのに、私の胸の中はなんだか、軽い。ふと木々の隙間から白みを得た雲が目に入る。あんなにも近かったはずの空が、どこまでも雄大に広がっているように想える。身体もなんだか体重を忘れてしまうほど身軽で、足を止めることすら憚られる。風で吹き付ける枯れ葉にすら、思わずはにかんでしまう。そのせいか、私が掴んでいる彼の手は、強張り、冷えていて、どこか違和感を覚える。愛おしくて、それでいてどこか懐かしかったその褐色で肉厚の手は、今の私にはとても重い。どうにか離さないよう精一杯握りしめるものの、互いの手は間違いなく、刻々と剥がれていっている。それでも、この足を止めることは許されない。ただ私にはそう想えるのだ。名残惜しそうに足を緩めるものの、山の上の見晴台がその場を遠慮してそれることはない。私は何度も彼の手を確かめるように熱を込め、そっと握り直す。そして、最後の10の階段を前にしてひとまず足を止める。あの日のことが、より鮮明に思い出され、私は思わず目を閉じる。開けてしまえば、雫とともに目から零れてしまいそうで。不意に秋風が首筋に柔らかく触れる。晴れやかな面持ちで、私は涙を払うように勢いよく瞼を開く。一段、二段、三段...と踏み出すたびに、彼とのことが重なるように、木々から零れる水滴とともに降り注ぐ。もうすっかり雨は止み、ゆっくりと雨を運んだ雲が流れている。ふと頬に何かが吸いつく。だいぶ湿気が抜けたはずなのに。私は空いた手でそれを拭う。それなのに、手はますます濡れていく。そしてそれはいつものように熱く、妙に後味が悪い。それでも私はこれが枯れてしまえば、きっと受け入れてしまうのだろう。だからこそ、まだ私が待っていてくれる間に、伝えなくてはならない。私がまだ彼と染め合うことが許されるうちに。ついに最期の一段が私を誘う。彼の手を握る手を再度、抱き続けた想いを込めるように握りしめる。私は踏みしめた。その一歩は、私の人生のどんな一歩よりも厳かで、それでいて淋しく感じられた。思わず彼を見つめる。その面は、私が良く知る大人びたものとはどうも違くって、なんだか少し幼く想えた。確かめるように胸に手を宛がう。空だ。けれどそれは空白などではなく、どこまでも澄んでいるのだ。あぁ、私はどうやら本当に、彼より先に一歩踏み入れてしまったらしい。彼の手を握っているはずのこの手が、なんだか心許ない。それでもまだ確かにこの手に在るのだから、焦ることなどない。今の私なら言える。たとえ秋が終わりを迎え、果ての見えない冬が訪れても、春は来るのだと。彼に諭すように、目の前の雲の群れに指をさす。先の山には雲が尾を引き、薄い青空の麓にはくたびれた夕日が安らかに息をし、雲の群れが衣を羽織らせ、ゆっくりと眠りにつこうとしている。そんな、一見他愛もない情景に見とれながらも、何か伺うわけでもなく迂闊に彼を連れ立った自分の様が可笑しく思われ、思わず頬を緩ませていると、何かが滴り落ちる音が耳に伝う。その目は、潤んでいるからなのかもしれないのだけれど、満ちていたのだ。情景そのものがそこには映っていて、その瞳からそっと膨らむ雫は、私には鮮烈すぎるほどに愛おしくて、その雫に傷をつけぬよう、優しく目の周りを指先でなぞる。柔らかくって暖かい。とても、とても懐かしいように想えてしまうほどに、私の中に満たされるものを感じる。けれど、それはいつものように魅惑的で酔うようなものではなく、空の静けさの中に流れる、零れた夕日に想える。私の目を見つめる彼、彼の目を見つめる私、何かを言うわけでもなく、ただゆっくりとお互いに手を背中に添えて、体温を感じ合うように抱き合う。今まではあんなにもざわめいていた胸の内は安らかで、度々彼の平かな呼吸に心地よさを覚えてしまう。彼の私を包み込む腕はゆったりとしていて、それでいて私の肩にもたれるように首を預ける仕草に私は思わず.....よかった、安心した。私は彼の背中にやっている手の感触を見つめ返すと同時に確かめる。きっと、今までの私であれば、躊躇う素振りも見せずに悦ぶに違いない。ふと熱が自分の中で飛び跳ねるように溢れる。私はきっと、旅立たねばならないのだろう。それも今。彼の、晴君のために。ほんとうに彼を、晴君を愛しているのであれば、私はこの愛を、いや、この逢いに夜の鐘を告げなくては。そう、だって別にこれは哀しくもなんでもない、ただ陽が暮れるというだけなのだから。

「私ね。君にもう一つ伝え忘れていたことがあるんだけど、いいかな。」

「はい。」

私は崩れる目で呟く。あぁ、やっぱり私はまだ幼い。彼を置いて先に行こうというのに、彼を気遣う余裕すらもないのだから。そんな私を彼はただ静かに見つめる。その様は純真そのもので、私が口に出すであろう言葉が何であるかを勘ぐる素振りも見せず、夕日の粒が似つかわしいその瞳を私に向ける。思わず口を噤んでしまい、私が今から零そうとしている言葉の数々の醜悪さに堪えようとする今の自分の厚さに心許なさを覚える。それでも私は格好のつく言葉の切り込みを思いあぐね、ちょうど転がっていた言葉を並べるようにして口を開く。

「前に...さ、つみっ、いや...私が罪を犯したって話したの覚えてる。」

「はい。」

「私は人に手を出してしまったの。それも物を、程度なんて考えることもなく力の限りに弄って。」

そう、それは私がまだ世の歪さを疑わず、差し伸べてくれる手を期待していた熟れる前のことである。右も左も分からず強引に手を引かれ、時が経つと突然放り捨てられ、ひたすら迷い続ける大学生活を送り、気づけば就職の時期を迎え、特段何かがしたいという欲は無く、絶えず溢れる人と情報に錯綜し、悩む暇もなく私は皆が良いという通りに就職を果たす。その外相はさぞ朧気で隙を孕んでいたからだろうか、私は入社するなり視線を感じることが多々あった。それもこちらの注意をあやかろうとする男だけでなく、打ち解けようという素振りも見せず、ただ頷いてばかりの私を疎み、或いは面白がるような女の目配に、私はただ愛想よく振る舞う事でしか人としての自分を保てなかった。それでも、ひとりでいるよりかは幾分楽だった。ひとりにでもなれば、私はますます自らが人ではないような気がしてしまうから。その影響か、私にとって酒は新鮮であり、それでいてどこか親しみを覚えた。酒を飲んでいれば、身体は熱を取り戻し、切ない内を埋めてくれるような感覚に私は溺れるようになった。会社終わりの飲みの席で、私が酒を躊躇うことなく口に含んでいたからだろうか、以前にもまして、男から、それも私より一回りも年上の男に期待のまなざしを向けられるようになったように想う。けれどそれは私には悪いことではなかった。むしろ私を対象として扱うことに嬉しさを覚え、知らない私を教えてくれるかのように想えたその誘いは魅惑的であった。ほとんどの男はなぜか横並びの席を好み、視線を私に注ぐ男の様相は私に若干の恥じらいを持たせ、私は特に何の酒か気にすることもなく、底からだんだんと感じられる熱に酔いしれるが、男は変わらず肘を置いたまま視線を離さない。視界が乱れていてはっきり言えるわけではないのだけれど、男の私を見る目は、女がはだけさせた衣の隙間を熱心に垣間見る様と近しいように想え、けれどそれは私を痺れさせ、その時はじめて私は自分の肌の艶めかしさを感じ、男の満たされるような表情に、私は自らが女であることを知った。やがて女であることへの興味は酒で自らを熟れさせていくうちに快楽へと変貌していき、私は男の味を覚えるようになった。やはり人というのはどこまでも生物なのだろう。鏡に映る自らを見つめるたびに、みすぼらしい有様をすぐにでも剥ぎ取らなければと、どこまでも他人であるはずの容姿への執着は濃くなり、気づけば私が鏡の前に腰を下ろす時間は日に日に長引き、私の部屋は、手つかずの居間は最低限の人間味を残しながらも薄暗く冷え、浴室のドアから彩色に散りばめられた化粧品の反射光が鮮烈に漏れるだけであった。そんな私は、鏡が映す疑いようのない美しさに染まりゆく様に溺れるように自らの淡く心許ない色を染め上げていった。男はそんな私を見かけては躊躇うことも忘れて視線を注ぎ、まるでその選択が罪であるかのように振る舞い、苛まれがらも利己的である自分を満足げに演じて私を夜に誘い、男が晒すそのあまりにも如実な表情は私をさらに快い心境に立たせた。私の外殻への執着はどうやら男を容易く酔わせるようで、誰一人として目合いを求めるまでには至らず、私はいつものように情が冷え切った男が見せるあどけなさを失った傲慢な少年の面を確かめ、若干の物足りなさを抱えながら店を出ては足早に家に戻り、たしか一か月ほど前に飲んだ男から差し出されたであろうヒールを適当に放り、傷一つない鏡の前に座る。それはそんな生活を送っていたある日の事であった。その日は冬の中頃で、陽が沈み、夏場は眩い摩天楼の行燈が丁度良く燦然としていた。私がいつものように会社で男を味わっていると、ふと視線を感ずる。けれどそれは今までの様な戸惑いや上擦ったものではなく、いわゆる求愛に近いものであったように想う。思わず見ると、それまで何度か私と情を注ぎ合ったと記憶している上司がそこにいた。気のせいだろうか。今度はあえて傍に近づいてみる。

「何か御用でしょうか。」

そう言い、引いた顎をそのままにしつつ、少し見上げながらその目を眺む。瞬きすら鈍るほどに、その瞬間私は昂り、仰け反ってしまいそうになるほどの刺激的な痺れが内を廻る。その目には人間に対する一種の和らげな線引きなど塵一つとしてなく、貪ろうという欲の渇望だけが存在していた。私は自らの堕落染みた欲ですら、その熟れた飢えを前にしては心許なさを覚えた。私たちは言葉を介すこともなく会社を後にし、この飢えを満たすのに充分な場所を求め乾いた世界を闊歩し、崩れそうな理性をなんとか抱えながら目についた鮮烈で濁った歓楽街へと誘われ、丁度良い一室へと招かれる。雰囲気もなにも気にかけることなく、抱き合うようにして床入りした私とその人は慈しみあうこともなくひたすら乱暴に互いを染め合い、首筋やうなじ、背中に至るまで、触れ合うだけにはとどまらず、まさに歪な情欲を注ぎ合い、疑いようのない偽い物の熱を浴び合った。それからどれほどの時間がたったのだろうか。彼はとっくに染めあがった衣を剥ぎ、常らしくスーツを羽織っていた。シャツを正そうと腕を上にやったその時、その指に写る指輪の遠慮のない光沢に私は思わず言葉を漏らす。

「汚い。」

正直、この刹那の間のことは言葉にできる範囲にはないと私は記憶している。ただ唯一鮮明なのは、私の右手には濁った黒っぽい体液が付着した灰皿を、冷え切って硬くなっていたその手からどうにも離すことが出来なかった。その後の裁判では、部屋に備えられていたカメラが、私がどうやら先に手を出してきたその人から身を守るように灰皿を叩きつけたのを確認していて、正当防衛が認められたのだという。けれどその日以来、私がその鏡の前に座ることは無かった。もはや人間ではなくなった私の美はなんの意味もなかった。私は塞ぎこむことでしか自らを殺さないでいられた。それゆえに、酒は心地よかった。酒を身体に注いでいる瞬間は生きているのだと実感できたから。けれど、事態は私だけの中で留まることは無かった。当然のごとく、この出来事は公に報道された。当然だ。人の命を奪った者が、非人がのうのうと社会へと解き離れたのだから。多くの人間が踏み入ってしまったのだから、真実は確かに乱れてしまっていた。けれど、私という存在の、私が人とは隔絶されるべき性は疑いようが無かった。私がそれを受け入れてしまった日から、楽になろうとしたその瞬間から、私は罪に酔っていたのかもしれない。そういえば、裁判所であの人の妻にはなんて言われたのだろう。自分の所在すらも見失っていて何一つ耳には流れてくることはなかったけれど、あの人の妻の目は不思議であった。確かに其処には怒りがあった。それも自発的な。なのに、どこか眩んでいるようで、迷っているように見えた。そんな彼女の目に写る私は、今までのどんな私よりも自分に似つかわしいほどに醜いものだった。家に籠る私の部屋は、次第に自らの様相そのものに染まってゆき、そのたびに鏡に映る私の姿は痩せて青白いものへと変貌し、なぜか安心してしまえた。私が消えてしまえば、皆安心するだろうか。もしかしたら歓喜すら沸き起こるかもしれない。少なくとも、私には最良の選択肢に想えた。この世にしがみ続けることで、私はいったい何か幸せなことが一瞬でもあっただろうか。きっとこの手に握られている酒缶を一気に乱暴に飲み込んでしまえば、すぐに自由になれる。思わず乾いた笑い声が零れる。私はどこまでも醜いのだなあ。今になって生きる理由を求めているだなんて。結局私はその酒缶を飲み干すことはなく、部屋の隅に置いたまま懐かしく想えるほどに触れることのなかったパソコンを恐る々る起動し、表示されるニュースから意識的に視線を外し、適当に家を探した。私にしては思い切った判断で即座に荷物をまとめ(荷物といっても私が買ったものの大半は周りに気を配りながらの物なのでこれといって持っていくものはなく、強いて言えば調理器具)、大方片付いた部屋は自分が住んでいたとは思えないほどに性格を変え、建物であるということを改めて自覚させられ、愛着を抱いていたドアの淵に触れることすら憚られる。そうして私は適当な街に流れ着いた。とは言っても、さすがに下見には訪れた。人に会うことなど許されない身分であるゆえ、日が沈みきるその時に尋ねることにした。とは言っても、何か期待があるわけでも無かった。ただひとり、落ち着いた場所であればなんでも良かった。噂通り、この街は何もなかった。望んだはずのこれからの故郷、それなのに私の目からは雫が溢れていた。惨めだった。どうしようもなく。時間すらも忘れて私は泣き崩れた。ふとした瞬間、溜まった濁りが色を抱いていた。それもどこからか降り注いだ。私は真っ赤に腫れた目に恥じらいもなく哀れな表情で周囲を見渡す。

そしてそれはあった。地平線に溶けてていた茜色の夕日が。今にして想えば、

私はこの時初めて、暖かさというものを感じたように想う。それこそが、私がこの街に住むことにした理由であり、私にとっての希望であった。それまでの私の罪の重さを表すように、日はもうほとんど暮れようとしていた。

「随分と長話になってしまったね。

でも、君にはどうしても伝えておきたかったんだ。」

すると、彼は崩れた瞳をこすりながら私を強く抱きしめた。

「なんで...,なんで。僕には分からないよ。」

彼の淡く、和らげな表情に、私はどう応えればいいのかわからない。

それでも、夕日はまだ帰路の途中である。私は湿った彼の頬に優しく手を宛がい、

自らを彼に委ねる。

「私はね。何も悔やんではないんだ。もしそうだったら、私はとうにこの世にはなかっただろうね。」

彼の瞳を見つめる。初めて逢った日の暖かさがそこにはあるように想える。

「君が憎らしい。ほんとうに。」

お願いだからそんな寂しい顔をしないで。

「私は晴君が大好きだ。まだ死にたくないと想えるほどにね。」

彼は咽びながら、しっかりと私を離さまいと抱擁する。

「僕には貴女しかないんだ。」

彼は悟ったのだろう。私の表情から視線を外すように私の胸元に顔を寄せる。

私は喉の奥で堪えながら、

「だけど私は先に行ってるね。」

と伝える。

「どこに。」

彼の熱が私を掴む。愛おしい暖かさ。それでも、私は穢れた身ではあるけれど、

彼のために捧げたい。

「君を巻き込まないために、私は人になるんだ。最期まで身勝手でごめんなさい。」

強く握っていたその手は段々と萎れ、今にも果てようかという身体から心許ない雫が零れるだけであった。

「僕はいったいどうすればいいって言うの。ねぇ、ねぇ...。」

あぁ、どうして神様はこうも残酷なのだろう。大人びて見えていたはずの彼の様相が、あまりにも広すぎる孤独に置いて行かれる子どものようで、後のことなど顧みないほどに命の限り私を引き留める彼を慰めることさえ許さないのだから。私がここで彼と溶け合えたらどんなに心地いいだろう、どんなに満たされるだろう。けれど、彼は私とは違う。まだ彼には未来がある。こんな私を救ってくれるだけの慈しみの心を、色をもっている。私がいてはいけない。

「大丈夫だよ。それでも、きっと春は来るから。」

そう言うと、彼は口を開こうとしたその瞬間、ゆっくりと私にもたれる。私は急いですぐそばのベンチに腰を下ろし、膝に彼の頭を据わらせる。慌ててどうしたのか覗くと、その閉じた瞼からうっすらと雫が露わになった。その言葉が彼に届いたのかは分からない。

溢れる想いを押し込め、

「また逢ぃ...いや、.......お元気で。」

そう言うと、私は横たわる彼を覗き込むようにその唇に優しく口づけをした。なんて穏やかなんだろう。人生の中で、これほど安らかな時があっただろうか。もう冬が片足を踏み入れ、冷え込み始めているというのに、包まれるように暖かい。なぜだろう。私は求めていたはずだ。この言いようもないほどの心地を。それなのに、胸は空いている。それがなんなのかは、大人になろうと歩み始めたての私には遠く及ばない理解なのだろう。けれど、どこからともなく現れて、緩やかに世界を満たして、それでいて妙に別れを惜しんで家路につく夕日のように、私は、彼と...いや、晴君と同じ夕日を眺めているのなら、それでいい。

「貴方に逢えてよかった。」

私は振り返ることなく沈みゆく夕日とともに山を降りていった。


 肌が震える。そう感じた時、夕日はとっくに溶けてしまい、冷えた夜風が吹き荒れていた。僕はとっさに起き上がり、周囲を見渡す。いない。立ち上がり、駆け足で思いつく限りの所を探す。けれど、時が過ぎる度に胸が乾いていき、熱が冷めようとしている。分かっている。彼女はもういないのだと。こんなにも夜を強烈に感じるのはいつ以来だろうか。彼女と逢ってからは、夜も、朝も、辛いものではあったけれど、些細なことでしかなかった。それが今はどうだろう。光は疎らで、夕焼けの香りはどこにも感じられない。孤独とはこういうことを言うのだろうか。想えば、独りが常であった。誰もいない世界では、何からも許されているような気がして。けれど、この世界はもう僕の居場所ではないと思い知らされる。ふと何かが光っているのを感じる。差し出された手に案内されるように高台へと向かう。見下ろすと、暗闇の中で光が咲き乱れていた。あぁ...なんて眩しいのだろう。嫌悪していたはずの光景に、慰められてしまった。けれど、僕が求める心地はそこにはない。それでも、なぜだか受け入れてしまえた。僕にはこの時、一歩を踏み入れなくてはという決心の様なものが芽生えた。それは多分、唇にほんのわずかな熱を覚えたからだと想う。あの雨の降った日のように甘いものではなく、少し苦い、そんな味がしたから。気づけば、僕は街明かりに向かって山を降りていた。


 


























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