第二章
七月
意識が朦朧とし、固い瞼が開ききらない。ゆっくりと起き上がる。部屋には生まれたての朝日がほんのり差し込む。人が大勢いる中、孤独に懸命に今を生きる道を模索していたあの頃を夢に見た。そう自覚した瞬間、冷や汗が首筋を伝いながら垂れ、鼓動が乱れているのが分かる。おなかを意識しながらゆっくりと呼吸を行い自分を落ち着かせる。洗面台に行き、顔を水で洗う。鏡を見つめると、あの頃の自分によく似た淀んだ表情をした自分が写っていた。戸棚からコーヒーを取り出し、お湯を沸かす。お湯を注ぎ、出来上がったコーヒーを手にベランダに出る。去り際の朝焼けを眺めていると朝の少し冷えた風が私の頬を撫でる。一口、一口、と味わうように飲むと、だんだん身体がほかほかし、私を慰めてくれる。ふと晴君のことを思い出す。今頃彼は学校に行ってるのかな。まだ出逢ったばかりだけど、彼のことがなぜか気になってしまう。重く、鬱々とした何かを抱えている、そんな瞳をしていた。そういえばアイスをあげようとしているときのおどおどしている様子、なんだか愛らしかったな。彼は今日もコンビニに来るのだろうか。
彼女の夕焼けに照らされはにかんだ顔、甘く優し気な香り。意識が薄れるたびに思い出される。夕日さんと出逢い、まるで特別な物語が始まったかのように思えたこの世界では今日も特に大きな変化が起こるわけでもなく、淡々と進んでいた。クラスメイトは相変わらず休み時間になると授業中の鬱憤を晴らすかのように愚痴や思いを吐き出しあい、盛り上がり、ニュースもいつものように社会の動向を誇張を交えながら放送し、町の人々はそれぞれの時間軸を生きている。普通に生きることを心掛けてきた僕にとってこの世界に飛び込むことは容易だ。けれど、今日の僕は少しためらっている気がする。学校にいた間、少し目を背ければ僕の意識は上の空だった。今までの自分なら今の状況を良しとはしないはずだ。そんなことをしたら場の空気とのずれが生じて変だと思われてしまうかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいと考えている自分がいるような気がする。彼女に会えば何かわかるかもしれない。足の動きを少し速め、コンビニへと向かう。
足をぶらんとさせ、アイスを片手に彼が来ていないか怪しまれない程度に周囲を見渡す。まだ来てないかぁ。タンポポ色の空はいつの間にか淡い茜色を帯びている。いままでの私にとって空は日常に存在するものの一つに過ぎず、わざわざ見上げることはなかったと思う。今ならなんとなく昔の人々が空の情景に想いをはせていたわけが想像できる。夕方一つとってもたくさんの表情を持っていて、些細な変化が不思議と私の感情を揺さぶっているように感じる。ほんのりとぬるくなった風が私の髪を乱す。不意に風が吹く方へ顔を向けると、何かをずっと待ち望んでいたような表情で私の方へ歩を進めている彼の姿が見え、なんだかいじらしく想える。
「夕日さん!いらしたんですね。」
小走りで来たのか若干声が震えている。
「やぁ、また会ったね。コーヒー買いに来たの?」
そういうと、彼は少し俯きながらためらうように口を開く。
「それもそうなんですけど。」
ほのかに顔色が紅潮しているように見える。
「なに、もしかして私に会いたかったとか?」
彼の反応が気になり、思わずからかうような口調で話す。
すると冷静な態度とは裏腹に理性が行き場を見失っているかのような表情で彼は口を開く。
「否定は、しません。」
悔しそうにしている彼の表情を見つめていると私の中の稟性が変貌してしまうような感覚に陥る。
「私に会いたかったのかぁ。なるほどねぇ。」
そういうと彼は顔を下に向け表情を隠す。
感情の整理に戸惑う彼をよそに、余ったアイスを袋から取り出し一本彼に差し出す。
「どうぞ。」
すると彼は予想していなかったのか驚いた表情で、
「いいですって、僕夕日さんにもらってばかりじゃないですか。」
という。
「いいから。私、あげたい人に自分が好きなものを御馳走するとなんだか気持ちがいいんだ。」
「だからはい、どうぞ。」
食べてほしいという念がこもった右手からありがたそうに受け取る。
「いただきます。」
シャリシャリと音をさせながら純粋にアイスを味わう彼の表情はずっとみていられるほど愛らしい。
「おいしいです。」
「それはなにより。」
彼のはにかんだ顔に私もつられて笑顔になってしまう。
私は不意に頭に浮かんだ疑問を彼に投げかける。
「晴君はいつもここ一人で来てるけど、もしかして友達いないの。」
嘲笑を交えながら聞いてみる。
彼は突然の質問に驚くと、横に視線を少しやる。答えづらいのか数秒沈黙が訪れ、ゆっくりと口を開く。
「もちろんいますよ。ただ、放課後のこの時間は楽になりたくて。」
こういった時、慰めるべきなのだろうか。でも、どうにも慰める気にはならない。むしろ、
「私もね、この時間が好き。誰のものでもない、私だけの世界が夕方にはあると思うんだ。」
そう言うと、赤く焼けた夕日に照らされた瞳を私に向ける。
「僕も、夕方が好きです。」
彼のその言葉が、唐突に私の中から言葉を風立たせる。
「じゃあさ、夕方のこの場所でまた会おうよ。晴君とならもっとこの世界を楽しめそうなんだ。」
「それ、最高ですね。僕も夕日さんとならどこまでも楽しめそうです。」
彼は無邪気な笑顔を浮かべながら私の提案を喜んでくれた。
出逢ったばかりでどこのだれかもわからない、そんな君を見ていると、なぜだか私の感情は荒ぶる。でも、どうしようもなく心地よく感じてしまう。
沈もうとする夕日の燦燦とした光が雲や空に溶け込んでいる。
寝間着に着替え、陽の温かさを保っている布団に身を任せるように飛び込む。今日一日の出来事を頭の中で振り返ろうとすると彼のはにかんだ表情が頭をよぎる。思わず胸が暖かくなり、頬が緩んでしまう。こんなにも明日が待ち遠しいのはいつぶりだろうか。二十歳を過ぎると、次第に明日が訪れることを拒んでいた。寝るのが怖かった。寝てしまえば、必ず明日になるから。でもいまは、彼とまた会いたいと思うだけで、こんなにも明日に期待を膨らませてしまう。瞼が重くなり、意識がゆっくりと薄れ、私は今日に別れを告げる。
夢をみた。
「あした天気にな~れ。」
靴を宙にめがけて蹴りながら大きな声で叫ぶ。子どものころ、まだ大人という存在がなんなのか知らない私は、早く大人になりたいと願っていた。私よりも大きくて、物知りで、そして何よりも、自由にみえた。大人になれば、どんな夢でも叶えられる。そう信じていた私は、歳を重ねるごとに、心がうわずっていた。布団に入り、目をつぶるその瞬間まで、「早く明日にならないかなぁ」そう呟いていた。中学生になっても、私の思いは変わりそうになかった。けれど、一日が過ぎるたびに、得体の知れない何かが私の中に蓄積していった。夢を抱くことは正しいと言っていた大人たちは、次第にそれを否定していった。自分の実力、身の丈にあった、現実的な目標を定めるよう雄弁に私たちに語った。同い年というだけで、お互いの身分など気にすることなく外を走り回っていた同級生たちは、自分の趣味、勉強、部活といった共通点を持つ人と積極的に関係を築いていった。日が過ぎていく毎に、何をどうすればいいのかわからず、焦りは増していった。小学生の頃あれほど一日が早く終わることを祈っていた私は、いつのまにか時計の針が進むごとに、曖昧模糊な、観測することの出来ない未来が訪れてしまうことに、行き場のない憂えを抱えながら怯えるようになった。私の不安など気に留めることもなく一秒の狂いもなく時間は過ぎていき、気づけば中学生になってから三度目の桜の開花を迎えた。卒業アルバムを愛おしそうに抱きしめ、互いに別れを嘆く同級生たちをよそに、私は校舎を振り返ることもせず、いつも通りの帰路をただ無常に淡々と歩いていた。何を思ったか、私は何の前触れもなく道の真ん中で立ち止まり、空を見上げた。数十秒ほど経っただろうか。私の瞳から透明色の濁った水分が捻りだされ、それは頬をつたい、勢いを増しながら地へと落ちてゆく。あぁ、ようやく思い出した。私、約束、守れなかったよ。二年前、同じくらいの日に、私はこの雄黄な色素が一面を漂うこの空に誓ったんだ。ははっ。私のこの三年間はいったい何だったのだろうか。自分が惨めでならない。真下にたまった雫が吐き出しきれない絡み合った想いが交錯する彼女の歪な表情を映していた。
茫漠とした目覚めの余韻に浸る間もなく上半身を勢いよく起こす。胸に手をやり、激しめの衝動がつたい、この世界が現実であることを確かめる。メトロノームのように正確なテンポでさえずる鳥たちの鳴き声が朝の訪れを知らせているような気がする。寝起きで思うように力が働かない手で年季の入った頑なに動こうとしない窓をこじ開ける。空には雲が疎らで、出番を待ちきれないかのように煌びやかな日が一帯に燦爛している。そのせいか、大概目に映る建物や道路、人の欠落している部分が元々なかったかのように消し去られ、世界は正常でどこも異常などないと示されているように感じる。僕という存在が否定され、あってはならない不純物なのだと嫌でも自覚させられる。雨の日や曇りの日は好きだ。全てのものが等しく抱えているであろう負の部分を露わにし、自分は普通で、何の問題もないと思わせてくれる。何を言っても無駄なのは分かっている。今与えられた世界で、精一杯いつも通りの「自分」という存在として振る舞い、誰の日常も乱さないように生きるしかないのだ。窓際にかけてある乾ききった制服に身体を通し、身だしなみを整え、テーブルに置いてある朝食を淡々と口に入れる。歯を磨き、靴を履き、震える手に精一杯の力を込めてドアを開ける。足を進めるごとに身体の熱が高まり、首元から汗が地に落ちるのを拒むかのようにゆっくりと垂れる。足音が聞こえる。その音は増々近づき、振り向きざまに同級生が背中を躊躇なく叩き、
「おはよう!」
と声をかけてくる。
同じくらいの声量で
「おはよう!」
と返す。
学校との距離が縮まるたびにひとり、またひとりと同級生たちが
「おはよう!」
と声をかける。
雨の日のように、一切の制限をもたらすことのない晴ればれとした天気に興奮しているようだ。晴れが喜ばしいことだというのはあまりにも一般的で言うまでもないことは分かる。晴れていれば、雨の日のように身体や髪がべたつくこともない。けれど、僕にとってこの一切の晦冥を認めない晴れの日は、あまりにも眩しく、鬱陶しく想える。雨が降ればいいのにな。そう言いながらスマホを手に取ると、この日が晴れ間の続く夏の序章なのだとロック画面に表示された無常な文面が通知する。祈りともいえないような慎ましやかな想いが叶わないと知った僕は、なぜかホッとしていた。今日も世界はいつも通りだ。昼休みが終わり、眠気に襲われる六限目の授業、教室は陽で暖まり、半分以上の生徒が眠気と格闘し、数名の生徒は抗うのをやめ、机に顔を伏せる。かくいう僕も、教員の言葉は耳には通らず、ひたすら窓に目をやり呆然と果てしなく広がる青空を眺める。夕日さんは今なにをしているんだろうか。おそらく、僕が彼女と遇うことができるのは陽が沈んて行く間だけなのだろう。明確な根拠はない、ただうっすらとそう感じるのだ。だからこそ、無意識に彼女が夕方以外の時間、どんなふうに生きているのか気になってしまうのだ。いつからか、遇えるかどうかの保証もない彼女と過ごすことのできる夕方に、僕は想いを馳せている。それでも僕は、あるべき姿を保つため、いつもの自分を繕う。
ショーケースに手を伸ばし、思わず手が震えるほど冷えたコーヒーのボトルを二本取り出す。いつもより一本多く取り出しただけなのに、まるで初めて買い物をしにきて何をどうすればよいのか分からず慌てふためいているときかのように不安になる。レジにいき、素早く会計を済ませ、ガードパイプに腰を下ろし、コーヒーがぬるくなってしまわないか心配しながら彼女を待つ。そういえば自分から誰かが来るのを待つなんて初めてかもしれない。誰かの意志で待っているときは大抵、情景に情緒を感じながら時間が過ぎるのを待っていたり、スマホに定期的に送られるニュースにぼんやりと目を通して暇をつぶしたりしている。不意に、彼女の冷え切ったかように見える表情に表れる和かな微笑がぽろりと頭をよぎる。想いが浮つき、心臓の鼓動が一秒、また一秒と経つにつれ大きさを増し、触れなくとも聞こえてしまうほど鼓音が漏れる。あの雨上がりの日以来、存在すら知らなかった何かが僕の中を畝っているのだ。彼女に逢うと、まるで逢い初めのように身構えてしまう。でもそれは緊張しているわけではないのだと思う。どこか儚げな麗容、曇った匂い、痩せた瞳を見ていると、触れただけで壊れてしまうのではないかと思えてしまうからだろうか。いや、それよりも、ただ僕はあまりにも彼女のことを知らなすぎるのだろう。それにしても不思議だ。彼女が普通ではないことは容易に判別できる。異なることを許さない社会において、普通であることを保とうとしてきた僕であるなら関わることのない存在なのだろう。それなのに、名前も知らない彼女のことを想うこの時間に愛おしさすら感じてしまうのだ。
そんなことを思っていたら、いつのまにか地平線に夕日が佇み、街の輪郭がぼやけていることに気付く。そして、夕日に染まった路地から彼女の姿が見えた。まるでタイミングを見計らっていたかのように。夕焼けの居心地に安心感を抱いていたのか、周囲の人目を臆することなく、僕は思わず声を張り上げる。
「夕日さーん!」
手を左右に振る僕を見つけた彼女は頬を緩め、同じように手を振り、僕との距離を縮める。
「やぁ、また逢ったね。うん?」
そういいながら僕の横に腰を下ろし、彼女は僕の両手を見つめる。
「もしかして、私のことずっと待っていたの。」
不思議そうに、だけどちょっぴり嬉しそうに僕の目を見つめる。
「夕日さん、来るかもしれないと思って。ほらいつも僕貰ってばかりでしたし。」
彼女の言葉に反射的に着飾ったかのような口調で声に出したあげく、年齢に見合わないような振る舞いをしてしまった自分が恥ずかしい。ほんの少しだけ顔を彼女から逸らす。そんな僕の反応が見えていたのだろう。整った歯が露わになるほど笑い、笑いの波が収まったのかおなかに手をあて、呼吸を整え、ほんのわずかにかさついている唇を開く。
「私も晴くんが飲んでるコーヒーが気になってたんだ。どれどれ。」
彼女はそういい、僕の右手からありがたそうにコーヒーを受け取る。
まるで何度も飲んだことがあるかのように勢いよく口に運ぶ。ついさっきまで緩んでいた彼女の顔は徐々に絞まり、珊瑚朱色の舌がほんの少し零れる。
「ひゃあー、苦いねぇ。」
そう言いながらも彼女はどこかほころんでいるように映る。
僕はつい自慢げになり、
「最初のうちは苦いですよ。」
といった。
「じゃあまた今度も飲もうよ、二人で。」
とっさに僕は大げさに仰天したような表情をし、彼女の言葉を受け止めきるまえに口を開く。
「わざわざ苦いのにまた飲もうとするって、夕日さんって実はかなりやばい人ですよね。」
怒っているかのように眉が垂れているのに口角は上がっていて、
「そういうけど晴くんだって飲んでるじゃない。同類だよ。」
という。
こんな表情もするのだなあ。彼女の言葉が僕の中の波を揺らさないうちに僕は左手に握られたコーヒーをポケットに仕舞おうとする彼女の動作を見つめ、
「飲まないんですか?中身まだ残ってますよ。」
とからかうような口調でいう。
「冷蔵庫にでもいれておいてまた一緒に飲むの!じゃあ私用事あるから先帰るね。」
そう言い、彼女は夕日が沈みかけている方角へと瞬く間に行ってしまった。
はぁ。からかいすぎただろうか。夕日さんの言葉が僕の心の触覚に触れるたびに何かが溢れだしそうになり、隠すので精一杯だ。また一緒に飲もうと言ってくれたってことは気に入ってくれたんだろうか。彼女といると僕の心では抱えきれないほどの想いが蓄積し、忙しさのあまり倒れてしまいそうになる。まだ整理が出来ていないのだが、不思議なことにこの言葉だけははっきりと脳に残っている。彼女が何に対して言ったのかは分からないけれど、なるほど。同類かぁ。
用事なんてないのに思わず嘘ついちゃった。彼の表情、言葉、口調のどれもが私の容量を超過してしまい、逃げるようにあの場から去ってしまった。理由は全く分からないし見当もつかない。彼を見ていると、私の中の霧が薄れていっている気がするのだ。それだけじゃない。彼が何か言う度に、例えようのない温かさを感じる。って私は一体何を想っているんだ。今日の私はどうかしている。いや、今日に初まったことではない。あの雨上がりの夕方に初めて逢ってからなのだろう。彼が話しかけてきてくれた時の聲の音には懐かしさすら覚え、嬉しそうに話す彼の表情を見ているだけで、どこまでも心地が良い。最近では逢う度に彼のちょっとした癖に目がいく。彼は笑う時、えくぼが少し露わになり、照れくさそうな表情をする。君と逢ってから、煩わしいだけだった夕日を、今では待ち望んでいる。
朝食を食べ終え、余った材料を冷蔵庫に戻していると彼から貰ったコーヒーに視線が向いてしまう。彼とまた逢えるのはいつになるのだろう。雨が降らない日は、そよ風の小さなざわめき、たまに路地を通り抜ける車のエンジン音だけが耳に伝う。100km程度しか離れていないこの場所は、まるで別の国みたいだ。いたるところから大音量で流れる広告、周囲の気をひこうと目立つことに躍起になっている輩、競うようにして生まれた夥しい数の高層ビル。空を自由にみることすら叶わないあの場所は、意識せずとも私を蝕んだ。言われずとも自覚している。私は正常な人間ではないのだと。競うことを恐れ、比べられることを恐れ、次第に未来を恐れるようになった。なぜ意見を言わないのか、嫌ならなぜ反抗しないのか。軽々しく人はそういう。彼らはまるで分かっていない。反抗する気概を持っている人が未来を恐れているわけがない。困難な状況を打破できる自信が心の片隅に一遍でも存在するから立ち向かおうとするのだ。私には、希望も、光も、一瞬たりとも見えたことはない。どこを見渡しても暗闇だけが私に纏わりつく。だからこそ、私にできることは周りの人と同じように生きることだけだった。その紐にしがみつくことだけが私に残った選択肢だった。そうして、高校生になり、気付けば大学生になっていて、いつのまにか社会人になっていた。刹那のごとく時間は過ぎ去っていき、身体だけが成熟し、心だけが取り残された。何の問題もなく人生を歩んでいたように取り繕う経歴、肩書きは私という存在ではなく、組織に与する人間として評価し、纏ったドレスのみを見つめ、旧知の仲であるかのように私を語る。時間が過ぎていくうちに、自分でも私がどういう存在なのかが分からなくなり、恐れ、怯え、私の色は薄くなっていった。でも、彼に逢ってから、鬱蒼としていた世界が、少しずつ晴れていっているような気がする。彼の色を見ていると、薄くなっていた私に、彼の色が滲んでいき、色の彩度が強くなっていくにつれ、彼の傍にいたいと想ってしまう。そのせいか、あの頃は全てが一瞬に思えた時間が、最近途方もなく長く感じる。静けさに満ちたこの街ではなおさらだ。今頃は授業を受けているのだろうか、もしかしたらサボって保健室に駆け込んでいるかもしれない。いや、彼はそういうこと出来そうにないか。あっでも晴れているからつい眠気に苛まれているかも。プッ。思わず笑いが込み上げてしまう。妄想バッカリして、バカみたい。ハァ。今頃なにをして、なにを想っているのだろうか。不意にカレンダーに目をやる。アッ、そうだ今日だった。急いで寝間着を剥ぎ、少し傷んだジャージのズボンを履き、パーカーを羽織り、二割引きのチラシと財布をポケットに突っ込み、買い物袋を手に家を出てスーパーへと向かう。あそこ、十時前には着かないと混むんだよな、なんで忘れてたんだろう。ハァ〜、でもこんな日も悪くない。小走りでスーパーへの距離を縮めていく。よしっ、もう着くぞ。やっぱり思った通り、たくさんの車と人でごった返している。人目につかないよう、目が少し隠れる程度にフードを覆い、カートを持って入店する。まずは野菜を確保しよう。おっ、キュウリか、瑞々しくていいかも。レタス安っ、購入決定っと。その他の無難な野菜も揃えたし次どこ見ようかな、魚は気分じゃないしな、そうだ蒸した鶏肉とか夏の料理にピッタリだよね。肉コーナー見てみよう。それにしても牛肉は高いな、買ってしまったら私の財布が軽くなること間違いない。無視しよう。よしっ、鶏肉確保。他に甘いものも買おうかな、お菓子売り場のほうを見てみよう。美味しそうなのあるかなぁ。買いたいものは揃ったしレジに行こう。レジにも溢れんばかりの人で長蛇の列が並んでいる。とくにやることもないのでボォーっとしながらお会計の時を待つ。
「ねぇ、聞いた。この街に元受刑者が越してきたらしいのよ。」
「うそっ、本当なのそれっ。」
「市役所の職員と仲が良いご近所さんに聞いたの。」
「嫌ねぇ。まぁ関わらないでくれたらそれでいいけど。」
「次の方どうぞ。」
フードで深々と顔を覆い、お会計を済ませ、逃げるようにスーパーを後にする。
見上げれば、ついさっきまで晴れていたはずの空一帯に黒ずんだ雲が棚引いている。静けさに満ちていたはずのこの街が、わずか数十分の間に、まるで自分の知らない場所のように思える。なんでこんなにも旨くいかないんだろうか、人生って。いや、今の私に人生について想いを抱くことなど許されるはずがない。判決を下されたあの日から、あの街で私を人として扱う者はいなくなった。何処へ行っても、噂され、蔑まれ、怯えられた。生きていてよいのか自分に問い続けた。でも何度試行を巡らせても、答えは明らかだった。罪を犯した時点で、人としての私は死んだのだ。普通を貫くことでわずかに与えられていた生きる余地が、社会不適合者となった今、それは失われた。それでも、私は生きたいと願った。ここでない何処かに、生きてよいのだと自分を肯定してくれる言い訳を求めた。けれど、今日やっと答えが見得た気がした。それと同時に、私はまだ生きたいと思った。街が淡い夕日に包まれ、現実の輪郭すら朧気になる時、どこからともなくやってくる君と逢えなくなるその日まで。
雲の隙間から差し込んだ僅かな光が歩を進める先の道を照らす。
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
母の素っ気ない返事が返ってくる。
洗面所でサッと手を洗い、自室に入り、復習をするため机に向かう。ある日から、帰宅の際、家のドアが重く感じるようになった。でもそれは幼かった頃にドアを開けるときに覚える物理的な重さとは異なるもので、開けようとすると手が上手く動かないのだ。開けようとするたびにつばを飲み込み、閉塞的な何かが心に圧し掛かるような感覚に襲われる。母はいつからか極端なくらい笑顔を見せることがなくなった。どんなときも張り詰めた表情をしていて、気に障ってしまうのではないかと思い、用件があるときのみ話すようにしている。数年前までは、食事中にくだらない番組を観ては一緒に腹を抱えて笑いあい、食卓で向かい合っている際に笑いが生まれない日なんて一日たりとも無かった。そんなことを考えていたら、外はほとんど静まり、セミの鳴き声だけが部屋に流れる。19時になり、慎重に階段を下り食事のおかれたテーブルに向かい腰を下ろすと、向かい合う形で母も椅子に座り、互いに両手を合わせる。
「いただきます。」
ゆっくりと箸を持ち、一つ一つ口に頬張る。咀嚼、食器の反響だけが音を発し、あまりの静けさにのどの通りが鈍る。カタっ、とたまに食器同士があたり生じてしまう音にさえも鬱陶しく感じ、いっそ完全な静寂の方がましだと思い、意識を食事の所作を守ることだけに注ぐ。もう何年も経ったというのにこの空間にはどうしても慣れない。平静を装いつつ、目を前方にちらりとやる。相変わらずのように母は淡々と食事を口に運んでいる。お味噌汁の最後に一滴を流し込む。
「ごちそうさまでした。」
その場を一刻でも早く離れる為食器を手に台所に向かい、一枚一枚丁寧に洗い、水滴をタオルで拭きとり、棚にしまう。
「晴。」
温かさなど微塵も感じられない冷めた口調で呼ばれる。
「なんだい母さん。」
「今度の水曜日から×××塾行きなさい。そこの講師が×××大学の出でかなり評判が高いらしいのよ。いいわよね。」
この人はなんて卑怯なのだろう。僕が断ることなど出来ないのを知っているくせに、僕の了承を得ようとしている。湧き上がる感情を無視し、無色のことばで返す。
「分かった。」
「しっかり勉強しなさいよ。あなたの将来のためにたくさんお金をつぎ込んでいるのだから。」
「分かってるさ。」
部屋に戻り、再び机に向かう。ふと何かを痛めつけたいという感情が湧き出る。勢いよく立ち上がり、枕を持って、ありったけの力を腕に込めて壁に向かって投げつける。一回、二回、三回と投げつけていくうちに歯止めの利かない憤怒が徐々に笑いへと転換し、さっきまでの行為が馬鹿らしく思える。同時に、己を制御することが出来ず、一時の昂りで働いてしまった行為に対して自責の念に苛まれる。それは、どう考えてもこの暴発した感情は母に対して抱いた憤りが形となったものだからである。時間が経ち、社会的道徳に基づいて思慮していくうちに、自分の醜さを自覚し、後数時間で訪れる明日に怯えてしまう。ただ、不思議と前よりかは鼓動が落ち着いている。夕日さんと出逢ってから、明日を生きたいと切望している自分がいるのだと気づく。不安でいることが多くなった頃から、僕はずっと夕方が憂鬱だった。一日の終わりを告げる茜色の夕焼けが姿を現す度に空虚な心持になり、呆然自失と眺めているしかなかった。そんな夕方が、今では待ち遠しいとすら思う。周囲が、空が霞み、捉えどころのない落日の明りが几帳のように現世と隔てている世界で、どこからともなく訪れる彼女と溶け合う時間が、なによりも愛おしいのだ。
「明日は逢えるだろうか。」
ぽつりと言葉が漏れたことにも気づかず、僕はゆっくりと目を閉じた。
肌に吸い付く汗をタオルで拭きとり、素早く鞄から制服を取り出し着替え、駆け足で正門を抜け、そのままの速さでいつもの場所へと向かう。本格的に夏場を迎えたからか、空の赤味は薄く、撫子色に染まっている。呼吸が荒れるにつれ、拭きとったはずの汗が纏わりつき、なんとも煩わしい。暑いというのになんで僕はこんなにも急いでいるのだろう。焦る必要などないのに、空が茜色に彩られていくにつれて想いが身体を急かす。気づけばシャツは汗でべっちょりしていて、足の筋肉が固まり棒のようだ。ふと鼻に意識がいくと、湿っぽく甘い香りが漂っている。ゆっくりと筋肉を緩め、速度を落とす。ここの路地から漂う紫陽花を感じるとコンビニについたのだと分かるのだ。路地を抜け、目の前のコンビニに目をやると、すっかり茜色に彩られた空から差し込む斜陽を浴びている彼女がいた。彼女がそこにいる。それだけなのに、胸のあたりが温かい。それにどうも落ち着かない。そうだ、いいこと思いついた。彼女にばれないように彼女の背後にたって驚かそう。いったいどんな顔をするんだろう。物音を立てないよう慎重に足を運び、彼女の視線がこちらに向いていないうちに後ろに忍び込む。驚かそうとしたその瞬間、彼女の首元を一滴の星屑が静かにつたっているのが目に映る。ゆっくりと彼女の座るガードパイプに隣り合うように腰を下ろす。彼女はひたすら地平線に宿る夕焼けを見つめ、間を置くように一滴、また一滴と瞼から涙が零れる。少し視線をそらす。こういったとき、どう慰めるべきなんだろう。それとも何があったのか聞いた方がよいのだろうか。どうにも言葉が見当たらない。ふと視線を彼女に向ける。心が締め付けられる。僕はただ彼女を抱きしめる。彼女の痛みを少しでも和らげられるように、優しく、丁寧に。数秒後、彼女は僕のシャツを握りしめ、ひたすら嗚咽し、乾いたシャツが湿る。温かい彼女の肌とは異なり、その涙は氷のように冷えている。夕日がほぼ地平線の彼方に沈む頃、落ち着いたのだろうか。小さく、ゆったりとした口調で彼女は話し始めた。
「私、数か月前まで東京で暮らしていたの。東京に行けば、人生が良くなるんじゃないかって思ったりして、高校を卒業して上京したんだ。でも、良くなるどころか、私のことさえ見失っちゃって。気づけばここに逃げてた。」
視線をわずかにこちらに向ける。
「私此処にきてから、いや、君に逢ったあの日から生きるのも悪くないって思うようになったんだ。それでね、今日の朝働いていたころを夢で見たの。目が覚めて、ふと自分の人生を思い返したら、怖くなっちゃったんだ。この先の人生も、あの時みたいに苦しいままだったらって考えたら不安で仕方がなくて。」
ゆっくりと口を開く。
「僕はあなたに生きてほしい。夕日さんがいない世界で、僕は生きていく自信がないです。」
すると、彼女は少し頬を赤らめながら、表情を緩める。十数秒ほど経っただろうか。まだ仄かに赤い目から涙を拭い、僕の目を見つめ、ふふっと笑いを漏らす。
「僕何か変なこと言ってましたか。」
そういうと、彼女はますますケラケラと笑い、また涙を拭う。
「私がいないと生きられないって、依存しすぎでしょ。もしかして今のプロポーズだったりするの。」
「そんなわけないでしょ、まだ逢ってそんなに月日が経ってもないのにそんなこと出来ないですよ。」
自分が発した言葉の恥ずかしさに気づく。あまりの恥ずかしさに身体が熱くなって爆発しそうだ。
「でも、ありがとう。君にそこまで言われたら、死ぬに死ねないね。」
そう言うと、いままで見てきた中で一番愛おしい笑顔を僕に向ける。あぁ、あなたはなんでこんなにも僕の感情を動揺させてしまうのだろう。僕は、あなたがいない未来など、想像もできない。この夏が終わっても、あなたは此処にとどまってくれるだろうか。
家に向かって歩き始めてから私は明らかに動揺している。体中が火照り、頭がほわほわする。しばらくは彼の体温の余韻が抜けそうにない。彼が抱きしめてくれた瞬間、想いを堪えることが出来なかった。誰にも吐き出せず、ひたすら押さえつけ見た気がするていた感情が零れだしてしまった。何も言わず、そっと私を包み込んだ彼の温もりに、初めて優しさというものを見た気がする。今まで余裕を装っていたけれど、抱擁しながら私を見つめる彼の表情があまりにも高校生とは思えないほど艶やかで、落ち着いていて、思わず目を背けてしまった。それにしても、私がいないと生きていく自信が無い...か。あんなふうにからかってしまったけれど、私の方こそ、君がいない世界なんて、とても想像が出来そうにない。晴くんに逢ってから、私、自分の想いに気づけるようになったんだ。でも、今私を悩ましているこの煩わしくて、でもどうしようもないほど愛おしい想いが、何なのか、まだ分かりそうにないよ。彼の色が私に染まっていくたびに、この想いは無視できないほど膨らんでいく。早く、逢いたいな。
薄水色の澄み切った空、そこら中から伝う虫たちの音、アスファルトの小さな溝に溜まった雨水。今日は部活が無かったのかいつもより一時間も早く彼に逢った。いつもより長くいられることだし、楽しい会話で盛り上がれるといいな。この前は彼に迷惑をかけてしまったし。彼にもらった持ってきたコーヒーを一緒に飲むのも楽しそうだ。
「そういえばさぁ」
「夕日さん、今日時間あります?」
私の声を乗り越えるかのような声で突然話しかけられる。
「むしろ時間がありすぎて暇なくらいだよ。何かするの。」
「別に何か特別なことをするわけでもないんですけど、今から山登りませんか。」
「山っ...。山ってあの山。」
「あの山です。まぁ山といっても標高が高いわけではないので。」
「でも山だよ、色んな生き物が潜んでるかもしれないし、もし遭難でもしたら。」
「大丈夫ですよ。頂上まであっという間ですし。実は頂上にある見晴台から見える風景がお気に入りなんです。どうしても夕日さんに見せたくって。」
「お気に入りかぁ。いいね、行きたい。あっでも道案内頼んだよ、もし私を置いて行ったりでもしたら地の果てまで恨むからね。」
「善処します。早速行きましょう。」
善処って、ほんとうに大丈夫かなぁ。でも、この前晴君に逢ってから、彼はなんだか大人びて見える。つい最近までは高校生らしさに満ちていたのに。それもあってか、彼といれば大丈夫だと、私の想いが告げる。十分ほど歩いただろうか、遮っていたと思われる建物が減り、次第にいたるところに木々が生い茂っている山々が視える。彼がいう通り、山にしてはこじんまりしていて、登るのに苦労しなそうだ。それにしても中々辿りつきそうにない。
「あとどれくらいで着くの。」
「う〜ん、あと十数分はかかるかなと。ほんと気が利かなくてすみません。少し遠すぎましたよね。申し訳ないです。」
顔を落とし、徐々に弱まる口調でこたえる。どうして私は彼の気持ちを蔑ろにするような軽率な言葉を口にしてしまったのだ。やっぱり私は昔からなにもかも成長していない。大人の振る舞いも、余裕もなくて常に弱い部分ばかりみせて。
「全然大丈夫だよ。むしろ期待が膨らむというか、だから気にしないで。」
すると彼は瞬時に私の顔に近づき、数秒の間、ただ私を見つめる。顔を引き、ゆっくりと話し始める。
「夕日さん。僕の気のせいかもしれないんですけど、わざわざ繕わなくても僕は大丈夫ですよ。」
やっぱり見抜かれていた。ふつうの大人だったらさりげなく自然に対応できるんだろうなぁ。結局彼にまた気を遣わせてしまった。どうして私は、
「どんな夕日さんでも、僕は好きです。」
今なんて...すき...好き?念のため確認を取ろう。
「それってどういう意味の好きなの。」
そういうと、健康的な真っ白な歯を覗かせ、艶然とした笑みを見せつける。
「さぁ、なんでしょうね。」
たったの数週間しか経っていないのに、あどけない少年はすっかり影を潜め、妙に色気づいた青年が私を茶化す。でも、そんな彼といるのも案外心地が悪くない。そんなやりとりをしているうちに、山の入り口と思われる場所に着いていた。そこはお寺の境内をくぐった先にあり、ついさっきまで民家や工場が散在していた光景とは打って変わり、無数の植物や連なる山々が周囲を囲う。あまりにも異質で、初めて目にする光景に不安の情が募る。思わず私は彼の横顔に目をやる。なんだか嬉しそうな顔をしているなぁ。再び周囲に目をやると、ついさっきまで私の精神を侵食していた情は行方をくらまし、私もなんだか嬉しくなってしまう。木々のざわめきも、今では爽快感に満ちた心地の良い音に感じる。
「それにしてもすごい所だね。さっきから心が浮つきっぱなしだよ。」
「そうなんですよ。何度来てもここの光景に圧倒されるんですよね。」
そう言いながらみせる彼の満足そうな表情は、いつもアイスを食べているときみたいに子どもっぽく見える。いざ見晴らし台を目指して歩き始めると、ほとんど整備されていないのか道といえるものはなく、辛うじて人が踏み続けてできたであろう路を登っていく。とても素人が登るような山ではないのだと一歩ずつ踏み込んでいくたびに認識させられる。それにしても、慎重に進む私と違い、背を見せながら先導する彼は公園の遊具で遊ぶかのように軽快に進んでいく。
「そういえば...晴君って...陸上..部..なんだっけ。」
少し呼吸が荒いせいか言葉が途切れてしまう。彼は少し速度を緩め、私の傍に並ぶように歩き、顔をこっちに向ける。
「憶えていてくれたんですね。一回ポロっと口に出しただけなのに。」
なんだか最後の言葉に私をたぶらかすかのような魔性味を感じてしまう。もちろん彼は何の意図も無いのだろうけど...多分。
「いや、別にそれくらいのことは憶えるよ。君のことをもっと知りたいしさ。」
そういうと、視線を背け、平淡な表情をしたかと思えば、艶然とした表情を私に向けゆったりと口を開く。
「そう言ってもらえて嬉しいです。」
無自覚な毒に、どうしようもなく悦びを感じてしまう。彼の麗しい言葉や表情は、じっくりと丁寧に私を彼の色で染み込ませる。そんな私をよそに、楽し気な表情で辺りを見渡しながら一歩一歩と地を踏みしめる。彼につられるかのように周囲を見渡すと、木々の隙間から通ってきた街並みが見え、感嘆せずにはいられない。そのあとも他愛のない話をしながら着々と登っていくと、見晴台に続く最後の階段が見える。彼は私を見つめ、私も見つめ返す。何も言わず、お互いに視線を階段に向け、余力を振り絞り見晴台をめがけて疾走する。言わずもがな、残り十段ほどで失速する私をよそに晴君は颯爽と走り抜け、無邪気な笑みをし、空に向かって拳を突き上げる。私はそのまま転げるように草むらの上に寝そべり、激しく稼働する肺を冷ます。
「負けたー。さすが...陸上..部なだけは...あるね。」
「いや...夕日さん..も..だいぶ..速かったですよ。途中焦りましたもん。」
「すごいきついけど、こういうのも楽しいね。」
「分かります。僕も夕日さんと走れて嬉しいです。」
数分ほど経ち、呼吸が癒えゆっくりと立ち上がる。周囲を見渡すと、見晴台で彼が何かを眺めている。階段を登り、柵に寄りかかる彼の横に並ぶ。その瞳には目の前の光景は映っておらず、物憂げな表情で私には見えない何かを見つめている。ついさっきまでいた街のざわめき、騒々しさがここでは消え失せ、静けさだけが響き渡る。街は霞んでいて、此処はまるで常世のようだ。
静けさに重ねるかのような淡い声で、
「僕って、ふつうに見えますか。」
と言葉を零す。
あまりに突然で、言葉の真意が分からない。
「詳しく聞いてもいいかな。」
そういうと、彼は視線を下ろし、口を開く。
「僕、最近自分が分からないんです。ずっとふつうでいようとして生きてきたんですけど、みんなみたいに夢とか、やりたいことっていうのが無い...というか、怖くてなにも出来なくて、ひたすら周りを真似して置いて行かれないようにしてきたのに、どうすればいいのか日を追うごとに分からなくなって、自分は異常なんじゃないかって最近思うんですよね。」
初めて逢った時からなんでこんなにも彼といると心地がよいのかやっと理解した。彼は私なのだ。だからあの時彼は私をただやさしく抱擁してくれたんだ。何か言っただけで壊れてしまうかもしれないから。私の人生はもうどうにもできないほど崩れてしまったけど、今なら彼を助けることができるかもしれない。
一切の力みを無くし、想いから発せられる声で彼の名を呼ぶ。
「晴くん。」
そういうと、ゆっくりと暗い顔を私に向ける。
「君は、ふつうじゃないよ。だって平気で知らない女の人のアイス食べちゃうし、コーヒー飲むときも何も入れずに飲んでるのに美味しいっていうし。でもね、そんな君が私は好きなの。だから安心していいんだよ。君はもう誰かの光になれているんだから。」
彼の潤んだ目から不安が零れ柔らかい表情で私を見つめる。私はそっと彼を抱きしめ、彼の想いを分かち合う。彼の優しい背中は温かくずっと抱きしめたくなるほど心が落ち着く。
茜色が空を淡く彩り、儚い光景に酔いしれてしまう。
「この景色が、僕は好きなんです。」
「ほんとうに素敵な景色だね。私を連れてきてくれてありがとう。君といると好きな場所がどんどん増えちゃうね。」
「僕もあなたとこの景色が見れて幸せです。ところでさっき、僕のこと好きって言いましたか。もしそうなら、返事どうしようかなぁって思って。」
「別にそういう意味の好きじゃないから、なにを勘違いしているのかなぁ。」
「返事はおいおい考えますよ。期待にそうかはわからないですけど。」
「だから違うって言ってるでしょ。」
そんな会話を続けながら山を降り、夕日の沈みとともに私たちはそれぞれ家路につく。
一切の感情を零さないよう淡々と支度をし、ゆっくりと玄関のドアを出る。まさに快晴と呼ぶにふさわしいほど空に雲が見当たらない。嫌になるくらい燦々とした光が街中に降り注ぎ、何もかもが露わになり、いつも以上に窮屈に感じてしまう。でも、こういう日はそれだけにとどまらない。歩きながらでは、たまに現れる草木の影に十分浸かることもできない。唯一できることがあるとすれば、クーラーで冷やされた教室になるべく早く辿りつくために、ひたすら無心で足を前へ前へと動かすことくらいだ。それにしても、曇っている日は周囲を歩く人をぼやかしてくれるから気持ちが落ち着く。けれど、今日みたいな日は通りがかる全ての人の視線がどうしても気になり呼吸が上手くできないのだ。自分の一挙手一投足が他人の気に障らないか不安になってしまう。どうしようもなく余裕がない時はだれかと会話をする方が楽なのか、いつもは気疲れしてしまう同級生たちに対しては不思議な安心感すら湧く。同級生たちに合わせ、校門を小走りで抜け、競うように教室に向かう。ドアを前回に開けると、ひんやりとした空気がふわっと優しく被さるように涼しくさせる。何十年も使い古されたエアコンといえど、真夏になればエアコンから流れる冷気は蒸発しそうな身体を隅々まで癒してくれる。席につき、こびりついた汗を強引にふき取る。鞄から水筒を取り出し、握りしめるように持ちながら冷えた氷水を喉に流し込む。周りの同級生もノートを扇子がわりに身体を冷ましたり、制汗剤を皮膚に吹き付けている。快晴の日の利点を挙げるとすれば、身体がだるいからか会話が中々始まらないため安らげる時間が比較的多いことかもしれない。それでも、僕は晴れの日が好きではない。晴れになると、枷から解放されたかのように不規則な行動を人はとるからだ。だからといって何かできるわけでもなく、ただひたすら何も起こらないことをここで祈るしかないのだけれど。何もとくに大きなことが起こらないまま午前の授業は終わり、冷房の風がよくあたる場所でで友人たちと席についてお弁当を食べる。喋っていると、僕たちの声を遮るように近くの女子の集団の会話が聞こえてくる。
「私この前例の女見たんだよ。」
「どの女。」
「ほらあの犯罪者って噂されてる。」
「あぁ、そいつのことね。」
「そうそう。一週間前くらいに雨降ってたじゃない。それで部活休みになったから帰ってたら偶然その女が学校から少し離れたコンビニにいたんだよ。」
「マジで!それでどんな奴だったの。」
「なんかフード被っててはっきりとは顔見れなかったけど人殺してそうな雰囲気してたわ。」
「うっわ怖ー。もしかしたらあんた今度刺されるんじゃない。」
「やりかねないよね。今度見かけたら絶対警察に通報しよう。」
「私も今度見かけたらツイッターに載せとこー。けっこうばずったりするかも。」
「間違いないわー。」
この前も噂になっていたやつか。それにしてもコンビニって、僕がいつも行く店のことだろうか。まぁ正直ただの噂に過ぎないだろうし気にすることはないだろう。
「俺その女の写真持ってるよ!」
「マジで!見せて見せて。」
「えっ、かなり美人じゃない。」
「噂通りじゃん。」
美人という言葉に反応したのか友人たちもその写真を見にその集団に駆け寄る。
「ホントだ!かなり綺麗じゃん。」
「晴も見てみろよ、別に美人が嫌いなわけじゃないだろう。」
言われるがままに渋々とその集団に歩み寄り、皆の視線が集まるスマホの画面を見つめる。
「えっ。」
思わず声が出る。
「ほら、美人でしょ。」
頭が真っ白になる。今なにが映っていたんだ。もう一度目をやる。間違いない。そこに映っているのは彼女だ。僕にアイスをくれ、いつも僕をからかう、そして僕に好きだと言ってくれた夕日さんだ。両側に髪がたおやかに垂れ、朧げな瞳。疑いようもないくらいその写真に写っているのは確かに彼女だ。あの人が.....犯罪者。そんなわけがない。だって彼女は僕を救ってくれた恩人...いや、大切な人だ。犯罪なんて犯すわけがない。犯していたとしても、絶対なにか事情があるはずだ。けど、このことがほんとうなのか気になってしまう。今度逢ったら聞いてみるか、いや、それはダメだ。もし聞けば彼女は必ず傷つく。それに、彼女が犯罪者だったからといって、想いは絶対に変わらない。忘れればいいんだ。こんなこと。
不安というのはこんなにも鬱陶しいのか。結局午後の授業中、部活中でさえもずっと昼間のことで頭がいっぱいで身がとてもじゃないけどはいらなかった。でも、彼女に逢えばこんな蟠りは一瞬で吹き飛ぶに違いない。けど、一体どうやって接すればいいのだろうか。今まで通りに話しかけられるだろうか。話そうとした瞬間に昼間のことを思い浮かべてしまったらどうすればいいのだろうか。なんにせよ、逢ってみないことには分からないか。今日は彼女に逢えるだろうか。路地を通り抜け、コンビニを見つめると、いつものように彼女はそこにいた。少し重い足を無視するように軽やかな走りで彼女に近づく。
「今日も逢えましたね。」
「うん。待ってたよ。」
あぁ、やっぱり彼女はすごい人だ。今のたった一言で蟠りがあっという間に消え去った。今日も相変わらず妖艶でいて、また可憐で素敵な表情だな。
「晴くん、私今日一切砂糖、ミルク抜きでブラックコーヒー飲もうと思うんだけど君もどうかな。」
なぜか自信たっぷりなドヤ顔でコンビニの入り口を指差す。
「もちろん飲みますよ。今日こそ苦い表情せず飲み切れるといいですね。」
そう言うと、少し不安が生まれたのか覇気のない表情になる。
「余裕だもんねぇ。」
同じコーヒーのボトルをお互い手に取ってお会計をすると再び並ぶようにガードパイプに腰を下ろす。緊張しているのか彼女の首筋から冷や汗が垂れる。
「じゃ、じゃあいくよ。飲むからね。」
そういうと一口、また一口とコーヒーを口に注ぎ、注ぐ動作をするたびに苦悶の表情を浮かべ、限界に迫りそうな表情を見せつつ、わずか数十秒で飲み干してみせた。達成感と、少し苦しそうな表情が入り混じった顔がまた艶やかに見え、直視ができない。
「どう、私すごいでしょ。」
「ほんとうに夕日さんはすごいと思いますよ。」
なんだか無性に彼女に触れたい。今にも溢れだしそうになるほどの想いを伝えたいと思い、僕は彼女の夕日で暖められた彼女の額からふんわりとした柔らそうな髪へとなぞるように頭を優しく撫でてしまう。すると、彼女は頬を赤らめ、慌てたような顔で、
「撫でられるのはすごい嬉しいけど、一応私年上だし、なんだか恥ずかしいよ。」
といい、慌てるように僕は手を膝に戻す。
「ごめんなさい、手が勝手に動いてしまったというか。夕日さんのことをどうしても撫でたくなって。」
気を悪くしていないだろうか。どうにか弁解しようと咄嗟に湧き出た言葉で繕う。でもそれは杞憂だった。彼女はただ茜色に照らされた頬を緩め、嬉しそうに僕を見つめている。
「あやまる必要なんて全くないよ。ただいきなりだったからびっくりしちゃって。でも、晴君に撫でられるのも悪くないね。」
時間を忘れるように肩を自然に寄せ合い、茜色の空の下で地平線に吸い込まれるように沈んでゆく陽を、ただ静かに眺める。彼女は、まるで夕日のように温かくて、この時間がなによりも幸せなのだと感じる。夕日なんて沈まなければいいのに。
「私ね。実は罪を背負っているの。」
彼女は唐突にそういう。気づけば夕日はほぼ沈み、辺りには暗闇が降り注いでいた。
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