第一章

六月


「ピピッ、ピピッ、ピッ」時計は朝の七時を指している。固い瞼をゆっくりと開ける。意識がおぼろげながら思う。いつからだろうか。周りの顔色をうかがって仮面をつけ始めたのは。他人に、喜ばれる、好かれるような表面上の自分を無意識に作り出して以来、自分らしく生きたためしはない。身内にさえもさらけ出すことが出来なくなった。そんなことを天井に向かってつぶやきながら朝を迎える。顔を洗い、制服に着替え、母が作った朝食を居間のテレビから流れるニュースを漠然と聞きながら食べ、歯を磨き、鞄を手に取り、靴を履き、ドアを開け、学校へと向かう。一般的な、普通の、何の変哲もない朝を過ごす、このルーティンを心がけている。人に好感を持たれるためには「変」であってはならない。一度変だと思われれば、普通とは異なる人間であると思われかねない。25分ほど歩けば、徐々に同じ学校の生徒があらわれる。正門を抜けると「おはよう!」と同級生、友人が声をかける。その言葉に呼応するように「おはよう!」と返す。教室に入れば鞄を置き、他愛の話をして朝礼までを過ごす。周囲の気分を害さないよう、言葉の節々を瞬時に脳内で整理し、最適な言葉を返す。最初は億劫だったけれど、慣れてしまえば何の感情もわかなくなる。授業では目立つような言動を避け、教員が求める解答を述べ、過度に手を挙げない、といった感じに必要以上に目立たないよう過ごす。昼休みには友人たちと教室で趣味や、最近の話題などについてごく一部の自分をさらけ出しながら盛り上がったり、たまに教員に対する愚痴を述べたりするなど他愛のない会話をする。決して退屈なわけではない。ただこの時間がもったいないのではないかと思ってしまう。午後の授業も乗り越え、部活に行く。僕は陸上部に所属している。走るのは好きだ。走っているときは周りのことなど気にならない。自分の筋肉の大小ある多様な筋肉の動き、徐々に激しくなる呼吸、そして見える先の白線のみを意識する。この一連の動作を行っているときが一番落ち着く。本質は茶道や禅などの事柄に近いのだと思う。二時間ほどたつと、筋肉は軽く痙攣し、身体は何倍にも重く感じ、心臓は臓器を適切に循環させるため激しく稼働する。僕は倒れ込むように横たわり、ただ上を見上げる。いつの間にか空は薄い水色から存在感を放つ暁が覆う。練習を終えると、重い体でゆっくり歩を進め、家に向かう。大通りでは何台もの車のエンジン音がけたましく響き続け、道には仕事帰りの会社員、帰宅中の学生、逆にこれから仕事に行くと思われる人達とすれ違う。15分ほど歩くと人気は無くなり、家族を出迎える家々の光が道を照らす。気づけば目的地であるコンビニにたどり着いた。放課後、この家の近くのコンビニに立ち寄るのが日課だ。そのせいかここの店員の多くとは顔なじみだ。自動ドアを通れば冷気が一気に身体を覆うように熱い体を冷まし、一気に気力が回復する。そして店内の奥にある飲料エリアに向かい、戸を開け、ペットボトルのコーヒーを手に取り、レジで会計し、若干の名残惜しさがありつつも店を出る。この一連の動作を一年以上もこなすと何も考えなくとも無意識的に行うようになった。店内を出ると、そばにあるガードパイプの上に腰をおろし、コーヒーを一口ずつ少しづつ流し込みながら、身体のスイッチがオフになったかのように呆然と目の前を見つめる。心は静まり、筋肉が緩まる。ふと思う。僕はこの先どんな人生を歩むんだろうか。今まで通り周りと同じよう、に大学に入り、大学生らしい生活を送り、良い会社に就職し、結婚し、子どもを育て、退職し、家族に看取られながら寿命を終える。そんなどこにでもいそうなありふれた未来へ進むのだろうか。不安なわけではない。ただ何がしたいのか、将来どうなりたいのか。自分から行動するのが怖くて、不安で、だから周りと同じように過ごし、何か熱中するものもなかったからか、当然秀でたものが僕には無く、大衆の一人として振る舞いながら生きてきた。周りはだんだんと夢や目標が出来、前に進んでいく中、時間が勝手に進み、周囲から、社会から選択を迫られているような気分になる。いつのまにか日は完全に暮れ、気づけば20分も経っている。重い腰を持ち上げ、家に向かう。家に帰れば親からは進路についてひたすら言葉を浴びせられ、食事、風呂、家事をこなし、最大音量で無作為に選んだBGMを流し、課題、勉強を一通り行う。時計は22:30を指している。中学生のころ部の顧問に家でも軽く筋トレとストレッチを行えといわれて以来、寝る前の習慣として行っている。終えると汗をタオルで拭きとり、窓を半分ほど開け、体の熱が冷めるまで夜風を浴び、布団に入る。夜は特別な音がする。日中とは異なり、夜になると静寂が辺りを包む。ほんのわずかに車の走る音や、植物の揺れる音が耳に伝う。僕はゆっくりと瞼を閉じ、脳は無意識に遮断し、眠りに入る。


 


「ピピッ、ピピッ、ピッ」時計は朝の七時を指している。固い瞼をゆっくりと開ける。上に目をやる。優柔不断で不透明な自分に憂鬱感を抱き、今日という日の始まりを徐々に実感しながら朝の一連の動作をこなし、家を出る。空には少し黒みを帯びた雲が空を縦横に並び、雨が筋のように降っている。カサを手に、学校へと向かう。普段通り、道の途中で同級生や友人にあいさつをしていると、数メートル先の女子の会話がなにやら盛り上がっていることに気づく。とはいっても雨の音で何について話しているかはさっぱり分からない。学校に着くといつもと同じように行動する。けれど雨が降っているからか教室の雰囲気や生徒の様子はどこか晴れの日とは異なる。不規則な天気に心を躍らせている人もいれば、暗い空に影響されたのか気分が暗い人もいる。まぁ僕にはあまり関係はないのだけれど。雨が降ろうが晴れようが、僕はただ大勢の意見、流れに身を任せるだけだ。午前の授業が終わり、昼休みになると雨が降っているからか多くの生徒が教室で時間を過ごす。友人たちと話していると、四席ほど離れているところの集団がいつにも増して話に熱中している。友人たちも気になったのか、彼らの元へ歩み寄る。


「何をそんなに盛り上がってるの?」


「なんかね、犯罪者がこのあたりに引っ越してきたらしくて。教えてくれた子がいうには東京からきた女の人で、すごい綺麗なんだって。」


「キレイな女ってなんか怪しいよな」


「そういう女に限って男の人を騙してそうだよね。」


なるほど。心底どうでもいい話だ。こういうどこのだれが言い始めたかわからない話は大抵ただの与太話に決まってる。それでも自分の意見を口に出せない僕は、いつも通り、友人たちと同じようなリアクションを取り、ただ時間が過ぎるのを待つ。


 朝、夢から逃げるように目が覚める。いつからか、寝ることに怖さを感じるようになった。寝る度にあの日の記憶が鮮明に夢に現れる。夜に怯え、朝が一刻でも早く訪れることを願う。時計は7時を指している。もうこんな時間?!身体全体を刺激するかのように立ち上がる。仕事行かなきゃ!あ、そうだった。仕事辞めてたんだ。一気に力が抜ける。何すればいいんだろう。仕事をやめた今となっては何もわからず、ただ無気力のまま生きている。とりあえず一通り家事でもしようかな。台所に行き蛇口から流れ出す水を飲み、かさついたのどを潤す。冷蔵庫を開ければ食材がぎっしり詰まっていた。堅実だったころの冷蔵庫とはまるで違う。とりあえず定番そうな焼き魚、味噌汁を作ることにする。ゆっくりと食材を調理する。二十分ほど経つと、香ばしく、濃厚そうな香りが部屋に充満する。昨日炊いたお米をレンジで温め、その他の食材も盛り付ける。テーブルに運び、椅子につく。見た目はふつうそのものの朝食だ。けれど、どこか心が昂っている。箸を手に取り、一口、また一口と頬張る。おいしい。ただその一言に尽きる。鳥のさえずりだけが聞こえてくるこの空間に安心してしまう。あんな騒がしい場所に暮らしていたのが信じられないほど、此処は居心地が良い。温かいお茶を両手にただこの瞬間の静けさを味わう。食器を片付け、溜めた洗濯物を乾かそうと露台に出ると、雨が降っている。都会の臭う雨とは違い、なんだかすっきりした匂いがする。まだ朝の9時だというのにやることがない私は寝間着を取っ払うように部屋着に着替え、ひんやりしている床に寝そべり、仰向けになる。何もせず、ただ意識だけをこの空間に預ける。茫然としていると、次第に意識が遠のいて... 


 午後の授業が終わり、部活へと向かおうとし、グラウンドを見るとと雨は弱まるどころかさらに激しさを増している。体育館内で筋力トレーニングを一時間ほど行う。部活が終わり、雨の様子を見ようと外を見ると、先ほどの土砂降りが嘘かのように雨はほとんどやんでいた。念のため傘をさして家へと向かう。それにしても不思議だ。一歩、一歩と進むたびに雨の勢いは弱まっていき、空気は乾き、空は明るさを取り戻していく。下を見れば水たまりが夕日を反射し、一面に茜色が広がっている。もしかしたら僕は今日暗い心境だったのかもしれない。この景色を眺めていると心が楽になり、代わりに何か暖かいものが溜まっていくのが分かる。見慣れない光景に意識をやっていると、いつのまにかコンビニに着いていた。


 瞼をゆっくりとあげる。胸がなんだか軽い。そういえば、夢、見なかった。


「はぁ~。」


ひどく安堵したのか、思わずため息が出る。こんなに目覚めがいいのは何年ぶりだろうか。ふと外を見ると、雨はやみ、空は橙色に染まっている。なんだか次第に気持ちよくなり、嬉しさが湧き上がり、身体全体を廻る。そうだ、こういう時こそ甘いものでも買って嬉しい気持ちを満足するまで堪能しよう。ただ自分がやりたいことをするんだ。顔を緩ませたまま、財布を手に取り、ドアを開け、駆け足で近所にあるコンビニに向かう。改めてみると、コンビニは宝の山なんだと気づかされる。ただ商品が陳列しているだけなのに、一つ一つが己の魅力を存分に語りかけてくる。誘惑を避けながら、お目当てのアイスのコーナーにたどり着く。「あった!」お目当てのアイスは特段と輝いて見え、トレジャーハンターかのようのゆっくりと手を伸ばす。お宝はついに私の手の中に!なんちゃって。早く味わうためレジに行き、自動ドアを通り抜ける。すぐそばにはなんとも座り心地のよさそうな椅子がある。どっしりと腰を下ろし、アイスを袋から取り出し、すぐさま口に頬張る。


「幸せだぁー。」


 いつものように店内に入り、コーヒーを手にお店を出る。ふと違和感に気づく。目をやると、僕がいつも座る場所に誰か座っている。普段なら他人のことなど気にも留めやしないが、違和感を感じると人は気になって仕方がないらしい。その人は恐らくアイスを片手に、身体を夕焼けにむけている。同じような行動をとる人っているんだな。僕は仕方なくその場でコーヒーを味わう。いつもなら物思いにふけるのだけれど、その人のことが気になった仕方ないのか間を置きながら視線をやる。十数分経ってもその人は移動する素振りを見せない。結局その人のことはほとんど何もわからなかったが、またここにいるかもしれないという期待を持ちながら、家路につく。


 


意識が外界へ向けられ、瞼を開くと、朝特有の斜光が部屋に差し込み、朝なのだと自覚する。なぜだろう。胸の中の圧迫感が薄い。いつもなら吐き出すために嫌なことばかり考えながら起床するのに、今日は呼吸が楽だ。カーテンを掃うようにひく。朝ってこんなにも眩いのか。なんだか無性にワクワクしてしまう。朝日で暖められたワイシャツを纏い、ネクタイを締め、階段をリズムよく降り、テーブルに並べられた朝食を食べる。いつも食べているはずの朝食なのに、香りや風味、歯ごたえまで楽しんでいる自分に驚きを隠せない。支度を終え、鞄を手にドアを開け家を出る。軽快に踊る爽やかな風、ただただ明るい陽の光が心地よくさせる。けれど、学校があると認識した途端に歩く速度が徐々に遅くなる。学校に行くと、それまでの別人かのような自分はいなくなり、これまで通り、普通に接する。一つ普段と違うとしたら、放課後を待ち遠しいと感じていることかもしれない。教員の表面的な人格で薄く中身のない話、昼休みに聞こえてくるテレビのスキャンダルやタレントの裏話、嫌われないために空気を読もうとする生徒同士のかかわりが存在する学校という空間を抜け出したい。唯一離れ、忘れることが出来る放課後が僕の心のよりどころなのかもしれない。終礼のチャイムが鳴り響く。部活に向かい、練習を始める。次の大会に向けて、部の士気が上がり、目の色を変え練習に取り組む雰囲気の中、どうしても身が入らない。呼吸器官は荒れながら動き、フォームは乱れる。コーチには集中力が足りないと指摘され、仲間からも心配される。周りに置いて行かれたくない焦りがますます不安にさせる。練習が終わり、逃げるように学校を後にする。


「なんで上手くいかないんだろう。」


たった一つ歯車がずれただけでこんなにも周りとの距離を感じるなんて。一刻も早く心を落ち着かせたい。目的地を目指し、無我夢中に四肢を稼働させる。呼吸は激しく、心臓は不規則に脈打つ。どれくらいの時間が経っただろうか。重く、俯く上半身を上げ、見上げた先にはコンビニがあった。すると、急に身体のざわめきが静まり、一気に楽になる。頬を緩め、闊歩し、いざコンビニに入る。


瞼を慎重にひらき、朧気ながら脳も動き始める。あれほど怯えていた夢はいつの間にか見ることはなく、気づけば目が覚めている。栄養ドリンクを飲んだりして無理やりにでも起こさなければいけないほど重かった身体の面影はなく、体操選手のように軽やかと布団から飛び出す。今日の朝は昨日とは別物だと誇示されるかのように眩い斜光が部屋中を照らす。寝間着を脱ぎ捨て部屋着に着替え、朝ご飯を用意する。フライパンに油をひき、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出し、油が飛び跳ねるほど熱々のフライパンに投入する。食材はあっという間に衣替えをし、よだれをそそる香ばしい匂いがする。食パンを焼き目がしっかりつくまで焼き、完成した食事をテーブルに運び椅子に座る。やはり美味しい。まさか私に料理の才能があったとは。食べ進めていくうちに何かが欲しくなる。


「ビール、飲んじゃうか。」


いやいや朝っぱらからビールはまずいのでは。でも、うぅぅ。プシュ!ゴクッ!うまい!やはりビールの誘惑には勝てなかった。至福だなぁ。心が張り裂けそうで、やり場のない苦しさを紛らわすために飲んでいた時と違い、ただおいしいから味わう。この生活がずっと続けばいいのに。けれどそれが叶わないことは自覚している。いつかはまた向かい合わなければならないのだと。時間が進むたびに焦りは増す。16:30。思わず寝そうになるほど気持ちのいいほどの晴れ模様だし、散歩でもしようかな。財布をポケットにしまい、帽子をかぶり、玄関をぬける。日差しは真夏ほど煩わしくはなく、汗をかかない程度に暑い。10分ほど歩くと小さな公園が佇んでいた。子どもたちのはしゃぎ声、鉄製遊具の軋む音に懐かしさを覚える。入り口のすぐ近くにある木製の古びた小さなベンチに腰をおろす。少し見上げれば透き通るような青い明るさから、黄色くぼやけた空が広がる。ただ座りながら情緒を感じるこの時間がなんとも心地がいい。


「なぁ、そういえば聞いた。」


不意にどこからかする話し声に意識が覚める。


「この街に犯罪者が越してきたんだって。」


「それやばくね。男?」


「いいや、どうやらかなりの美人らしいよ。」


「すぐ近くにいたりして。」


思わず私は帽子を深々と被り、姿勢を低くする。筋肉は強張り、呼吸は震える。数分がたち、首を上げ、周囲に誰もいないのを確認する。


「もうどうしようもないのかな」。


なんだか無性に甘いものが食べたい。慎重に立ち上がり公園を抜け、だれも気に留めないよう強張る足を周りの歩行者の速度に合わせる。空を見上げればいつの間にか橙色に染まり、道路、建物、人をぼかす。不思議なことに歩いていくうちに重く枷のようにまとわりついていた不安が和らいでいき、思わず口元が綻ぶ。夕日にいざなわれるように進むといつの間にかコンビニに辿り着いていた。あんなに重かった足は一気に軽くなり、今にでもジャンプしてしまいそう。いつものようにお気に入りのアイスを手に自動ドアを抜け、定位置に座ろうと目をやると先着がいた。じっくり眺めるのは変態っぽいのでアイスを頬張る合間に見つめる。おそらく高校生かな。身体もかなり立派に見える。けれど、高校生には似つかわしくないコーヒーを片手に何かを見つめている。何かの対象ではなく、どこか遠くを見ているように思う。つられるように彼の見るほうへ目をやる。そこには日がほとんど落ち、真っ赤な太陽が地平線を茜色に塗りつぶす景色が広がっている。気づけば少年はいつの間にかいなくなっていた。


 疲れが限界に達し、一気に睡魔に襲われそうになるほどひんやりしている布団に飛び込む。そういえば。コンビニにまさかまたあの女の人がいるとは思いもよらなかった。綺麗な人だったな。初めて目にしたときはほとんど後ろ姿でまったく分からなかったけど、真っ赤な夕焼けに照らされた瞳は何かを抱えているように見え、風情を楽しんでいるように見えるその人の表情は婀娜やかだった。それにしても、名前すら聞けないなんて。どんなふうに話しかけようかあれこれ悩んでいるうちに心がいっぱいになって思わず逃げ帰ってしまった。もし自発的に動ける人だったら難なく話しかけることが出来たんだろうな。こういう時いつも自分に対して険悪感を覺える。でも、不思議と暗い気持ちにはならない。むしろ心が軽い。また、遇えるかな。




 鞄を手に玄関を出ると、空には鬱々とした黒ずんだ雲がたなびいていて雨が降ることを予感させる。念のため傘を持ち、学校へ向かう。学校では、外の情景などお構いなしに友人やクラスメイト、生徒たちの多くがいつもよりも会話に熱中し盛り上がっている。気になって友人たちのもとに行く。


「××聞いたか?」


「何のこと?」と返す。


「おれ昨日みかけたんだよ。ほらあの例の。」


「まじで!どこにいたんだよ?」


「うちの近くの公園にいたんだよ。めっちゃ美人だったし間違いないって。」


「でも他校の奴らが駅で見かけたって聞いたよ。」


「おれ近所の人から夜に繁華街で市のお偉いさんと一緒にいるの見かけたって聞いたぞ。」


まだその話題について盛り上がっていたのか。正直ただの噂話にしか聞こえない。情報が錯乱している時点でかなり信じがたい。


「それはやばいね!」と一言だけ添え、時間が過ぎるのを待つ。授業が終わり、外に出ると雨がひっきりなしに降っている。部活に行くと体育館にはグラウンドが使えないためたくさんの生徒で溢れる中、スクワット、ラウンジ、体幹系のトレーニングを一時間ほどやり、大会前のミーティングを行い、家路につく。地面をうちつける雨、車の水を跳ねる音がせわしなく鳴る。そういえば、あいつらが言ってた女の犯罪者って何なんだろう。聞く限りではでたらめな話としか思えないけど、あんなに盛り上がっているのは噂話にしてはなんだか不自然な気がする。仮に本当だとしても関わることはないだろうし、どうでもいいや。そういえば今日もあの人はコンビニにいるのだろうか。彼女の姿を思い出す。なんて話しかけようか考えるたびに心臓が脈打ち、汗が首を伝い、緊張しまくっているのが嫌でも認識させられる。勢いのある水滴から身を守るように傘を握り、歩を進める。一歩一歩進んでいくたびに雨が弱まっているように感じるのは気のせいだろうか。十五分ほど歩くと、あんなにはびこっていたはずの雨雲は姿を消し、タンポポ色の空がまるでそこにずっとあったかのように思わせる。よし、考えたってしょうがない。覚悟を決めてコンビニに向かう。


 食後のコーヒーを手に躊躇のない雨の意外にも心地よい旋律に耳を傾ける。昨日の一件もあってか外に出るのが少し不安になる。思わず反応してしまったけれど、あれは私のことだったんだろうか。もしそうだとしたら、あのことが関係しているんだろうか。罪を背負ったあの日から、今まで信頼してきた全ての人から交友関係を断たれ、蔑まれた私は逃げるようにこの街に辿りついた。けれど、もしすでにあのことが伝わってしまっていたとしたら。もうどうにもできないのかな。


窓の向こうには鉛色の空が広がっている。


体中のざわめきをなんとか搔き消したいその一心で、買い込んだビールをひたすら口に流し込む。鬱陶しくてしかたがない。どんなに飲んでもいっこうに静まる様子はない。はやく、はやく消えて。ウッ、ウッ、ウッ。だんだんと気持ちが悪くなってきた。それでも飲み続けていればなんだか楽になれるような気がする。ただ一心不乱に体内に流し込む音だけがさみしさに満ちた部屋に響く。


ふと瞼を慎重にひらく。あれほどざわめいていた雨の音は静まり、穏やかな光が部屋に申し訳なさそうに差し込む。もう夕方か。ウグッ、胃が押しつぶされるように痛む。やっぱり少し飲みすぎてしまったかもしてない。ただ意外にもそんなにつらくない。ここ最近、陽が沈んでいる時が最も気分がいい。すべてを朧気にする夕日を見つめるとなんだか不思議と楽になれる。ここの夕方はとくに落ち着く。都会なんかでは仮にその時間帯に居合わせたとしても高層ビルに埋もれてしまう。人というのは不思議なもので、体調が悪い時ほど甘いものを欲してしまう。気づけば財布を手にコンビニにむかって歩を進めている。それにしても今日の空はなんだかタンポポの色みたいにみえる。童心がうずうずしている気がする。コンビニに入るといつものようにアイスのコーナーに一直線上にむかい、お気に入りのアイスを手にお決まりの場所で食す。ちっぽけな至福ではあるけれど、今この瞬間においては一番の至福だと感じてしまう。おいしいなぁ。


 いつのまにか空は橙色に染まり、目の前には落ちてゆく夕日を見つめている彼女がいる。僕は今おそらく人生のなかで一番緊張している。聞こうとせずとも心臓の鼓動が昂っているのが分かり、何度拭いても手汗が湧き出る。落ち着け。いったん整理しよう。まず彼女にさりげなく話しかけて、いやでも迷惑にならないだろうか、いや今更そんなこと考えてももうここまで来てしまったからな。よし、こうしよう。「こんにちは。」とあいさつをして、少し話題を添えてから名前をお聞きしよう。これならいけるに違いない。落ち着け、深呼吸しよう。すぅー、はぁ~。もう一回。すぅー、はぁ~。よしっ。一歩、一歩、と近づく。彼女の姿が鮮明になるにつれて鼓動がますます大きくなっていく。手が震えている。もう目の前に来てしまった。後戻りはできない。


「あっ、あの。」そう言った瞬間、彼女は僕の方へ振り向く。


「君は…あー!あのコーヒー飲んでる少年だよね。なに、コーヒー好きなの?」


思いがけない質問に頭が混乱する。


「えっと、あの。」


「落ち着いてしゃべってくれて大丈夫だよ。」


そういって柔らかな表情で僕を見る彼女をみていると不思議と心が静まる。


「じつはあんまり味は好みじゃないんですけど、なんか落ち着くっていうか。」


へんてこな返事になってしまった。


すると彼女は拍子抜けしたような顔をする。


「落ち着くって、君ほんとうに高校生?」


口元が緩み、クスッとにこやかに笑っている。


「ごめん、ごめん。つい笑っちゃった。それで、私に何か用?。」


そうだ、名前聞きたいんだ。


「あの、あなたのなまえを聞きたくて。」


さっきまで落ち着いていた鼓動がまた速まる。


そういうと、ついさっきまでの彼女の穏やかな表情から曇った、なにかを抱えているような複雑そうな表情にみえた。


「ごめんなさい、なまえはどうしてもいえないかな。でもその代わり好きに呼んでいいよ。そういえば君の名前は。」


うそっ、それって僕程度のものにはなまえを教えるはずがないってことなんだろうか。というか僕の名前を聞かれた?なんだかうれしい。少し間をおいて、ゆっくりと口を開く。


「ハル、晴っていいます。」


彼女はへぇ~と反応し、納得したような表情で、


「晴君、いい名前だね。」という。


彼女がそういった瞬間、胸がギュッと優しく包まれたような温かい気持ちになった。


「そうだ。アイスもう一本余ってるんだった。」


そういって袋から取り出し、


「はい、どうぞ。」


ほんのり溶け始めたアイスが口元にむけられ、断れそうにない。


「あ、ありがとうございます。」


彼女の手に握られたアイスをそっと手に取る。食べてほしそうな期待がこもった表情で見つめられている。


「いただきます。」


おそるおそる一口頬張る。


爽やかな甘みがつつましく口の中に広がる。


「おいしい。」


そういうと、彼女は童心に満ちたうれしそうな表情で笑いながら、


「おいしいっていってもらえて嬉しいな。」といった。


名前も知らない彼女の笑顔は今までの人生の中で見てきたどんなに価値が高く、美しいものよりも尊く、輝いてみえた。


僕は思わず、


「ゆうひ、夕日さんって呼んでもいいですか。」


とっさに思い浮かべただけなのに言ってしまった。微妙だと思われるかもしれない。


気になる表情で彼女は、


「ちなみにどうして?」ときく。


「それは、あなたと夕方の日に逢ったから、って少し安直でしたね。すみません。忘れてください。」


自分のふがいなさに思わず俯いてしまう。


「ううん。ゆうひ、夕日。いいね、私気に入った。」


彼女の言葉はどうしてこんなにも僕の心を撫でまわしてしまうのだろう。


「そういってもらえて、うれしいです。」


そう言うと、彼女の顔は綻び、夕焼けに照らされた瞳で僕の方を見つめる。


「あらためてこれからよろしくね、晴君。」


「はい、夕日さん。」


茜色に彩られ、夕陽が沈みかけているこの光景が僕らの出逢いを祝福しているようにみえた。

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