7章
玄関を開けると、雨の音はますます大きくなった。いくつもの白い線になって見える雨。さすがに、今日は少し肌寒い。
父親のお下がりの紺色の傘を差すと、路面を叩く雨音が、傘を叩く音に変わって、それがますます煩かった。どれだけ水たまりを避けて歩いても、
跳ねた雨水が、ソックスにかかる。マキと雨宿りしたあの日と違って、ずっと冷たい雨と空気。ナツ先輩はこんな日でも走っていたんだろうか。
学校について、雨水と泥で汚れた登校靴を上履きに変える。いつしか雨の日の集合場所になった校舎奥の勝手口前には、もう何人も部員が集まっていた。通学カバンをハンカチで拭きながら近づくと、マキが駆け寄ってきた。マルも、ミャーもいた。
「おはよう、ユリ。…なんか眠そう?」
「うん。あんまし眠れなかった。そっちは?」
こっちも全然、と目頭をかきながらマキは言う。
「ナツ先輩、大丈夫かな」
「どうだろうね…山橋から、話があるとは思うけど」
制服を脱いで、下に着てあったジャージ姿になると、いっそう寒い。
「そういえば、ユリは知ってた? 部長、ナツ先輩が運ばれたあと、ずっと泣いてたって」
知っていたけれど、初めて知ったフリをして「マジで?」と答える。
「うん。さっき先輩たちに聞いたんだ。かなり責任感じてたみたい」
「責任感じてたって、部長が?」
昨日の光景を思い出す。薄闇に包まれた校庭に佇む部室。そこから明滅する切れかけの蛍光灯の白い明かりと、部長のすすり泣く声が漏れる。近づいてはいけないような、人の心の、一番弱い部分。親しくない者は見るのも聴くのも許されないような、そんな部分。
「ほら、部長ってナツ先輩に期待してたっていうか、みんなでナツについていこうみたいな雰囲気作ってたじゃん?それがプレッシャーになって、ナツ先輩を追い詰めてたんじゃないかって…」
「…そういうことね。気持ちはわかるかも」
確かに、部長は「ナツについていこう」って練習の度に言っていた。でも、先輩を縛り付けていたのは、それだけだろうか。プレッシャーをかけた、という意味なら、部員皆がそうだし、母親たちだって一丁前に視察に来てる高校生たちだって、みんなそうだと思う。私だって例外じゃないだろう。
「部長…陸上やめたりしないといいけど…」
深刻そうな顔を浮かべるマキに、まさか、と返すけれど、ナツ先輩だけでなく部長も、あのあとどうなったかは分からない。
「そういえば、部長、まだ来てないんだ?」
「うん。さすがに今日は休むかもね。ほんと、昨日はかなり…その、泣いてたみたいだから」
自室でひとり、うずくまって落ち込む部長を想像する。「自殺」なんてワードが頭をよぎる。いや、さすがに有り得ない。ナツ先輩だって死んだわけじゃないんだ。
「あ、山橋きちゃった」
職員室のある2階に続く階段から、スポーツドリンクのラベルみたいな青と白のTシャツを着た山橋が降りてきた。室内なのにホイッスルを首からかけている。
副部長を先頭に、部員が無言で整列する。
「みんなおはよう。…気になっていると思うから、
山橋曰く、ナツ先輩はあの後、救急車に乗って市立病院へ搬送された。検査を受けた結果は異状なし。倒れた際に頭を打っていたが、そこも幸い大事はなかった。ただ一時意識を失ったのは事実だから、そのまま病院で一泊して、今日の昼に家に戻る予定。登校自体は問題ないと医者にも言われたらしいが、両親の判断で今週いっぱいは学校、部活を休ませるとのことだ。
「みんなも驚いたと思う。一番悪いのはしっかり監督していなかった俺だ。すまん。ひとまず、大会までの二週間は練習中は離れないようにする」
3年生がしっかりしているだけに、山橋は指示だけを出して職員室に引っ込んでしまうことも度々あった。もしかしたら、そのことを教頭辺りに絞られたのかもしれない。
「あぁ、それと、部長も今日は休みだから、副部長、号令頼む。」
部長は休み。思わず、隣にいたマキと目を合わせる。やっぱり…とアイコンタクト。
「あの…先生。部長…アヤは、体調不良とかですか?」
3年生の先輩の一人が尋ねた。
「…あぁ。でも親御さんは心配しないでほしいって言ってたから、みんなは練習に集中するようにな。二度目になるが、一番悪いのは俺だからな」
本当に、そうだろうか。山橋が見ていたって、きっとナツ先輩を止めることはできなかったんじゃないだろうか。
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