5章
その日は、珍しく曇天だった。
放課後の練習は、休日よりいくらか控えめなメニューになるけど、大会がもう2週間前に迫っているからか、ここ数日はその境目がなくなっているように感じる。今日は太陽が出ていない分、暑さはいくらかマシだが、走れば関係ない。いつも1番苦しそうなのは長距離組で、見ていてかわいそうになるくらいだった。
でも、3年生にとっては中学最後の練習期間でもある。これくらい追い込んだ方が、悔いが残らないのかもしれない。私たちはもう1年あるけれど、高校で陸上をやらない先輩にとっては、本当に人生最後の、陸上競技に打ち込む時間なんだ。
遠くの砂場に目をやると、マキが先輩の話を頷きながら聞いているのが見える。高跳びチームは何度も助走の歩幅を確認していて、砲丸組は投げる瞬間のフォームの確認を熱心にやっている。
—―乗り切れる。
額の汗を手で拭って、顔を上げる。
事件はそのほんの1時間くらい後に、起こった。
*
練習の終わり。並んで整理体操をしている時。私のすぐ後ろの方から、女子の甲高い悲鳴が聞こえた。
ナツ先輩が倒れた。
あおむけになって動かない先輩にみんなが集まった。アヤ部長が抱え起こそうとして、でも誰かが慌てた声で「こういう時って動かさない方がいいんじゃない?」っていって、結局ナツ先輩は、グラウンドの乾いて硬い地面の上。みんなジャージが汚れるからと座るのも嫌がる地面の上に、寝転がったままだった。
副部長が、誰か先生を呼んできて、と大声で指示を出す。1年生が3人くらいで慌てて校舎へ走っていった。残った私たちは、突然倒れた人にどんな処置をすればいいかなんて誰も知らないから、結局ナツ先輩を取り囲んで、何かが起こるのを待つことしかできない。
既に職員室に引き上げていた山橋が走ってくるのが見えたころ、ようやくナツ先輩は目を覚ました。
まず部長が駆け寄って「ナツ、大丈夫? 本当に大丈夫?」と何度も声をかけた。ナツ先輩は意識ははっきりしていて、でも自分でも何が起こったのか分からないようで、「もしかして私、倒れた?」なんて聞き返す。倒れた時に頭を打ったのか、しきりに後頭部を撫でている。
ようやく山橋が駆けつけて「大丈夫か?」とか。私たちとあんまり変わらないことを先輩に聞いていて、すると遠くから救急車の音が聞こえてきた。誰か呼んだの?とまた騒がしくなる。スマホを持ち込んでいる誰かが呼んだのか、山橋の判断だったのかは結局わからない。だが誰よりも驚いていたのはナツ先輩だった。
救急車が到着して担架に乗せられたあとも、ナツ先輩は何度も「大丈夫です」と言った。3年生の誰かがナツ先輩の荷物をまとめて、それを受け取った山橋が救急車に乗り込む。扉が閉じられてようやく、少し静かになった。気が付けば救急車の周りには陸上部でもない野次馬が何人もいて、校門の外を歩く人までこっちをチラチラ見ている。いつの間にか来ていた副顧問の土井が、もう帰るようにと声を張り上げた。
自分の荷物を取りに部室に戻ると、部長が、砂埃まみれのベンチに座って、肩を抱えるようにうずくまって、すすり泣いていた。他の3年生が「アヤのせいじゃないよ」とか「ナツ、大丈夫そうだったじゃん」とか言いながら、慰めている。それでも部長は顔を上げない。汗なのか、涙なのかわからない水滴がたれて、部長の足の間に、小さい染みを作っている。
部室の時計を見ると、18時半。グラウンドはもう真っ暗だった。月も見えない夜だった。
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