4章

帰り道の途中で、案の定雨は降りだした。


雨けぶりはあっという間に町を包んで、草むらを跳ねる虫も、鳴り止まない蝉の声も、みんなその音で上書きしていく。夏の雨は暑さをはらうどころか含んでいて、雨粒は冷たいはずなのに、それが運ぶ空気は温い。肌を覆う感覚が気持ち悪い。でもあがった後は嫌になるくらい晴れて、セミはいっそう煩く鳴いて、だから秋の冷たい風が恋しくなる。


マル、ミャーと別れた私とマキは、帰り道にある寂れたアパートの入口で雨宿りをしていた。住人はみな出かけているのか、人の気配がない。本当は人がいるのに、いない場所は、夏でも少し涼しい気がする。

「やっぱり降ったね。マルとミャー、濡れてないかな」

マキは黒い雲に覆われた空を、その隙間を探すように遠く見ている。

「大丈夫…じゃない? マルの家はあそこからならすぐだし、ミャーは入れてもらって雨宿りとかしてるかも」

アパートの入口の門のところの蜘蛛の巣が、雨粒に打たれて揺れている。こっち住人も不在だ。蚊よりも小さい羽虫がたくさん引っ掛かっている。


「…ナツ先輩、アヤ部長と相合傘してたりしてね」

マキが雲を見たままそう言って、雨に濡れた髪をかき上げた。

「え…やっぱりそういう関係なのかな」

二人が一本の傘に入って、肩を寄せ合って歩く姿を想像する。違和感はない。いやそれどころかお似合いかもしれない。ナツ先輩は長身で、たぶん170近い。アヤ部長は私と同じくらいだから150cmってところ。並んで歩くには丁度いいバランス。

「…ごめん、冗談。ユリの前で言うことじゃなかったね。二人が付き合ってるってウワサ、私も信じてるわけじゃないけど、ただ何となく浮かんだから言っちゃった…ごめんね」

人気のない通路から吹くヒンヤリした風が、汗で湿った脇とか、その下の横腹を撫でた。身体が震えた。

アヤ部長とナツ先輩が付き合ってるっていう話は、陸上部内じゃ定番のネタだ。どこから始まったかは分からない。二人は小学生の頃から仲が良いらしいし、二人きりで一緒に帰ることも多いから、そういう妄想がいつしかウワサ話になって広がったんだろう。確かに、ナツ先輩は中性的な王子様みたいに見えなくもない。

「尊敬してる先輩のウワサ話なんて、イヤだよね。っていうかさ、相合傘くらいだったら友達同士でもやるじゃんね。私とユリも昔やったことなかったっけ」

こんな感じでさ、とマキは私の隣に並んで、肩をくっつけた。暑いけど、マキの肩は温かかった。ひょっとすると、自分たちもウワサされてたりして。


「そういえばさ、これもウワサだけど、ユリは知ってる? ナツ先輩、帰ってからも自主練してるらしいって」

…自主練? まさか、と思うけれど、ナツ先輩ならやっていても不思議じゃない。

「え…そうなの? 普通の練習だけでも結構ハードなのに」

地獄の200mダッシュすらも、仲間を励ましながらこなしてしまう先輩なら、それくらいやっているかもしれない。そこまで言ったら、私はそんなナツ先輩を、いよいよ怖いというか、不思議に思ってしまいそうだ。晴れているのに突然ふる夕立みたいに、よくわからない。


「でも、さ。マキ、思わない? そんなに走って、どうするのかなって」

雨はようやく勢いを落としてきた。このくらいなら、フードを被れば走れなくはない。踵で跳ねた雨水で服を濡らして、フードの下の額に前髪を貼りつかせて、それでも走る先輩を思い浮かべる。そこまでして、大丈夫なのかと思う。

「私、たまに思うんだ。最近練習キツいけど、こんなに走って、どうするんだろうってさ」

「足なんて速くても意味ない…ってこと?」

「そうは言わないけど…。たださ、走っても走っても、走るだけだから。走るために走るっていうかさ。先輩だって、そんなに走ったら、いつか潰れちゃうんじゃないかな」

私たちはただの中学生だから、走っても何も貰えない。何かあるとすれば、それはもっと走る権利だ。たくさん走ると、もっと速い人たちと一緒に走る権利がもらえる。そこでも頑張って走ると、まだまだ速い人たちと、また走る。走っても走っても、走る。そうして走り続けている内に、先輩はどうなってしまうんだろう。


マキが言葉を返す前に、そろそろ行こうか、といって道に出た。なんだか、照れ臭かった。


分厚い黒い雲は、雨に合わせて体積を減らすように薄くなって、所々が白んでいる。もう30分もすれば上がるだろう。セミたちはまた鳴きだし、草原にはバッタが顔を出し、でもって私は、たぶんイモムシみたいに、ベッドで眠る。



思い返せば、この時、もうナツ先輩は、苦しんでいたのかもしれない。




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