3章

アヤ部長こと松田彩先輩は、人柄を買われて部長になった。


私たちがまだ1年だったころ、もう卒業していった元3年生たちが、部長は松田しかいないと言っていった。人当たりがよくて、私たち後輩からも人気のある人だった。アヤ部長ははじめ遠慮していたけれど、最後は引き受けた。


アヤ部長とナツ先輩は、それこそ私とマキみたいに小学校の頃からの付き合いで、ついでに家も近いらしい。部活でなくても二人一緒にいるところを見かけることが何度もあった。街で手をつないでいるところを見た、なんて話も聞いたことはあるが、それはさすがにウソだと思う。でもそれくらい仲が良い二人に見えた。


折りたためそうなくらい細いシルエットで背の高いナツ先輩とちがって、アヤ部長は私よりも小さくて、身体のあちこちが丸い。部長は陸上競技の実力はそれほどでもなくて、1年の頃はナツ先輩と同じ短距離走だったらしいけど、今は砲丸投げに転向して、それでも成績は残せていない。だけど、東中陸上部の部長は、アヤ部長でよかったと思う。入学したばかりの1年生にだって、自分から声をかけにいくような先輩は、私は部長しか知らない。


しかし競技の上手さでは部を引っ張れない分、顧問に変わって後輩のフォームを見たり、練習メニューを組んだりするときは、いつもナツ先輩を頼りにしていた。3年生にとって最後の大会である夏の大会も、ナツを中心に頑張ろう…と口癖のように言うようになった。私たちはプロ集団ではないのだから、必ずしも成績を残す人が中心になる必要はないと思う。でも当のアヤ部長自身が、まるで自分だけでは部を引っ張れないと思っているかのようにも見えた。



「キッツい…」


隣にいたマルが、空を見上げて呻いた。


2年女子の短距離メンバーは、私とマル、ミャーの3人。1年生の頃はミャーが1番速かったけど、今は私が同じくらい。マルはほんの少し遅い。


練習も終盤、太陽はいよいよ1番高いところにのぼる。もともと消えかかっていた石灰の白線は、太陽の白色に塗りつぶされて見えない。野球部が慣らしたグラウンドの地面は、もう私たちのスパイクで穴だらけだった。リレーの練習で使うアルミ製のバトンなんて、日に当たるところで放っておくと、触れないくらい熱くなる。木陰に置いてあることを、横目で確認する。


決して広くはない、市立中学のグラウンド。トラックは長距離メンバーがぐるぐる走って、もう何周したかなんて多分、メンバー自身も覚えていない。トラックの内側では、高跳びと砲丸投げがスペースを半分ずつ。校舎から一番遠い奥にある鉄棒の前に砂場があって、そこはマキたち幅跳び組。私たち短距離チームは、体育用具入れ前の長い直線が縄張り。


けれど練習終わりが近くなると、長距離メンバーは休憩に入り、短距離がトラックに出る。地獄のアレが、始まる合図だ。


「それじゃあ今日のラスト、200mダッシュ…今日は7本いきます。スタートしてから体を起こすまでの姿勢と、腿の高さを意識して。このあとタイムもとるから、終わってもスパイクは脱がないで」


短距離の種目練習を仕切るのは、ナツ先輩だ。これは推薦でも投票でもない。自然とそうなった。足の速さでいったら先輩だって同じ3年の男子にはかなわない。でもナツ先輩だった。


いつも練習の締めにある200mダッシュを「地獄」とか「闇」とか言い出したのは、マル。私も異論はない。たった200mだが短距離種目としては最長の距離で、そもそも全力で走り切るだけでも苦しい。2本、3本と重ねるたびに息は上がって、それが戻らないままもう一度走る。それが、今日は7回。フォームは乱れて、スピードもでなくなって、呼吸に合わせて、首を絞められた小鳥みたいな声が漏れる。拭いても拭いても汗が出る。それが目に入って染みて、掻きすぎた首筋にも染みる。踵の辺りで跳ね返った砂が、頭の後ろまで飛んでくる。髪が埃っぽくなって、体操服の背中はいつも茶色く汚れている。マルもミャーも、1本走る度に無口になる。誰も倒れないのが不思議なくらいだ。


「体調、キツい人いない? 今のうちに口に含む程度に水飲んでおいて」


そんな地獄を前に、ナツ先輩だけが声を出す。彼女だけが、周りを見ている。その顔は汗にまみれている。身に着けているものが何もかも湿って、スパイクは砂で汚れて、肌は日焼けして黒い。それでも声を上げて、メンバーを鼓舞する。


「じゃあ3年男子から。白線に並んで。ラストだから気合い入れていこう」


男子の先輩たちが、まるで死刑台に上がるみたいな足取りで、砂地に足を引きずって書いたスタートラインに並んだ。いくら優勝を目指していたって、私たちは普通の中学生で、プロ志望でもない。だからキツい練習は嫌だし、やりたくない。ナツ先輩は違うんだろうか。


「じゃあいくよ。1本目、よーい、スタート」


一斉に走りだす。陽の光で白かったグラウンドは、あっという間にスパイクが巻き上げる砂埃に包まれた。頑張れ、ファイト。長距離組やフィールド種目のメンバーから応援の声が上がる。


カーブを曲がって戻ってくる頃には、口は酸素を求めて喘ぎ、脚はもうこれ以上はやく動かず、上がらない。それでも走れ、動けと引き上げる。

—―ゴール。1本目。まだ1本目。倒れるにはまだ早い。

「はいお疲れ。座っちゃダメだよ。軽く歩きながら休憩してて。次は私も走るから、2年生だれかスターターお願い」

はい、と2年の男子の一人がスタートラインの横についた。

ナツ先輩が立つ。他の女子の先輩と比べて頭一つ分は背が高い。他の先輩はまるで道を譲るように、ナツ先輩がラインについたのを見てから並び始める。誰もしゃべらない。喧嘩しているわけじゃない。走るしかない。覚悟というより、諦めみたいな感情が、口をふさいでしまう。

「いきます。よーい、スタート!」

ナツ先輩が飛び抜ける。向かい風を潜り抜けるような前傾姿勢。つんのめる体よりも先に足を出す。少しタイミングが遅れれば、倒れ込む力に負けて転んでしまう。そんな危うさすら乗りこなす。顔は下を向いているけれど、眼差しは正面を捉えている。真っ白に乾いた砂が舞い上る。でもきっと彼女にそれは見えていない。だって誰も、彼女の前を走れない。


戻ってくるナツ先輩の顔を、思わず見てしまう。口を小さく開けて、細かく息をつく。髪は乱れ、日の眩しさからか眉間に皺がより、それでも、それは崩れではない。走らされていない。走っている。


先輩たちが一本目を終え、次は2年男子。その次は私たちだ。ここまで来たらもう走るしかない。マルとミャーも立ち上がり、その場で跳ねたり腿上げしたりして、今日の地獄に備えている。少しでも楽なように。いうことを効かない足を引きずり上げるあの感覚が、少しでも和らぐように。



「お疲れ、ユリ。200のタイムどうだった?」


マキは凍らせた麦茶のペットボトルを首にあてている。酷暑の練習が少しでも、と保護者たちが買ってくれたキャスターつきのクーラーボックスには、部員たちが持ち込んだ凍った飲み物が何本も入っている。でも凍らせてしまうと飲むときは面倒なので、私はあまり好きじゃない。


「うん、そこそこかな。校庭で走ったにしては良い方だった」


2年女子メンバーは、練習のあとはいつも体育館の入口のひさしの下に集まる。あちこち剥げたトタン屋根が作る日陰。でも、ないよりはマシ。

「そこそこぉ? ウチのユリは伸び盛りだよ。2年女子じゃナンバーワンだよ」

3人しかいないけどね、と笑うマルは、柱に寄りかかってずっと立ったまま。座ると汗の湿気でお尻の形をしたあとができるから、それがイヤだと立ったまま。

「いいね。私なんかもう、幅跳びってどうすれば記録が伸びるのか分かんなくなってきた」

バスケ部とバレー部が半分ずつ使って練習している体育館から、ボールを打ちつける地鳴りみたいな低い音と、キュ、キュッて、シューズが床にこすれる高い音のハーモニー。女子しかいないバレー部員は、ずっとナイスー、とかファイト―とか、全然感情のこもってない言葉を繰り返してる。

「伸び盛りのユリ先生、何かいいアイディアはありますか?」

芝居がかっておおげさに話すマル。クイズ番組の司会者みたいに。

「え…うーん。踏切と跳躍後の姿勢…とか?」

「おお…ガチだ。でもマキ、私もそれくらいしかないと思う。」

マキは、だよね、とため息をつきながら顔を上に向ける。

自分で言ったことだけど、これくらいのことで何十センチも変わるとは思えない。陸上の記録は、続けるほど誤差みたいな変化しか出なくなる。もう一度、今度は別の人に測ってもらったら、向かい風がもう少し強かったら。それだけで崩れてしまいそうなくらい儚い自己ベスト。


遠くをセミがジジジ、と鳴いて飛んで行った。向こうには黒い雲が立ち込め始めている。やっぱり一雨ありそうだ。こんなに暑くて晴れているのに、突然滝みたいに降り出す夏の夕立は、理科の授業で仕組みを教わった今でも、不思議なことだと思う。


「そういえばさ、マルはスマホ、買ってもらえそう?」

三角座りで腿に頬杖をついてバレー部の練習を眺めていたミャーが、首だけこっちに向けて話した。

「あー…いや、買ってもらわないとヤバいから、マジで頼んでみる。…私、仲間外れになっちゃうパターン?」

マルはおどけて話すけれど、内心はどうだろう。私だったら、きっと焦る。こんな風に話せるのは凄いと思う。


ふと、雷の音が聞こえた。体育館からの音に交じって、ずっと低い音。

「げぇ、雨降るかなコレ。」

夏の夕立は、練習のあとを狙いすましているかのようだ。叩きつける雷雨は傘を差したって風に乗って吹き込んで、明日も履かなきゃいけないランニングシューズにだって容赦がない。

「降りだす前に帰ろっか。」

マキがカバンを抱えたのを合図に、みんな一斉に立ち上がる。一番家が遠いミャーは走っても15分はかかるから、雲が真上にかかってからでは遅い…というのは、私たちが中学2年目の夏にして、ようやく学習したことの1つ。


帰りの坂道の途中。ナツ先輩、そして一緒に帰るアヤ部長が、だらだら歩く私たちを追い越していった。

「2年生みんな、お疲れ様。また月曜日ね」

「はい、先輩もお疲れさまでした」


家に帰ってベッドに寝転がったら、そのまま眠ってしまいそうな、夏の練習終わり。

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