2章

市立第一東中学は、小高い丘の上にある。


こうしてまるで映画の舞台のような言い方もできるけれど、実際は登校する度に長い坂を上らなきゃいけないから、面倒くさいだけだった。まだ7月半ばだが、気温は既に30度を超える日ばかりで、今日も練習前なのにもう汗をかいている。走ればどうせ汗だくになるけど、湿った服のままで運動を始めるのは気持ちが悪い。


土曜日。空は晴れて、食べかけの団子をいくつもくっつけたような入道雲があちこちに見える。これがいっぱいに広がって、午後はきっと夕立になるだろう。けど今は陽光を遮るものはなく、真っ白な光を受けて木々は葉をより青く光らせる。その間を抜けてくる風は温く湿っていて、吹くたび夏の大気に体を舐られるようだった。セミはうるさいくらいに鳴いて、飛んで、地面にみっともなく転がる。どうしてセミは道端でああして死ぬんだろう。鳥も動物も、人に見えないところで息絶えるのに。


夏。この季節が過ぎるころには、大会も終わって、3年生はもういない。誰が次の部長になるんだろう。ナツ先輩が抜けたら、また弱くなるんだろうか。


汗がまた、首筋を通って襟のところで服に吸われる。体を伝うその感覚が、虫が這っているようで不快で、搔きむしりたくなるけど、そういうときいつも搔いてしまう右の首筋は、一週間くらい前から赤く荒れて、汗が染みて痛い。


東中陸上部の士気は、春の大会でのナツ先輩の活躍により、これ以上ないほどに高まった。3年生の引退試合になる夏の大会では総合優勝を目指そう、優勝トロフィーを後輩たちに、有終の美を先輩たちに。そんな雰囲気に部内が包まれた。元々練習熱心な部員はより熱心に。そうでない部員も当てられて真面目に練習するようになった。中でも一番の変化は、週に一度来るかどうかのサボり魔だったメンバーまで、毎日練習に参加するようになったことだ。これをアヤ部長は、今こそ好機と言わんばかりに盛り上げた。ナツを中心にして頑張ろうよ。何度そんな言葉を聞いたかわからない。練習の度に言っているかもしれない。


ようやく、坂の終わりが見えてきた。


やっと着いたグラウンド前のスペースには、既に陸上部員が集まっていた。挨拶を交わしながら、既に登校していたマキのそばまで行ってカバンを下ろす。肩の、ちょうどカバンのベルトがかかっていたところが、やっと触れた空気を冷たく感じた。

「おはよう、マキ」

「あ、ユリ。おはよ。今日も暑いね」

時間は午前9時45分。おはようと言うには遅い時間だが、生徒同士でこんにちはと声を掛け合うのはくすぐったいので、挨拶はいつもおはよう、おはようございますだった。

マキはもう水筒を片手に木陰で涼んでいる。練習が始まるのはこれからなのに、一仕事終えたようですらある。男子の何人かは、水道の水を頭から被って騒いでいる。


グラウンドでは、朝7時からの練習を終えた野球部が、木製のトンボをかけて地面をならしていた。練習終わりで疲れているはずで、おまけにユニフォーム姿だから暑いだろうに、こちらに聞こえるくらいの声を出し合っている。きっと下着まで汗と泥で汚れているだろうに、嫌にならないんだろうか。


「ユリ、そういえばさ、マルがスマホ買ってもらえそうなんだって」

マキはお気に入りのゲームのキャラがプリントされたタオルを、団扇みたいに振る。

「へぇ、そうなんだ。やっぱりiPhone?」

「ううん、ゴネたけど高いからダメって言われたって」

東中陸上部2年女子8人のうち、まだスマホを持っていないのはマルともう一人だけだった。でもどちらかが買ってもらえれば、部で持っていないのは自分だけだと理由をつけて親を説得できるから、お互い頑張ろう…なんてよく話していたっけ。

「じゃあそろそろ全員になるかな。連絡とか全部スマホでできるようになるね」

「だね。ただ、もし一人だけ買ってもらえなかったりしたら、ヤバいよね」

それは確かに、ヤバい。2年メンバーは男子も含めて仲良くやれているから、それが崩れるのは嫌というか、面倒だ。でもきっと大丈夫だと思う。私たちの親は、たぶん自分の子どもだけが何かを持っていないことには耐えられない。


「あ、山橋きた」


職員玄関の方をに目線をやると、白のポロシャツに紺色のジャージ姿が見えた。首からストップウォッチとホイッスル。いつもの練習スタイルの山橋顧問だ。



校庭5周の全体アップのあと、準備体操。二人一組でストレッチ。その後は種目別にわかれて練習。短距離チームは練習ラストに200mのタイムを取るからそのつもりで。水分補給のタイミングは各自に任せるけど、喉が渇いていなくても30分に1度は必ず、少しでもいいので何か飲むように。俺も見てるが、特に3年は周りを気にして、辛そうにしている人がいたら声をかけるようにな。苦しい時は自分の判断で休んでいい。サボっていいって意味じゃないぞ。こら島野、お前に言ってるんだ。


笑いが起こる。


大会まであと丁度1ヵ月だ。ここでケガとかしたらつまらないぞ。アップ、特にしっかりやるように。俺からは以上。じゃあ部長。


「はい。えー今先生が言ったように、大会まであと1ヵ月になりました。毎日暑くてキツいけど、声をかけ合ってやっていきましょう。5月の大会でのナツの活躍、みんな覚えていると思います。みんなナツについていくつもりで、それじゃ今日も練習、頑張りましょう」

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