私のための200m

@dis-no1

1章 春の大会にて

選手がスターティングブロックに構えると、ざわつきはその瞬間に収まり、競技場はしんと静まり返る。


スターターがピストルを高く構え数舜、パン、と雷管の破裂音が響いた。選手の一斉のスタートに合わせて、爆発するように声援が巻き起こる。


春の市内中学陸上競技大会、3年女子200m決勝。


ちょうど真ん中の4レーンを走るナツ先輩は、誰もが予測した通り、既に後ろの選手と体一つ分の差をつけてトップだ。速い。風のように速い。疾風。ゴールラインへと、まるで自分にしか吹かない風に乗っているかのように駆けていく。ボブヘアはその風になびいて獅子のたてがみのごとく広がるが、走るからだは豹のようにしなやかだ。全身の筋肉が無駄一つなく繋がる。躍動する。他の選手も懸命に追いかけるが、差は広がるばかりだ。


メインスタンド前、最後の直線に差し掛かると、声援はいよいよ最高潮にのぼる。どこの中学かも、知り合いかどうかも、大人か子供かも関係ない。みんながメチャクチャに声をだして応援する。その全てを風に巻き込んで、ナツ先輩は更に加速したように見えた。


ゴール。一着。文句のつけようがない優勝だ。


「凄いね! 先輩やっぱり楽勝じゃん!!」


隣で見ていたマキが、興奮した様子で私の肩を揺さぶりながら話す。無言でうなずいて返した。周りの騒めきに当てられて、声が出せなかった。


私が死に物狂いで走っても追いつけない速さを、風を受けて軽々とゆく先輩。私はずっと後ろにいる。学年は1つ違うけど、逆に言えば違いはそれだけだ。同じ学校の、同じ部活で、同じ練習を同じだけやって、なのに私はずっと後ろ。あと1年練習して、先輩と同じ歳になったとしても、あんなふうに走れるとは思えない。そんな自分がまるで想像できない。



スタンド下での簡単な表彰式を終えて、先輩が戻ってくる。首にかけたスポーツタオルで汗をぬぐう姿が、煌めいて見える。隣には迎えに行ったアヤ部長が一緒だった。腕に履き替えたスパイクを抱えて、笑顔で語り合っている。


そこへ3年生たちが駆け寄り、口々に祝福の声をかけた。ナツ先輩はその一つ一つに応えている。私は下級生だからそこまで馴れ馴れしくできないけど、でも先輩から目が離せなかった。


ジャージを羽織ってようやく人心地ついたナツ先輩は、1年生からスポーツドリンクの入った水筒を受け取り、少しずつ口に含むように飲む。もちろん1年生への笑顔での「ありがとう」も忘れていない。


私はずっと動かずにいるからか、まだ5月なのに、暑い。額から流れた汗が耳のわきを通って、首筋を流れる。それが不快で、思わずかきむしってしまう。


「あ、ユリまた首バリバリかいてる。ダメだよ、ほら荒れてるじゃん。クリーム塗ってあげるよ。手のやつだけど。」


マキがカバンから「贅沢保湿」と書かれた緑色のチューブを取り出す。マキは冬じゃなくても、こういうものを必ず持ち歩いている。


「ありがとう。自分で塗るよ。なんかクセになっちゃってるかも。」


手を出すと、マキが私の人差し指にクリームをほんの少し搾る。


「すごく伸びるから、このくらいで十分だと思う。ダメだよ、あんまりかいたら。」


乳白色のクリームからは、ほんの少し、ミカンみたいな香りがした。首筋に塗ると、汗と混じって余計に伸びる。なんだかもったいない気がしたので、そのまま手の甲にも塗った。風に乗って香りが鼻に届いた。見ると、マキも自分の脚にクリームを塗っている。こういうのは、スポンジケーキに生クリームを塗る感覚で…と、いつかマキに教わったことを思い出した。私はそういうものを、すぐに忘れてしまう。使わない知識は、それよりもずっと強い気持ちに押し流されていく。


「明石、ちょっといい?」


後ろから話しかけられて振り向く。ナツ先輩だった。同級生はみんな、下の名前で呼ぶけれど、先輩たちは名字で私を呼ぶ。明石って、なんだか硬そうで、私はあんまり好きじゃない。


「はい…なんですか? あ、200の決勝お疲れ様です。」

「うん、ありがとう」


ナツ先輩は、ユニフォームにジャージの上着だけ羽織っている。伸びる脚には毛の一本もないけれど、この間の練習で転んだ時の傷跡がまだうっすら残っている。あの時は大騒ぎだった。でも先輩は「見た目はすごいけど大して痛くない」なんて、マンガの主人公みたいなことを言って笑ってた。

先輩は、ちょうど空いていた私の左隣に座った。その瞬間、制汗スプレーの香りがした。マキのクリームと同じで、ミカンみたいな香り。でももう少し穏やかな、つんとしない香り。

「それよりさ、明石、準決、頑張ってたね」

「あぁ…ありがとうございます。見てたんですか?」

「うん、スタンドの端からだけどね。」

準決、とは準決勝のこと。私は昼過ぎにあった2年女子100m走の準決勝にでて、歯牙にもかからず敗退していた。先輩はそのときもうアップに入っていたはず。だけど、見ていてくれたらしい。

この大会の準決勝は、予選の各組で上位2名は無条件で進出できるため、出場できた選手はかなり多い。なにせ予選の組は20組以上あった。出ただけで凄いとはお世辞にも言えないけれど。でも、褒めてくれてるなら、素直に受け取らなくちゃいけない。

「明石、最近伸びてるよね。タイムはどうだった?」

「一応、自己ベストでした。でも大したことないですよ。やっぱり先輩みたいには走れません」

1年生の頃は予選敗退してばかりだったから、確かに順調に伸びている。大会や記録会の度にタイムも更新できている。ただそれは元々が平均かそれより少し下だったものが、ようやく陸上部員として最低限のラインに達してきているだけだ。決勝進出なんて程遠いし、ましてや先輩のように優勝だなんて想像もできない。

「私と比べなくたっていいんじゃない。どんどん自己ベ更新してて、正直私は明石が羨ましいくらいだけど。」

水筒からスポーツドリンクを飲む先輩の喉に、汗が一粒。

「そうだよ、ユリ。」

右隣にいたマキが、会話に入ってくれた。

「フォームとかも綺麗になってるし、まだまだ伸びるかもしれないじゃん。あ、先輩優勝おめでとうございます!」


先輩は「ついでみたいに言ったね、今」と冗談めかして笑う。


「先輩、私も幅跳び、結構頑張りましたよ。見ててくれました?」

「いや、さすがに幅跳びはね。いつだれが飛ぶかわからないし…」

ええー、と大げさに落胆して見せるマキ。マキが隣にいてくれてよかった。私と先輩とで話していたら、暗くなる一方だったかもしれない。私は私を傷つけるような発言をやめられなくなることがある。それでも先輩は私を褒めてくれるし、マキはいつも私を気にかけてくれている。そうしなくちゃいけない空気を、私は作っているんだろう。


「さて、私そろそろアップ行くよ。明石、悪いけど水筒、私のカバンのとこに置いといてくれない?」

先輩から受け取ったベージュの水筒は、底の部分の塗装がところどころ剥げて鈍色がのぞく。へこみや傷もたくさんあって、先輩でもこんな水筒を使うんだと思った。

「え、もうですか?」

「うん、でも次で最後だよ。リレー。」

この大会は一人二種目までの参加が認められていて、しかもリレーは別枠なので最大で三種目。決勝は大会後半にまとめて行われるから、複数の種目で決勝に進むと、休む暇がなくなることもある。先輩は200mに集中するために、本来は十分優勝を狙えた100mを他の部員に譲っていた。そのぶん、200mではたった今優勝して、リレーは余裕で決勝進出だった。

「先輩、昼ご飯とか食べたんですか?」

マキが尋ねる。確かに、朝の全体アップ以降は予選から準決、準決から決勝と走りっぱなしで、スタンドでゆっくりしている姿をほとんど見ていない。

「いや。卵焼きとかちょっとつまんだけど。あとはウイダー飲んだくらいかな。明石と二人で食べてもいいよ?」

「いやいや。先輩、それ、ヤバいです。戦争になります。」

最後に冗談を言って、じゃあね、と微笑みながら先輩は去っていく。颯爽と。これじゃ本当にマンガの主人公だ。


「……ユリ、食べる?」

「……さすがにヤバくない?」


3年女子、4×100mリレー決勝。我らが東中学選抜メンバーは、惜しくも優勝を逃したが、それでも堂々の銀メダルだった。先輩は部員でただ一人、メダルを2枚貰った選手になった。





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