第2話 帰らずの森

知人が二週間前に○○山に行ったっきり帰ってこないんです、と深川昭仁は述べた。

行方不明になっているのは知念敬人という人物で、大学時代からの友人だという。探偵事務所より警察に行った方が良いのでは、と上司にあたる梵野恵が言ったが、深川は頭を横に振った。

警察は知念に自殺の可能性があるとして、早々に捜索を打ち切った、と。

自分のこめかみがぴくりと動く感じがした。

自殺と見ての打ち切り?


「遺書でも?」


思わず声をもらすと、深川は再び頭を横に振った。


「遺書はないんですけど、動機はあったんです。あいつ長患いしてた嫁さん亡くして、…それにあの森は…」

「森?」

「帰らずの森と呼ばれてるんです。いわゆる、自殺スポットというやつで…」


なるほど、と呟いたのは梵野である。

妻を亡くした喪失感、しかも向かった先の森が自殺スポットともなれば、捜索は打ち切られるだろう。そもそももう二週間たっている。

生存は絶望的ではないか、と梵野が言葉を柔らかくして言うと、それは深川も承知しているらしい。

せめて、遺体に会いたいのだと。

涙する深川に、大した人情化である梵野は己の目も潤わせながら、うんうんと合いの手をいれた。


…遺体捜索なんて、素人がやっても良いものだろうか。そもそも自分の梵野も山になど登った事がないのだ。

泣きながら手を取り合う二人を尻目に、大学を休まなければいけないなと、少し頭が痛くなった。



「だからボンノー、聞いてんのか」

「聞いてるって、ボンノーはやめて」


俺は親しみを込めてボンノーと言っているのだが、本人は嫌らしい。自分も俺のことをノブくんと言うくせに、と返したら「ボンノーって、煩悩が多い人みたいじゃない」と言っていたが、それに何の間違いがあるのか。このオバさんはいつだって欲望に忠実ではないか。

愚痴愚痴言うボンノーは無視して、ノートパソコンを開いた。


平日の新幹線は空いている。目的地までもう少しかかるのをチェックしてから、資料をボンノーに見せる。


「あのオッサンに乗せられやがって。あの帰らずの森とやら、厄介だぞ」

「厄介?」


どれどれとバックから取り出した老眼鏡(だと俺は思っている)をかけてから、俺の座席机のパソコンを見た。


あの帰らずの森とやらは、自殺スポットであることは先に出たことだが、遺体が見つからないことで有名なのである。警察が捜索を早々に打ち切ったのも、そのせいであろう。

多分、そのことを深川は知っていたのだ。

それでどうしようもなくなり、我が寂れた梵野探偵事務所の戸を叩いのだろう。

腹いせにグリーン車に乗って良かったと、ふかふかの椅子に寄りかかりながら思った。

経費はあのオッサン持ちである。


「でもさ、私も調べたけどさ、ここ遭難するような山じゃないよ。登山ってよりハイキングコースみたいだし」


そう。この山は決して難易度の高い山ではない。しかし遭難者が減らない。

そしていつからか、畏怖を込めてこの山を「帰らずの森」と読んでいた。

おそらく、地元の人間たちがそう呼び、それが広まったのだろう。その地域ではきっと子供を叱りつける時にこう言うに違いない。

「悪さをする子は、帰らずの森に連れて行くよ」



二時間ほど新幹線に揺られ、そこからバスで30分ほどの所に、旅館のような、ホテルのような建物があった。

元々古い旅館だったのを、改築ついでにホテル風に仕上げたのだろう。

館主らしき人がチェクインの際、俺たちの荷物を見て、「登山ですか?」とにこやかに聞く。

ボンノーは愛想笑いを浮かべて、ええそうなんです、っと返せば、館主は俺たちの見比べて、少しホッとしたように部屋のキーを二つ差し出した。

もしかしたら、自殺者に思われたのかもしれない。しかしボンノーの能天気な笑いにそうではないと気付いたようで、安心したのだろう。

それにしても館主は俺たち二人の関係性をどう見たのか。親子と思われていたら良いが、不倫だの歳の差夫婦だの若いツバメだの思われていたら非常に遺憾である。非常に遺憾である。大事な事なので二度言った。


一度各部屋に荷物を置きにいき、ボンノーの部屋で明日の行動ついて打ち合わせをする。

難易度低い山とはいえ山なので、入山届や登山計画書など、やる事は意外と多いのだ。

早朝に出発することを加味してその晩は早々に床についた。


俺はその日夢を見た。小さい頃の夢だ。傍らに誰かいる。

ノブくんと呼ばれた。

ボンノー以外に俺をそう呼ぶ人物は一人だけいた。



「ノブくん!」


俺ははっとして後ろを振り返った。トラッキングポールを両手にボンノーが息を切らしている。

気付かないうちにボンノーを置いてさくさく歩いていたらしい。

十代の男の俺と、三十代の女のボンノーでは、歩幅も、体力的にも大幅に違う。最初は合わせていたのだが、考え事をしているうちに置いていってしまったようだ。

その場で一旦止まって、ボンノーが追いついて来るのを待つ。ぜいぜい言っているボンノーの肩を叩いて、もうすぐ休憩所だから頑張れ、と言ったら泣きそうな顔になっていた。

本当に感情が顔によく出るオバさんである。



「知念さんが行方不明になったのはこのへんらしいよ」


休憩所でうどんを啜りながら、ボンノーが地図と携帯のストリートビューを差し出す。最近は山道さえストーリービューか見られるのだから、時代である。

その二つと、今まできた道を鑑みながらやはりおかしいと思った。

目の前のオバさんこそゼイゼイ言ってるが、何度も述べた通りここは難易度の高い山ではない。それは休憩所を見ても明らかであり、子供から老人まで多様の人がいる。

二時間でコースの半分まできた、言ったら分かりやすいだろうか。

あと一時間もあればで登頂でき、下山も一時間ほどで出来る。合計四時間の登山である。


知念が行方不明となったのは、登頂寸前のところだ。目撃者によると、急に霧が出てきて、鳥が鳴いたかと思うと、目の前にいたはずの知念が消えていたと。

そして、コースを外れた形跡があったらしい。


「よし、気を引き締めていこう」


ボンノー言う。それボンノーが言う?と思わず口に出しそうになったが、俺はそうだな、とコップの水をチビチビ飲みながら呟いた。



人と人との感覚があいてきた。休憩所前まではコース上で渋滞している所もあったが、さすがに頂き付近の急斜面は俺でもキツかった。

ボンノーとはぐれる訳にもいかず、少し登っては足をとめ、少し登っては足をとめるボンノーに合わせて俺もゆっくり頂きを目指していた。


その時である。どこからともなく、まるで舞台上に撒き散らされたドライアイスのように霧がブワッと俺たちを覆う。ほんの少し後ろにいるボンノーが見えない。

空から鳥の声が聞こえる。


「ノブくん」


自分の耳を疑った。その声の正体を確かめてたくて、俺は思わず登山コースを外れて獣道に出た。

ノブくん。俺をそう呼ぶのは二人しかいない。

一人はボンノー。もう一人は。


「ノブくん」


死んだ兄貴だ。




兄貴は体が弱かった。物心ついた時からずっとベットの中にいた記憶しかない。言わずもがな、両親はいつも兄貴のことばかり気にしていた。俺はそれが気に食わなかった。本当に気に食わなかった。

ある日授業参観があって、俺はわくわくしながら、母親はいつくるだろうと授業中ながらチラチラ後ろを振り返っていた。

母は来なかった。兄貴が熱を出したからだ。

今考えれば熱のある子を放っておけるはずがないと納得できるのだが、俺は子供だった。

だから初めて兄貴を責めた。

何でいっつも兄貴ばっかり!兄貴なんていなけりゃ良かったのに!

俺は考えうる罵声を全て熱で伏せっている兄貴にぶつけた。兄貴は謝っていた。ずっと謝っていた。ノブくんごめんね、と。


兄貴は数日後に死んだ。何かの病気だったのか、風邪をこじらせたのか知らないが、兄貴は死んだ。

俺の言葉が兄貴を殺した。


「ノブくん」


霧の中から兄貴の声がする。深すぎる霧に、手探りで前へ進むしかなかった。

兄貴、兄貴、と呼ぶ。ノブくん、ノブくん、と言葉が返ってくる。


「兄貴いるのか?兄貴、ごめん兄貴」


あんなの一つも本当じゃなかった。悔し紛れに言っただけだった。本当にいなくなるなんて思わなかった。

兄貴はずっと俺に優しかった。俺が風邪をひいて寝込んだ時は、自分も体辛いだろうに、「ノブくん、大丈夫だよ。きっとすぐによくなるよ、ノブくん」と頭を撫でてくれた。

優しい兄貴が死んで俺みたいなのが生きてる。

兄貴ごめん。ずっと謝りたかった。


一心不乱に兄貴を探していると、兄貴の声がだんだん大きくなってきた。近くにいるのかもしれない。謝れるのかもしれない。

最後に見た兄貴は焼却場で焼かれて骨になった姿だった。あんなの断じて兄貴ではない。あんな小さな骨壷に入っているのが兄貴な訳がない。

兄貴はー兄貴はーー兄貴はーーー





「ノブくん!」


ボンノーにリュックを思い切り掴まれた。

俺は思わずバランスを崩して後ろに倒れる。ボンノーも倒れていた。

目の前は、絶壁だった。鳥がたくさんいる。

絶壁の下を覗き込むと、更に鳥がたくさんいた。

絶壁の下には、衣服の切れ端と、リュックらしきものがたくさん転がっている。

あと一歩踏み出せば、自分もあの残骸の仲間入りをしていただろう。身震いする体を抑えていると、ボンノーが「いてて」と腰をさすりながら呟く。

慌てて追いかけてきたのか、トラッキングポールは手放している。


「悪い、立てるか?歩けるか?」

「立てるし歩けるよ。そんな強く転んでないし、怪我もないよ」


ニコニコと力こぶを作ってみせるボンノーにホッとした。多少の打撲はあれど、骨折など重大な怪我はしていないらしい。


「ていうか、ノブくんの方が怪我してるよ」


言われて見ると、顔に切り傷が出来ていた。獣道にも関わらず無心に突っ込んだせいで木に引っ掛けたらしい。

それにしても、と辺りを見渡す。

いつのまにか霧は晴れ、生い茂った木々だけが延々と続いている。

俺が闇雲に歩き回ったせいで思いっきり登山道から外れてしまった。

携帯も圏外だしどうしたものかとプチパニックに陥っていると、ボンノーがにやりと笑う。


「ヘンゼルとグレーテルだよ」




ボンノーは俺を追いかけながらハンカチや、トラッキングポールなどを道に撒き散らしていたらしい。やけにハンカチが多いなと思ったが、こういう事を加味してだろうか。

そのおかげで二十分もすれば登山道に戻れ、そのまま登頂し下山した。


傷だらけになった顔に絆創膏を貼ってホテルに戻ると、館主が何ともいえない表情を浮かべて、「呼ばれましたか」と呟いた。

俺たちはそれには答えず、各々部屋に戻り、シャワーを浴びてすぐに寝た。


夢を見た。

「ノブくん。大丈夫だよ」と、頭を撫でてくれる。それが兄貴だったのかボンノーだったのか、起きた俺はすっかり忘れてしまった。



後日、深川に事のあらましを説明した。

もちろんオカルティックな話はのぞいて、である。

絶壁の下に遺体らしきものがあったこと。鳥に喰われていたこと、そもそもあれが知念だったのか分からないこと、あの深い渓谷では遺体の回収は難しそうであること。

それらを全て伝えると、深川はふーっと深い息を吐いた。そして、「それはきっと知念です」と涙声で呟いた。続けて、遺体の回収は諦めます、治療費に当てて下さいと多めの報酬を渡された。

ボンノーは「お悔やみ申し上げます」と深々と頭を下げ、俺もそれに続いた。



「あそこは大昔、鳥葬の文化があったらしいよ」


シーフードヌードルを啜りながらボンノーが呟く。曰く、死んだ人間はあの渓谷に放り、鳥の喰わせたらしい。昔の人間はそれを「森に還す」と言ったそうだ。

自分の醤油ヌードルの中に入っている謎肉をつつきながら、微妙な気持ちになった。


「もちろん今はやってないけどね、100年くらい前まではやってたらしいよ」


長生きが当たり前となった今では、100年というと年月はそう長く感じさせない。

あの山ではあの鳥たちがずっと人間を食べてきたのだ。


俺が聞いたものが何だったのか分からない。ボンノーによると霧に覆われ、鳥の声がすると同時に俺が登山道を外れる姿を目撃して、ヘンゼルとグレーテルをしながら慌てて追いかけてきたらしい。もちろん子供の声などは聞こえなかったと。

ただ、鳥の鳴き声だけははっきりと聞こえたと。

真実は何も分からない。でも俺は何かに呼ばれ、死にそうになり、死体を喰らう鳥たちがいた。それが事実だ。


でも、あの声の主、あれはきっと兄貴じゃない。俺の兄貴はあんなことしない。森の何かが、兄貴を装って俺を殺そうと、喰らおうとしたのだ。


そこまで考えて、おかしな事に気付いた。

俺は霧に覆われた時すぐ後ろにいたボンノーが見えなかった。でもボンノーは俺が登山道を外れる姿を目撃したのだという。

そもそも、あの獣道を進んだ時だって、ずっと深い霧だったのだ。何で俺を追えた?

音だけで追えた?ありえない。

それをボンノーに追求すると、う〜んと唸りながらカップ麺を机の上に置く。

信じなくでも良いよ、と前置きして、続けた。


「霧が出た時から小さい男の子がさ、サッカーボールのパジャマ着てる子がいてさ。私の袖を引っ張るんだよね。ノブくんを助けてって」


俺は思わず持っていたカップ麺を落としそうになった。

ボンノーの言うサッカーボールのパジャマは、兄貴が生前よく着ていたものだ。小さなサッカーボールをいくつもあしらったそれは、どこにでもあるパジャマだったが、兄貴はそのパジャマを気に入っていた。

一度もしたことがないけどサッカーが好きなんだと笑っていた。


「そんで、その子に袖をひかれるまま着いて行ったら、ノブくん渓谷から落ちそうになってて、気付いたらその子は消えてたんだけど…」


自分でもおかしな事を言っている自覚があるのか、ボンノーは声を落としていく。

兄貴だ。

兄貴がいたんだ。あの声ではなく、ボンノーの近くに、俺を救うように、あるいはずっと俺の近くに、いてくれたのかもしれない。

俺は涙が出そうになって、「そう」と呟いて、残っていたラーメンを一気に啜ってキッチンへと席を立った。俺の並々ならぬ気配に、自分が変な事を言ったせいかとボンノーがオロオロしていた。

俺はカップ麺の空き皿と割り箸を持ちながら、立ち上がりまじりに、言った。


「それは、俺の兄貴だ」


俺はもうキッチンへ足を向けていたから背中越しのボンノーがどんな顔をしていたのか分からない。ただ静かに、穏やかに、「そっか」と呟いたのだけが聞こえた。

キッチンに着くと、俺は座り込んで、ボンノーに聞こえないように声を殺して泣いた。きっとボンノーももう食べ終わってる頃だろうに、何かを察してかキッチンへ入ってこない。時計の針の音がやけに大きく聞こえる。


ノブくんと聞こえた気がした。頭を撫でてもらえた気がした。全部気のせいだったのかもしれないけど。


俺はもう随分前から気付いてた。兄貴は俺は恨んだりしてないって。俺が一人で自分を責めているだけたって。そんな俺が心配で、兄貴はずっと俺の傍にいたのかもしれない。あのサッカーボールのパジャマを着て。


俺は次の休みを携帯で確認して、兄貴の墓参りにいこうと計画した。

だって、あの骨壷にいる兄貴が、兄貴なのだから。

兄貴はもう死んだのだから。

生きてる俺は、これからもずっと兄貴の分まで生き続けなければならない。


涙を拭って、ボンノーのいる事務所に戻った。ボンノーは微笑んでいた。兄貴と少し似た笑みだった。





帰らずの森は、寂しい人を呼ぶ。大切な人を亡くした人を呼ぶ。

知念敬人は、きっと妻の声で呼ばれたのだろう

死ぬつもりで行ったのか、たまたま登っていた山が帰らずの森のだったのかは分からない。

ただ知念は呼ばれた。あの沢山の鳥たちに。

偽りの妻の声に。


帰らずの森は、今日も誰かを呼んでいる。





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