梵野事務所の日日
@ICHInoHONDANA
第1話 神様になった女
押川唯子は、どこにでもいる中年の女性に見えた。
特に美人でもなく、はつらつとした笑顔もなく、遠目から見た私は内心首を傾げたものだった。
「行方不明の母を探して欲しい」我が梵野探偵事務所にきた依頼は、そういうものだった。
息子と名乗る人物は彼女らしい人をつれていて、ははぁと顎に手をやる。大方彼女を母に紹介したいというものだろう。数年前ならば某テレビ局がそれはそれは盛大に話を盛って彼の母の探し出し、こう言っただろう。「感動の、親子の対面です!」
しかし、聞くところによると、何と母親は別の男と家を出たらしい。母を心から愛していた父と自分は、随分長い事苦しんだものです、と彼は悲しそうに笑う。その度に彼女が肩を支えて、大丈夫?と聞こえるか聞こえないかくらいの声量で呟く。
「えー…っとですね、依頼自体引き受けるのは構わないんですが、その、貴女はそれでよろしいのですか?」
後から彼女の猛攻に押され、依頼を取り消さりしたら厄介だ。なので今しっかりとした言葉が欲しい。
彼に向けていた視線を彼女に移すと、彼女は伏目がちに、だけどしっかりとした声で「探してあげてください。そうじゃないと彼、前に進めません」
進めない、というのは結婚の話だろうか。
いや、違うな、と思った。そもそも男を作って出ていくような母親の了承が必要だとは思えない。と、すれば彼だ。彼女の言葉を使うと、進めないのは彼だ。彼は母に会い、ここからは邪推にしかならないが、どうして自分を捨てたのか、そして、聞きたいのだろう。
「もう、僕を愛してないの?」と。
一通り調査を済ませると、押川唯子は山村の旅館で仲居をしていた。何と言うかーー行き着くところは皆同じようなところなんだなと思う。
あの息子の父と一方的に離婚した彼女は、その後3度結婚、離婚を繰り返し、バツが4個ほどついていた。今は旧姓の「押川」に戻しているらしい。
故に、よほど魅力的な女性だと思っていたのだ。
彼女はパタパタと忙しそうに料理を運んだり、雑務をこなしていた。その中で、異様とも思えたのが、「唯ちゃん、こんなの良いから、休んでなさい」「そうです、唯さんはこんな事しなくて良いんですよ」と、同僚たちがにこにこと唯子の仕事を奪うのだ。唯子は引き攣った笑顔で、「では、よろしくお願い致します」とぺこりと頭を下げる。
最初は嫌がらせか?とも思えたが、同僚たちの唯子を見る目は、うっとりするような、そこに至高なものでもあるような目つきなのだ。仕事を変わったのも、唯子に本当に「こんな事」をさせたくなかったのだろう。
唯子は困ったように笑いながら、それでも慣れているのか、手早く厨房の奥に戻っていった。
その厨房からは、板前と思われる男の声で「唯ちゃん、疲れてないかい」と優しげな声が複数聞こえた。
私は何だかゾッとして、宿泊名簿に「桐原萌」という名前と、出鱈目の住所を書いて、通された部屋で人心地ついた。
「女王蜂…」
思わず出た言葉に、我ながらしっくりきてしまった。あの光景はまるで、一匹の女王鉢に群がる働き蜂のようだった。
ただ、一つ違うのは、彼女が、押川唯子が、その立場に困惑しているような事だった。
あの引き攣った顔を思い出す。
もうこんなことやめてくれ、勘弁してくれ、とでも言い出しそうなあの表情。
冒頭でも書いたが、押川唯子は美人でもない中年のおばさんである。結婚を考えている息子がいるという事実を鑑みれば、どれくらいの年齢か大体想像がつくだろう。
それでも、押川唯子は好かれていた。
男、女、関係なく。
また寒気が登ってきて、私は気を紛らわすように荷物を整理した。風呂にでも入れば、この寒気もおさまるだろう。そう考えて、替えの下着を引っ張り出した時、コンコン、と襖を叩く音をする。私は反射的に下着をまたボストンバッグに戻して、「はい」と呟いた。
私は驚きで、ひっくり返りそうになった。
長年、探偵としたやってきて、その中で、こんな経験、いくらでもあったのに。
「桐原様、夜ご飯は何時に致しましょう」
押川唯子がいた。対象者と接触してしまった。
しかし前述したように、そんな事は過去何度もある。しかし私は開いた口から言葉が出ない。
それはキリスト教徒がイエス•キリストに出会った時のように戦慄に、仏教徒がブッダに合間見えた時のように激烈に、私の中に稲妻が走ったのである。
押川唯子がその手で閉めた襖は、つまりこの空間で私と押川唯子が二人きりだということを示唆している。
私はどうしたら良い?彼女にどう好意を伝えれば良い?彼女は何と言えば私を好きになってくれる?
そんな事ばかりを考えていたら、押川唯子が口を開いた。その所作さえ、神々しい。
「あんた、探偵さん?誰に雇われたの」
「あなたの息子さんです。貴方に会いたいそうです」
反射的に答えていた。答えなければならないと思った。彼女に背くなどあってはならないのだ。
「そっかぁ…最初の旦那の子かな」
「あ、あの、どうして私が探偵だと…」
しどろもどろになる私に、押川は苦笑いしながら「煙草吸って良い?」と聞いてきた。
私に拒否する機能などなかった。全ては彼女の思うまま。
自分でも驚くほど俊敏に動いて、彼女のもとに灰皿を持っていく。彼女はありがとう、と勿体ない言葉を仰って、煙草に火をつけた。
彼女の吐いた息が煙になって宙を舞う。それを見て私は、この上なく光悦した。
「あんたで10…13人目なんだよ。探しにくるの。さすがに分かるようになるよねぇ」
指折り数える彼女が愛しい。その中に私も入っているのだ。なんたる光栄。なんたる喜び。
困ったように笑う彼女は美しい。
そう、彼女はただただ美しい。
「最初はさ、親に溺愛されてた。でも親だし、そんなもんかなぁって思ってた。幸せだったしね。変だなって思ったのは小学校入ってから。あ、幼稚園とかは、過保護の親が入れてくれなかったの。今にして思えば最良の決断だったけど。で、小学校の話に戻るんだけど、友達が私を取り合って殴り合いの喧嘩をしたのよ」
ふぅーともう一度紫炎の煙を揺らす彼女のそれを、私は肺いっぱいに取り入れた。彼女は「やめときな」というけれど、いくら崇高なる彼女の願いでもそれだけはやめられなかった。彼女の吐いた煙が私の中に入り、私と一つになる。
何て幸せな事だろう。
「私ね、人に好かれるのよ。それはもう異常なくらい。一回ね、私それがたまらなく鬱陶しくなって、同級生だった女の子に『消えてよ!』って言ったのよ。そしたらその子、何の迷いもなく窓から飛び降りちゃった」
ああ、その子の気持ちがよく分かる。私も彼女に消えろと言われれば、喜んで死ぬだろう。
彼女は女王なのだ。唯一たる神なのだ。
「結婚はすぐ出来たよ。この体質だからね。でも駄目。私と身体的に繋がった男とか、それこそ私と血が繋がった子とかーー私に対する執着心が半端じゃないのよ、だから家を出た。怖かった。自分の夫と子供なのにね…。私は学がなかったから結局男を頼ったけど」
そうだ、あの息子と名乗る男はこの方と血が繋がっているのだ。何と羨ましいことか。私はぎりぎりと歯軋りした。
一客でしかなかった男が、今では世界一憎らしい男に変わった。私もこの方から生まれたかった。この方を母に持ちたかった。どんなに人に自慢出来た事だろう。私の母はこんなにも美しいのだーー。
しかし、憎しみは直後憐れみに変わった。
あの男は神様を失ったのだ。どれだけの喪失感に襲われただろう。よく今まで生きてこれたものだ。嫌味ではなく、そのままの意味で。
私ならこの方を失ったら死んでしまう、その場で舌を噛み切った方がマシである。
私ならーー
「あんたは大丈夫よ。遠目で私を見た時は何ともなかったでしょう?そういう人は、大丈夫」
神の声が聞こえた。神の方に向き直ると、神はぐしゃぐしゃとタバコを灰皿に押し付けていた。
ああ、私の差し出した灰皿を使って下さっている。
「さっき言ったように、私と肉体的に繋がってない人と、私と血が繋がってない人は、私から離れたらその気持ちも薄れてく」
そんな!そんな!そんな!私のこの気持ちが!消えてなくなる?貴方を思うこの心が!
私は絶壁の上に立たされたような気分になった。完全に心を打ち砕かれてしまった。
貴方あっての私なのに。貴方がなければ私でないのに。
涙を堪えていると、神様は、また困ったように笑って続けた。
「今夜は泊まって、あんたはもう帰りな。私ももう今夜中にここを離れる。…居心地悪くなかったんだけど、仕方ないね。息子には『私は見つからなかった』って言っといてくれ。……それでもまあ、探し続けるんだろうけど…」
「そんな!私誰にも言いません!貴女が出ていく必要は…」
「良いんだよ。そろそろ潮時だったしね」
神様は。威光を放っている神様は。泣き崩れている私に笑いかけて下さって、御身を持ち上げた。立ち上がった彼女は、更に素晴らしい。
白い手を襖にかけ、そのお顔こそ拝見ならなかったが、彼女は確かに、寂しそうに笑っていた。
「人に嫌われる続ける人生は地獄かもしれない。ーーでも人に好かれ続ける人生も地獄だよ」
私、梵野恵は頭を抱えていた。叶うならこのまま机に頭を打ち据えて記憶を消してしまいたい!
押川の言った通り、彼女と離れると、私はだんだんと自分のした事に死にたくなっていった。
ほぼ初対面の人の前で号泣し、あまつさえ縋り付こうとしたのだ。あの時はそうするしかないと思っていたが、現在では何がどうしてあんなにも押川を崇拝していたのか分からない。
あの時は神様だと思っていたのに、資料の写真で見る彼女はどこにでもいる普通の中年女性にしか見えない。
うんうん唸っていると、ガチャリと通用口の扉が開いた。そこには、アルバイトのノブくんーー本当は信也と書いてしんやと呼ぶらしいが、私は親しみをこめてノブくんと読んでいるーーがお昼ご飯のカップラーメンを片手に持って立っている。
「まだ唸ってんの?」
「ううう…」
手をわやわやと動かしたところで意味がないことは分かっているが、体の一部を動かさずにはいられないのだ。体と心がむず痒い。
カップラーメンのシーフードと醤油どちらが良いと聞かれて、シーフードと答えると、ノブくんは「ん」とだけ答えて、お湯を沸かしにいった。
お湯を沸かす間手持ち無沙汰なのか、それとも私に気を使ったのか、腕組みしながら呟く。
「世にいう神様って、そういう人たちなのかもな」
シュンシュンとお湯の沸いてくる音がする。ノブくんはシンクに預けていた体をずらして、やかんの火をとめた。彼はベタに「あちっ」なんてするキャラではないので、普通に布巾でやかんの取手を持って、お湯を注ぎ入れた。
途端にシーフードと醤油の良い匂いがする。
私は押川の紫炎の匂いを思い出した。
とても良い匂いだとは思えないあの匂い。
それでも私は、あの匂い以上に良い香りを嗅ぐことは一生ないのだろうと思う。
カップラーメンが二つ。三分待つ私たち。
私は様々な思いをくゆらせていると、向かいから声が聞こえた。
「神様ってのは皆幸せなのかと思ってたけど、そうでもないみたいだな」
うん。私は思わず呟いた。
人の幸せを杓子定規ではかってはいけないと思うが、あの詫びしそうな背中からはとても幸せを感じられなかったのだ。
余談であるが、依頼主である息子さんには「彼女はいなかった」と報告をした。探偵という立場上嘘をつくのは後ろめたかったが、私自身もそうした方が良いと思ったからだ。
息子さんは感情をごっそり失ったように、「そうですか」と答えて、調査代だけ置いて出て行った。
彼はこの後も母という神を探し続けるだろう。
私は旅館の時と同じような寒気を感じた。
傍らに彼女がいなかったのも、それに拍車をかけた。
そういえば、彼女の顔は、押川によく似ていた。
ずるずるとカップラーメンをすする音が事務所内に響く。彼女には、こうやって安心してカップラーメンを食べる居場所もないのだろう。
いつも、逃げて、逃げて、逃げて。
好意という悪魔から。
私は汁まで飲み干すと、彼女の最後の言葉を思い出して悲しくなった。湯気が目に当たったふりをして、涙を拭ったが、ノブくんは気付いていたかもしれない。だが、何も言わなかった。
ーー人に好かれ続ける人生は地獄だ。
押川唯子は、今も地獄を彷徨っている。
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