37話 もう一人の自分と

 気づいた時にはユーマは、三百六十度全てが真っ白の空間にいた。この空間に来るのは一体何度目なのだろう。辺りを見回すが、どこまでもこの風景が変わることはなかった。


 確かに幽世に入って行ったことは記憶にあった。そしてそこから記憶が飛び、今ここにいる。どうやって移動したかは不思議だが、考えていても仕方なかった。

 

 それに、早くケンタを助けてやらないと――

 この白い空間の中で、どうすれば扉は閉じるのだろう。このまま待っていればいいのか? どこか別のところへ行って、ユイと出会わなければならないのか? もしそうだとしたら、一体どこへ行けばいいんだ? 何かヒントはないのだろうか。考えれば考える程、心が乱される。


 

 

 その時、耳に重く、沈んだ声が深く突き刺さった。


「久しぶりだな、俺」


 ドキン、と心臓の鳴る音が耳にも届いた。その声は妙に聞き覚えがある。呆然と突っ立っていたユーマは、前からゆっくりと近づいて来る人影を見た。

 その人影は、一歩、また一歩と近づいてくる。その歩き方も、体型も妙に見覚えが会った。薄気味悪い程に見慣れた姿。


 もう一人の、幻影のユーマだった。


 そっくりそのまま、ユーマの姿を模倣している。

 しかし表情だけは、違っていた。目の下には深く濃いクマが出来て、不適に歪んだ笑いを見せている。よく見れば、顔全体に陰りが出来ていた。それなのに爛々と二つの瞳を光らせている。


 左手の能力を手に入れる前に、姿を見せた幻影のユーマに間違いはなかった。全てを壊してしまえと囁き、今まで散々苦しませ、悩ませ、心を揺れ動かしたもう一人の自分。


「どうしてまた出て来た」


「最近、お前が俺を見てくれないからさ。なあ、どうしてお前はこんなどうでも良い世界を背負ってしまうんだ」

 幻影のユーマは不適な笑みを浮かべていた。


「ケンタやユイたちと、また楽しく暮らすため」


「だが、ケンタやユイを傷つけてきたような人間まで、お前は救ってしまうんだぞ。やつらはお前が苦労したとも知らずに、のうのうと生き続ける」


 そんな残酷なことを、お前は許せるのか。


 幻影のユーマは狂ったように笑い出した。ユーマは首を振りながら後ずさる。以前に比べて幻影のユーマは憎しみが増している。闇の色をした黒い物体がユーマの身体を蝕んでいく気がした。 


「お前は……一体何者なんだよ」ユーマは怯えていた。


 幻影のユーマが大きく一歩踏み出し、鼻先まで顔を近づけた。

「俺は本当のお前だよ。お前の本心さ。そして、大切な憎しみの部分でもある」


「憎しみ……」狼狽えた。


 心の中にこんな憎しみのカタマリのような感情は存在しないのだから。ユイとケンタと全ての逃げて来たものと向かい合い、ついに全てが元通りに戻ったのだ。そのことに心から嬉しく思ったのだ。だからこれが本心のはずがない。きっと、幽世が見せる幻だろう。存在するはずのない感情だ。


 それなのに、どうしてだろうか。なぜか幻影のユーマの声に、言葉に、耳を傾けてしまう自分がいるのだ。


 大きく首を横に振った。「嘘だ……お前なんかが本物の俺なはずがない! お前はただの幻、ニセモノだ」


 そう叫ぶと、幻影のユーマを左手で触れようとした。しかし難なく左手を交わすと、掴んで押し倒す。呆気なく地面に叩き付けられてしまった。

 幻影のユーマはしゃがみ込み、顔を上げたユーマを哀れみのこもった目で見つめた。


「言っただろう。俺はお前で、お前は俺だ。だから俺を倒すことはできない。お前は今まで俺を除け者にして来た。自分の本心に目を向けず、俺を心の底で隠し続けて来た。でも、そんな上っ面だけの感情に任せて生きていて、楽しいのか」


 その言葉に動揺している自分がいた。こんな幻の言葉に惑わされてはいけないと、叱咤する。


 勢いよく立ち上がると、距離を取った。これ以上間近で見つめられると、幻の言葉に頷いてしまいそうだった。


 やつれた表情のユーマを見て、歪んだ笑みを浮かべた。

「考えてもみろ。どうしてユイやケンタはお前の元を離れてしまったんだ? どうしてお前はここで生贄にならなければいけない? それはこの運命のせいだ。こんな不条理で理不尽な運命を背負うことがなければ、今頃楽しく三人で、世界が終わるまで過ごせたんだ」


「確かにどうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだって、思う時はあったけど、これは誰かがやらなくてはいけないことなんだよ」

 そうじゃなきゃ、未来はないのだから。


「そんなことはない。他に一つだけ方法がある」

 すると、幻影のユーマは手を差し伸べた。

「目を背けず、俺を見ろ。お前が己の憎しみと向き合えば、世界を滅ぼし、自分の理想のままにできるんだよ。なあ、だから今すぐ使命を放り出して『幻影の扉』の外へ引き返そう。そして、お前の望む世界に作り変えるんだ」


 いきいきと訴えかけた。差し出された右手を見ながら、息を呑んだ。

 こんな戯言に屈してはいけないことは分かっていた。覚悟を決めるのだ、これくらいの説得で信念が崩れる程ヤワではない。


 ただ、その心の底を燻っている幻影のユーマの存在は、邪魔でしかなかった。今のユーマにとって不利益なことを言って、奥底にある負の精神を呼び起こそうとしてくる。


 消してしまおうか。


 今、ここに幻影のユーマの右手がある。不意をついてこの手を左手で触れれば、この邪魔な存在を一瞬にして葬ることができる。こんなチャンス、今しかないだろう。


 幻影のユーマは今、考えていることを知っているのか、知らないのか……薄笑いを浮かべている。どちらにしろ、この幻はここで消すべきなんだ。


 左手を不意に動かそうとした。 



 

 ――しかし、すんでのところで手を止めた。


 深く、濃く暗闇が晴れてゆくように頭が冴え渡る。


 本当に消してしまうことが正しいことなのだろうか。

 ユーマは自分自身に問いかける。



 自分の醜い部分と向き合う。分裂してしまった彷徨える魂を呼び戻す。


 嘘、ニセモノ、幻。そう思っていた。でも違っていた。あの憎しみのカタマリだって、ユーマの一部なのだ。あまりにも大きな不運が重なったせいで、ユーマの中の憎しみが増幅していた。それなのに、その「憎しみ」目を背けて、認めなかった。


 だから、憎しみに満ちた負の感情に覆われたもう一人のユーマが出来たのだ。

 魂を呼び戻す。そのためには己の光だけではなく、影を含めて全てを受け入れなければいけない。そして、影さえも光に変えていく。


「もう、いいよ」


 もう一人のユーマは眉を潜めた。左手を下ろすと、残された右手が空しく感じられる。


「ごめんな、今までずっと一人にさせてしまって。ずっと、寂しかったんだよな」


「何を言っているんだ! まさかこのまま俺から目を背けるつもりか」


 ゆっくりと首を横に振った。


「その逆だ。確かにお前は俺の本心さ。俺の心にはこの運命を憎む感情があったことを認めるよ。でも、俺は全てを壊す気はない。そっちの本心よりも、俺は信じてみようと思うんだ。ユイやケンタ、特超隊の皆や一族も大事だけど、他に信じなきゃいけないものが、先にある」


 優しく笑った。


「自分を信じてみようと思うんだ。皆から信頼されて支えられる自分ってのを」


 今、ケンタ達はユーマを信じて、幽鬼達と戦ってくれている。死ぬかもしれないのに。それなのに使命を放り出して暴れていいわけがない。命をかけて戦う必要がある。


 皆から気づかされた事こそが自分の本心だと思った。そしてそれを疑わない。自分に誇りを持っている。

 もう一人のユーマは明らかにうろたえていた。

「結局お前は……俺が邪魔なのか。俺はどうすればいいんだ。この『憎しみ』をどうしたらいいんだ。俺は一体何だったんだ」


「影が光になってはいけない、なんてことはない……だからお前も俺になればいいんだ。お前も俺なんだから」


 もう一人のユーマに向かって静かに両手を広げた。大きく一歩踏み出し、身体を包み込んだ。


 もうひるまなかった。そしてもう一人のユーマに呼びかけた。心は平静だった。分裂してしまった己の魂を今、呼び戻す。


 さあ、還って来い!


 もう一人のユーマを抱きしめると、その瞬間にかき消えた。心に吸い込まれていった。その衝撃でかすかにこの真っ白な空間に風が吹いた。


 心はいつも以上に温かく、穏やかになっていた。


「…………ありがとう」

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