32話 未来の話をしよう

 ――夢を思い出す。四年間ユーマを罪悪感で苦しめた、あの夢を。この状況は酷く似ていた。


 ユイは呼吸を乱しながらも必死に睨みつける。顔に煤がついて黒くなっていた。頬に涙が伝って、光る。憎悪に満ちた表情は辛くて泣きたい気持ちを隠しているみたいだった。



 ちゃんと見れている。あのときとは違う、逃げずに正面を向いた。ユイの願いを、ユイの助けての声を、受け止められた。だから、それに応えなければならないんだ。



「俺は、ユイの気持ちの半分もわかってあげられないと思う。今まで、どれだけ辛かったかなんて想像もつかないし、どんな思いで死ぬ覚悟を決めたのかもわからない」


 首筋に汗が流れる。ユーマは息を吸う。

「でも俺、どんなに恨んでいる人だったとしても、ユイには人を殺してほしくないんだ」


(ユイは優しくて強い人だから、そのことを知っているから、自分に負けて欲しくない)


 ユーマはユイに歩み寄る。ユイの顔にかかった髪をなおすと、涙を流した姿が露になった。ユーマはそっと抱きしめる。どんな重荷を背負っていても、身体は細く小さかった。


「ユイの心はまだこの家に取り残されているんだ。身体は成長しても、心は昔のままこの小さな檻の中に閉じこもって、過去に囚われてる」


 だから、ユイはあのころの残酷な記憶を乗り越えられない。


「…………そうね、そうかもしれない。でももうどうしようもないの。心の中で復讐っていう憎しみが十分すぎるほどに積もってるのが、自分でもわかる。憎しみが自分をさらに辛くしていたとしても、その憎しみを持ち続けていないと『幻影の扉』を閉ざすために私は立ち続けていられない……!」


 ユイは嗚咽交じりの声と同時にユーマの胸で涙を流した。


 口の中がしょっぱい。ユーマも涙を流していた。


「……それなら、その憎しみを俺が塗り替えるよ」


 ユーマは顔を上げ、左手を真っ直ぐ上げた。


「ユーマ……?」ユイの顔に戸惑いの色が浮かぶ。


「ユイ、この薄汚れた天井をよく見とけ。こんな小さな檻、すぐ俺がぶっ壊してやるから」


 そして、ユーマは左手の五芒星に力をこめた。

 左手付近の空気が吸い込まれる。すると、天井や壁がみしみしと軋む音を立て始め、やがて轟音を響かせながら、家がユーマの左手に引き付けられるように倒壊して、吸い寄せられていく。

 おかしな方向へ壁や天井はねじ曲がり、家具などもぺしゃんこに小さくなり、部屋を燃やしていた炎も消し去った。

 ユイや、ユイの母親を吸い込んでしまわないように、ユーマは集中する。髪がふわりと浮き、重力がなくなったような浮遊感を感じた。


 ユイを縛り付けていたものを一つずつ解いていくみたいにゆっくりと、そして確実に跡形も残さぬように存在を、無くしていく。





 気づけば、遥か遠くから燃えるような夕日が、二人を包み込んでいた。

 ユイの瞳には、夕空の紺青と微かに光る星が美しく映っていた。


「…………ユイ知ってるか? この世界って、とてつもなく広いんだ」


 ユーマはユイを抱きしめ、何も無くなった床にゆっくり座り込む。二人はお互いを見つめあった。


「だから、一緒に未来の話をしよう。俺たちはこれから狭い世界を飛び出して、もっと色んな世界を知るんだ。ユイの生きる原動力を暗いものじゃなくて、明るい記憶に塗り替えていこう」


 ユイはユーマの言葉に苦痛の表情を浮かべる。涙はもう乾いていた。


「なんで、そんなことが言えるの。私は、ユーマは、もうすぐ死んじゃうんだよ……! 未来なんてなくて、残ったのは絶望だけで……そう、私は結局死ぬのが怖いんだ。復讐とか憎しみとかなんて、私なんかは皆のために死んだ方がいい人間だって思うための理由付けでしかなくて、私は……弱くてちっぽけで……」


「死ぬのが怖くない人なんて、いないよ」


 ユーマは優しく言った。


「俺だってそうだ。怖くて、苦しくて、押しつぶされそうだ。死を受け入れることなんて絶対にできない。でも、絶望だってことはもうわかりきっているんだから、だったら俺は希望について考えたい。俺はユイと二人で絶対に生き残って……また笑いあうんだ、って」


「そんなの幻だよ、幻想でしかない」

「そうかもしれない。けど俺とユイなら現実に出来るんじゃないかって自信がわいてくるんだ」


「私とユーマなら……?」


 ユーマは顔をほころばせ、空を見上げた。


「最近よく『幻影の扉』を閉じて使命を果たしたあとのことを考えるんだ。背負っていた重荷から何もかも解放されて、そのあと何をしようかって」


 ユイも空を見上げる。

「使命を果たした、あと」



 それは、あるはずのない未来。



「俺はまたユイとケンタの三人でどこか遊びに行きたいな。一族のみんなや夢幻町の人たちも誘って遠い国に旅行に行くのも良いかもしれない。あとは……俺は、またユイと一緒に学校に行きたい。一緒に授業を受けて、休み時間は一緒にご飯食べて、放課後はユイに勉強を教わりたいな。それで勉強が終わったら一緒に下校して『また明日』って言ってお互い家に帰るんだ。高校生、大学生、そして大人になっても、ずっとずっとそういうなんでもない日々を、ユイと送りたい」


 ユイは微かに笑った。

「私、四年くらい学校の勉強してないから、ユーマには教えられないよ」

「あ、そうか。じゃあ俺が勉強を教えてあげるよ。いつの間にか追いつかれて俺が教わってそうだけど」


 ユーマとユイは一緒になって笑う。


「……ユイ、頼みがあるんだ。聞いてくれないか?」

「……うん、なに?」


「俺に力を貸してほしい。きっと諦めてしまった方が楽なのかもしれないけれど、俺は嫌なんだ。未来には楽しいことがたくさんあって、俺はそれを逃したくない。世界の理不尽に抗うのが苦しい道だとしても、これまで誰もなしえなかったことだとしても、俺は立ち向かいたい」


 ユーマはユイの肩をつかむ。ユイの瞳は輝いていた。


「でもその未来は俺一人じゃどれだけ頑張っても見られないんだ。俺は優柔不断だし、嫌なことからすぐに逃げたくなるし、間違った選択ばかりしてしまう。だからずっと隣にいて欲しい。俺が道を踏み外してしまいそうになったら、支えて欲しいんだ……!」


 ユイは俯く。そして、ユーマの手をとり、優しく握った。

「私からのお願いも、聞いてもらって良い?」


「……うん」


 ユイは言葉を探すように、ゆっくり話し始める。

「私は、私の心は、四年前のあのころからずっと時が止まっていたの。どれだけ明るく振舞っていたって心のどこかにはいつも綻びがあって、もう何もかも諦めてた……でも私、ユーマの言う未来が見たくなってしまったみたい。もう一度、希望を持ってしまったみたいなの」


 ユイは顔をあげて、ユーマを見つめる。


「だから、私に手伝わせてください。私はすぐ諦めてしまうし、間違った選択ばかりしてしまうけど、何があってもこれからはユーマの隣にいるから……私も、ユーマの描く未来に連れていって……!」


 もう、二人の目に涙はなかった。ユーマはそっと、ユイを抱きしめる。


「もちろんだよ……俺の行く道に、ユイがいないなんて考えられない。これからは絶対に、ユイを離したりしない」


 ユイはユーマの胸に顔をうずめた。


「ありがとう、ユーマ」

 ユイの体温を感じる。とても温かくて、心地が良い。この時間が永遠に続けば良いのに。



 禍時。西の空に夕焼けの名残が消え、世界は藍色に染まる。

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