6話 異変

 それからの事は、あっという間に過ぎていった。悠真は警察に保護されるのを避けるために人混みに紛れて隠れた。今、保護されたら色々と健太のことで訊かれそうだったからだ。それは絶対に嫌だった。

 その後、校門のところまで隠れるように歩くと、偶然にも片岡先生と話す母を見つけた。母は健太が超常人となったことを知っているかのような深刻そうな顔をしていた。周りに警察官がいないことを確認すると、母に声をかけた。


 片岡先生も母も、いなくなった悠真が現れたことにひどく驚いていた。母は何があったのか訊いて来たので、悠真はありのままに話した。健太がいじめられていて、そのいじめていた子に怪我を負わせたこと、超常人になって性格が一変したこと、空を走るように逃げたこと――。


「ありえない」


 母はそれを繰り返していた。顔を覆ってうつむいて静かに泣いている。悠真は自分のせいのような気がして悲しくなった。でも、悠真に出来ることは背中をさすることくらいだった。

 結局、警察に事情を話すことになった。母が、この騒ぎの張本人が健太だということを警察に話すことを決めたのだ。


 夕方。部屋のベッドの上で仰向けになっていた。窓からは夕日が橙色のカーテンのように部屋に注がれる。普段は眠くなってしまうのだけれど、ぽっかり穴の空いた心にはむしろ寂しく感じてしまう。

 家に帰った後、工藤家には色々な人が集まって来た。健太の小学校の先生たち、警察の人達。近所の人達も来た。工藤家の親戚は東京に住んでいるので、その日のうちにすっ飛んで来た。今、母は、母方と父方の祖父母と話し込んでいる。大人同士での話ということで、悠真は部屋にいることになった。そうして今寝転んでいる。


 さっき、駿からメールが来ていた。あの後、授業は普段通り行われたらしいが、やはり――なのか、健太のことはすでに広まっているみたいだった。


 白い無地の天井の一点を、じっと見ていた。色々な事を考えないようにしているのだ。考えてしまうと、悪い方向をいつまでも考えて嫌になってしまいそうだったから。その一つが、昨日の公園のことだ。

 健太が公園で超常人と会話を交わし、何かを吹き込まれた結果として、性格が豹変し、いじめていた子に復讐しようと考えたのは間違いない。


(優衣だったのか?)


 駿が言っていたことを思い出した。あの時は考えたくもなくてすぐに否定したけれど、その人は健太の名前を知っていた。ということは、優衣かその知り合いではないかと、今になって思った。健太の知り合いに超常人の可能性があるのは、優衣しかいない。

 優衣や健太は今どこにいるのだろう。ベッドの上で座り込むと、膝を抱えて顔を埋めた。何故か急に自分が無力に感じた。超常人という力のある二人は悠真よりも何段も先にいて、悠真が階段を一段上がる度に、二人は二段、三段と上がって悠真から遠ざかっているような気がして、二度と追いつかない。そう感じるのにどうしようも出来ない。


 なんて惨めなんだろう。


 扉を見つめた。さっきから大人達が入れ替わり立ち替わりして、健太の部屋の中を調べているせいで、ドタバタと騒がしい。どうせ調べたって意味はない。いったい何を調べているのか、知りたくなる。超常人になった理由? 健太がクラスの子を傷つけた理由? そんなもの、超常人が全部持って行ってしまった。

 どうにかしないと、頭が変になってしまいそうだ。


「壊してしまえ」


 突然の、他人の声。

 悠真はハッと顔を上げた。背中に悪寒が走った。部屋には誰もいないはず――


「全て壊してしまえばいいんだ。健太がそうしたように」


 急に視界の端に影が映った。横を向く。そいつは勉強机に座って、ドアの方を見ていた。


 悠真だった。


 そいつ――幻影の悠真は目を合わせ、不気味にニコリと笑った。

 自分が今、目の前にいる。動けなかった。痺れたみたいに、指一本動かすことも出来ない。何が起きたのか分からない。悠真自身の脳が理解を否定する。今、目の前にしているのは幻だと考えるしかできなかった。

 幻影の悠真はぶらぶらさせていた足を止めて、床に着地した。腕を組み、ジッと見る。


「お前は無力じゃない。もう気づいているんじゃないか。自分にはこの現状を壊すことが出来るってことを」

 心臓の鼓動が、高鳴り始める。

「お前も力が欲しいだろう? ただ感情や欲望に任せて力を振るいたいだろう?」

 幻影の悠真は左の服の袖をまくった。そこで気づいた。幻影の悠真の左の掌には五芒星が描かれており、そして腕には螺旋のように刺青が走っている。

「この五芒星は全てを壊す力を持つんだ。例えば……」

 そう言って幻影の悠真は、左の掌を勉強机に押し当てた。

 すると、掌に吸い込まれるように、机が奇妙な形にぐしゃぐしゃと折れ曲がり、そして、いとも簡単に消えた。


 悠真は驚愕した。やめてくれ、と叫び出したいのに声が出ない。そこにあったはずの勉強机は、跡形もなくなってしまった。

「これは人だって飲み込める。この理不尽な世界も、あっという間に飲み込むことができる」

 幻影の悠真が、さっきと同じように親しみを込めてニコリと笑った。でも、さっきよりもずっと怖く感じた。


「――お前は、何なんだ」

「俺はお前だよ。そしてこれはお前への救済。お前自身が壊れないようにするには、周り全てを壊すしかないんだよ」

 幻影の悠真は、悠真の前に立ち、悠真の左手を握った。

「この力をお前に授ける。これで自由を手に入れろ……」

 幻影の悠真の腕にあった刺青が段々と薄くなり、悠真の左腕へと移っていく。


「これからお前は……信じられない重圧を背負うのだろう。だからそのときはこの力を使って、その使命を捨ててしまえ。お前の心はそれを望んでいる」

「……やめてくれ」

 刺青が完全に悠真の腕に移ると、幻影の悠真は一歩下がり、後ろを向いた。


「それを返しに来る日が来ないことを願っているよ」


 体の痺れが解け、動くようになる。そしてそれと同時に幻影の悠真は姿を消していた。

 ぜいぜいと喘ぎながら、何とか落ち着こうとする。ゆっくりと左腕を見た。

 夢であって欲しかった。しかし、左腕に刻まれたその刺青が、掌の五芒星が、現実であることをわからせてくる。


 悠真は恐る恐る、右手で本棚から本を一冊取って深呼吸した後、左の掌を押し付けた。

 本は左手に吸い付くようにして、掌にくっ付いている。そして、本はあり得ない形にねじ曲がり、穴へと吸い込まれて消えた。人智を越えた力だ。

 考えてみれば、あり得ない事ではなかった。あれだけの時間、超常人である健太と話したんだ。「負の力」が伝染してもおかしくはない。


 しかしそこでおかしなことに気がついた。悠真は頭に手をやる。超常人であればあるはずのものがそこにはなかった。「ツノ」だ。超常人としてまだ不完全なのだろうか。


 ベッドに横になって、腕で顔を覆った。悠真はツノのことなど、すぐにどうでも良くなっていた。そんなことより今のこの状況が受け付けられない。


 不幸は連鎖するとはこの事だ。四年前に優衣がいなくなってから、日常の歯車は少しずつ壊れていたのかもしれない。段々と歯車が噛み合わなくなり、やがて全てが崩壊する。そして気づいた時にはもう後の祭り、修復不可能となっているのだ。

 ようやく、この「現実」が視えて来た。けれどそれは錨のように重く、心の奥底に沈み込み刺さっていた。悠真は「現実」を視る度、心が痛んだ。

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