#10 本物の夏空、みんな笑った
「なるほど、そういうことやったんか」
阿倍野が感心したようにうなずく。
「あんな汚い財布、わざわざこんなところまで埋めに来るなんてアホなんかと思ってたんやけど、あれは猪熊くんを誘き出す餌やったわけやね」
「その通り。見事作戦成功というわけだ。まさか三人もついて来るとは思わなかったがね。よっぽど暇なのかね、君らは」
「暇なのはお前のほうだろ。大体、こんなボロ車取り返すために、朝からここでじっと隠れて俺らが現れるの待ってたのか? 間抜けとしか言いようがないな」
大沢さんが辛らつな口調で言った。
「間抜けとはなんだ間抜けとは。それにこの『バルバロッサ』がボロ車だと? 失礼にもほどがある。今すぐ撤回しろ」
竹中は色をなした。
「そもそも自分たちが麻雀で負けて取られたものを、こんなやり方で取り戻そうってのが、いかにも下劣だよな」
と僕も追い討ちをかける。
「ほんまやわ。大体、竹中君は太りすぎやと思うよ。女の子にも絶対モテへんよね」
今度は予想外の方面から、阿倍野が冷酷無比な打撃を加えた。
「全然関係ないだろそれは」
竹中は悲痛な叫び声を上げた。
「第一、お前だって人のこと言えんだろうが」
「一緒にせんといて欲しいわ。僕はせいぜい小太りで、君はまともにデブや」
こうして我々と竹中が不毛なやりとりをしている最中、猪熊は盗塁を狙う走者のように、少しずつ駐車場へのほうへとにじり寄って行った。そして、竹中の注意がそれた一瞬の隙を衝いて、テンピン号に向かって一気にダッシュをかけた。
ものすごい形相で走ってくる猪熊を見た竹中は、慌ててクラッチをつなぎ、テンピン号を発進させた。猪熊の追撃も虚しく、車はエンジンの爆音を響かせながら、入口のアーチに向かって走り去って行く。
その時だった。彼方から、別のエンジン音が聞こえてきた。バウンドを繰り返しながら、海岸通りからのスロープを猛スピードで走り降りて来たのは、アイボリーホワイトのセダンだった。トヨサン・マークV。その車はドリフト気味でカーブを切りながら一気にアーチを通過し、駐車場に飛び込んできた。
驚いたのは竹中である。正面から突っ込んできたマークVを避けようと、泡を食ってハンドルを切ったのだったが、急なターンでバランスを崩したテンピン号は大きく車体を傾かせ、哀れそのままスッテンコロリンとばかりにひっくり返ってしまった。
あまりのことに我々四人は絶句し、その場に立ちすくんだ。まるで映画のアクションシーンを見ているかのような非現実感の中で、車ってのはこんなに簡単に横転するものなのかね、と僕はぼんやりと考えていた。
急停車したマークVのドアが大きく開き、中から白滝が半ば足をもつれさせながら飛び出してきた。何やら叫びながら、上下さかさまにひっくり返ったテンピン号に向かって走って行く。
「こうしちゃおれん、俺らも行くぞ」
我に返った大沢さんが、そう言って駆け出した。僕ら三人も、後をついて走って行く。
テンピン号の車内では、シートベルトに体を縛られて逆さ吊りになった竹中が「助けてくれ」と真っ赤な顔をして大声でわめいていた。
何とか五人がかりでベルトを外して、竹中を助け下ろそうとしたのだが、何せ体が重くてうまく行かない。こうなったら、車を再びひっくり返したほうがむしろ早かろうということになり、我々はさかさまの車体を片側から持ち上げて、えいやとばかりに転がした。「うわああやめろおお」という竹中の声が響く中、テンピン号は再びごろりと回転した。そして、何事もなかったようにちゃんと起き上がった。
こうして竹中は、我々の手によって救出された。
灼けたアスファルトの上に呆然とへたり込む奴の姿を見ながら、我々五人は腹を抱えて笑った。本来なら、我々を騙したことを土下座して詫びてもらわなければならないところである。しかし、ポロシャツの両脇の下がビリビリに破れ、ジーンズのボタンが取れて半分ずり落ちたままという竹中の格好を見ていると、これ以上責め立てようという気にはならなかった。
我々への復讐に燃えていたはずの白滝も、予想外の展開にすっかり毒気を抜かれた上、良くやったとみんなに口々に誉められれば悪い気はしないらしく、すっかり機嫌を直していた。ただ、なぜテンピン号に追い付けなかったのか、その点については腑に落ちないようで、しきりに首を傾げていた。
あちこち傷だらけになったそのテンピン号だったが、しかし元々の造りが相当に頑丈であるらしく、ボディー自体はびくともしていないようだった。一度は止まってしまったエンジンも、猪熊が再びキーを回してやると何事もなかったように動き出し、元気にトントンとリズムを刻んだ。
「さ、それじゃ引き上げるとするか。おい白滝、帰りはこっちに乗せてくれ」
大沢さんがそう言って、マークVの方へ向かって歩き始めた。僕も大沢さんの後を追う。テンピン号は面白かったが、帰りはクーラーのある涼しい車で快適な夏のドライブといきたい。もう、祭りは終わったのだ。
暑くても平気だという阿倍野は、猪熊と共に再びテンピン号へ乗り込んだ。真新しい高級セダンと大昔の軽自動車という対照的な二台が並び、さあ出発となったその時、へたり込んでいた竹中が不意に立ち上がった。
「待て!」
ずり落ちてくるズボンを必死に引っ張り上げながら、奴は我々のところへ駆け寄ってきた。
「なんだ、乗せてやらんぞ」
猪熊が大声で怒鳴る。
「もう一度正々堂々と麻雀で勝負しろ、猪熊。そしてもし俺たちが勝ったら、『バルバロッサ』は返してもらう」
竹中はそう言って、胸を張った。途端にジーンズがずり落ちる。
「バカか貴様は。何でそんなことせにゃならんのだ」
猪熊は呆れ顔で言った。
「ただとは言わん。もし万一また俺が負けたら、妹を紹介してやる。かわいいぞ、俺の妹は。まだ女子高生なんだ」
「よし、分かった。受けて立とう」
と即座に返事をしたのは猪熊ではない。目を爛々と輝かせて、マークVの窓から身を乗り出した白滝だった。「女子高生」の一言に思いきり釣られたのは言うまでもない。しかし、小型のトドにそっくりのこの竹中の妹が、ほんとにそんなにかわいいのだろうか。
「おお白滝さん、あなたは話が分かる人だと常々思ってたんですよ、俺は」
竹中は調子のいいことを言う。
「勝手に話を進めてもらっちゃ、困るんですがね」
猪熊が肩をすくめて、マークVの後席でふんぞり返っている大沢さんを振り返った。
「どうしましょうか?」
「まあ、ここは一肌脱いでやれよ。要はお前がまた勝てばいいわけだ。そうしたらかわいい女子高生に会えるわけだろ、こいつが」
大沢さんは、運転席の白滝を指差す。
「ありがとうございます!」
白滝は喜色満面で声を張り上げた。
「そうと決まれば、早速出発しましょう。さあ乗れ、竹中よ!」
こうして我々は台風が迫る海岸を離れ、再び市内へと向かうことになった。マークVの車内は静かで涼しくて言うことなしだったが、埃っぽい熱風を浴びながら走った、テンピン号でのドライブが何だか懐かしいような気もした。開け放った窓から見上げた、あの濃い青色の空こそ、本物の夏空なのかも知れなかった。
まあいいや、と僕は思った。まだまだ夏は続くのだ。明日も、明後日だって、嫌になるほどずっと。
今夜の勝負とやらに果たして猪熊たちが再び勝利することができるのか、それは誰にも分からない。ただ、その結果が出るはずの明日の朝が、またもやうんざりするほどの暑さになることはまず間違いないだろう。そして例の忌々しいセミたちも、ここぞとばかりに大合唱を繰り広げることだろう。
夏が終わる、その日まで。
(エピソード2「使いみちのない奇跡」に続く)
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