#8 かわいいあの娘、暗闇でウインク
いよいよ、道の彼方にトンネルの入り口が小さく見えてきた。しかし猪熊はアクセルを戻す気配もなく、全速前進を続ける。
「おい、減速しないとまずいぞ」
大沢さんが前方を指差す。
「もしあの入り口にフェンスでも張ってあったりしたら、激突しちまう。一旦停止だ、トンネルの前で」
「大丈夫です。俺は、あのトンネルが通れる可能性に全てを賭けます」
猪熊はそう言って、逆にアクセルを踏み込んだ。
「いや、だからさ、通れる方に賭けるのはそれでいいから、ちょっと一旦停まれって言ってるんだ。危ないだろうが、このまま突っ込んだら」
「さあ行くぞ、テンピン号!」
大沢さんの言葉など全く耳に入らない様子で猪熊はそう叫び、右の拳を前方に突き出した。エンジンはフルスロットルのままだ。速度計は、時速八十キロ超を示している。
「馬鹿、やめろ」
「うわあ」
大沢さんと僕は、口々に叫び声を上げた。黒々と口を開けたトンネルの坑門が、たちまち目の前に迫る。僕は思わず瞼を閉じた。
次の瞬間、テンピン号はまるで乱気流の中に突っ込んだかのように、激しく上下に揺れ始めた。目を開くと、そこは真っ暗なトンネルの中だった。どうやら、入り口は無事に通過できたらしい。ほっとしながら、僕はサングラスを外した。
トンネルは、驚くほど狭苦しかった。左右にすぐ壁が迫っていて、窓から手を出したら触れられそうなほどだ。ハンドルをわずかにでも切り損ねれば、途端に壁に激突してしまいそうに思える。路面もでこぼこに荒れまくっていて、これではまるで洞窟だ。よくもこんなトンネルを、バスが走っていたものだ。猪熊はかっと瞳を見開いたまま、必死の形相でハンドルを操作している。
出口の光も、全く見えない。テンピン号の弱々しいヘッドライトでは、ほんのすぐ前方までを照らし出すのが精一杯で、その向こうにはどこまでも闇が続くばかりだ。あまりの重苦しい雰囲気に、我々は黙り込んでしまった。とにかく一刻も早くこんな薄気味悪い場所からは脱出したい、恐らく他の三人もそう思っているはずだ。
突然、猪熊が「うおっ」と声を上げた。次の瞬間、車はブレーキをきしませながら急停止した。僕は前方に投げ出されて、フロントシートの背もたれに激突する。
「急に停めるな、殺す気か!」
と叫びそうになった僕は、ヘッドライトの光がはるか前方にぼんやりと照らし出した物体を目にして、思わず言葉を飲み込んだ。
「あれは……」
「人……に見えるな」
大沢さんが、硬い声で言った。確かに、それは人影のように見えた。車内の空気が、凍りつく。
「もう少し、近づいてみます」
猪熊が低い声でそう言って、車をゆっくりと前進させた。クラクションを鳴らしてみても、前方の物体に動きはない。さらに近づいたところで、ようやくその正体が明らかになってきた。そこに立っていたのは、水着姿の若い女性だった。赤いビキニを着た彼女は、白い入道雲が湧き上がる夏空を背景に艶然と微笑んでいる。そしてその足元には、「海へ! 団栗浜へは、国鉄バスが便利です」という文字があった。
つまりそれは、国鉄が昔作った誘客用の看板なのだった。こんな場所に放置されている理由は分からないが、内容的にはここを走っていたバスの宣伝らしいから、関連がないわけではない。
「なんだよ、看板かよ」
「ははは、おどかしやがって」
と僕と大沢さんはいかにも安心したように笑い合ったが、実は僕の笑いには多分に虚勢が含まれていた。テンピン号の薄暗いヘッドライトに照らされて闇に浮かび上がるその等身大の看板に、僕はかなりびびっていたのだった。
彼女の両目は、実にパッチリと大きく描かれていた。黒ペンキで一本一本細々としつこいくらいに書き込まれた長いまつげの下には、コールタールを湛えたようにどろりとして、どこにも焦点があっていないとしか思えない巨大な瞳が見開かれていた。
露になった彼女の肌の色は、紫と茶色がまだらになっていて、異次元の立体感を醸し出していた。恐らく、死後しばらく見つからなかった死体というのはこんな感じになるのではないだろうか。
背後の雲や海はどぎつい色のペンキでベッタリと塗りたくられていて、雲は石膏の塊、海は紙粘土で出来ているように見えた。夏の海をここまで完全に透明感や爽やかさを排除して描くと言うのは、ある意味大変な偉業ではないかと思える。
ずっと昔、これと雰囲気の良く似た看板を目にしたことがある。それはあるホラー映画の看板で、それを見てしまった子供の僕は、その後何日も怖い夢にうなされることになった。今でもその看板が掛かっていた映画館のほうへは、足が向かないほどだ。
そういうわけで、実のところ僕の足は完全にすくんでしまっていた。しかしそんなことを口にしようものなら、こいつらは死ぬほど僕のことを嘲笑うに違いなかった。僕としては、虚勢を張る以外になかったのである。
「まったく邪魔な看板だなあ、さあどかしましょう!」
僕は声が裏返りそうなのを必死でこらえながら、看板の前に立った。不安定に明るさの変わるテンピン号のヘッドライトに照らされた彼女は、強烈な禍々しさと不吉さを放っていた。
「お、おう。やっちまうか」
「さっさと片付けちまいましょう、ははは」
大沢さんと猪熊もそう言いながら車から降りてきた。エンジンはかけたままだ。
今回は特に重石もついていなかったから、看板は軽々と持ち上げることができた。僕はできるだけ彼女の方を見ないように、かといって暗闇を見るのも怖いのでそっちも見ないように、苦心しながら二人と一緒に看板を動かした。
ようやく車内に戻った僕は、ほっと一息ついた。もうこんな思いはこりごりである。一刻も早く、このトンネルから抜け出したかった。
「ねえ、見ましたか?」
車内に残ったままだった阿倍野が、口を開いた。
「あの看板の女の子、ウインクしましたよね、皆さんが担いでたときに」
僕は思わず「うおわきゃああ」と叫んだ。悲鳴を上げたのは、僕だけではなかった。大沢さんと猪熊も同様に「ぎゃああ」と声を上げたのだった。路傍に佇む彼女は、凄みのある笑顔を浮かべながらそんな僕らをじっと見ていた。
慌てふためきながらサイドブレーキを解除した猪熊は、アクセル全開でテンピン号を発進させた。水着美女はあっという間に後方に遠ざかった。
「俺らが必死であの不気味なやつをどけてきたってのに、何てこと言いやがるんだお前は」
後席を振り返った大沢さんが、阿倍野を怒鳴り付けた。
「そう言われても、あの娘の右目がパチッと閉じたのは確かなんですけどね」
阿倍野が真顔のまま首を傾げる。
「くそ、まだ終わんないのかよこのトンネル」
猪熊が泣きそうな声で言った。
(#9「公道レース決着、しかし真相は」に続く)
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