第10話
草子が家に戻ると、そこは何も変わらずいつも通りの家だった。三日も草子が不在だったにも関わらず、何の乱れもなく、あるべき場所にあるべき物が置かれていた。
自分がいなくても成り立つ家。
自分がいなかった事で成り立たなかった痕跡を、草子は必死で探した。そうでなければ、自分がここに帰ってきた意味がなくなってしまう。焦りにも似た気持ちが草子を襲う。
草子は冷蔵庫を開けて中を見てみた。どうしてかわからないが、ここにならあるような気がした。
草子は見つけてしまった。
賞味期限の切れた牛乳。
やはり私がいないと夫は駄目なのだ。そう思った瞬間、草子は泣きたくなった。私はここにいなければいけないんだという気持ちは、草子を悲しくさせた。草子は落胆を覚えながら、牛乳を取りだそうとした。
その時、何か違和感を感じた。
草子はもう一度、冷蔵庫の中を点検するように見た。
アイス珈琲が入っていた。夫は珈琲を一切飲まないはずなのに。
草子は軽い目眩を覚えた。
女が来たのだ。ここに。
そうやって意識して部屋を見回すと、ところかしこに小さな印のように、女がいたであろう残存が残されていた。
まるで犬のマーキングみたいだ。
草子はおかしくなって、クスリと笑ってしまった。何故自分はここに帰らないといけないなどと、あんなに強く思い込んでいたのだろう。
この部屋はシミだらけだ。洗っても落ちないシミで溢れかえっている。
草子は男を思い出す。
指の間を一つ一つ丁寧に洗う男を、恋しく思い出す。
帰りたい、あの男の優しい束縛の中に。
帰ろう、あの男の元へ。
草子は自由になった心一つ抱えて、裸足で部屋を飛びだしていった。
男に捨てられた場所で、草子は途方に暮れ佇んでいた。
目隠しをされていたので、ここからどう戻れば男の元に戻れるのか、全くわからないのだ。
男の目や匂い、触れる手の温かさは鮮明に覚えているのに、そこへ戻る術が思いつかない。草子はその場にしゃがみこんでしまった。
もう二度と会えないのではと思うと、草子は気が変になってしまいそうだった。どうして、あの時車を降りてしまったのだろう。離れてはいけなかったのだ。ほんの少しの常識に負けてしまった自分が悪いのだ。
草子は絶望を背負いながら、あてもなく裸足のまま歩いていた。
足は痛かったが、心の痛みの方が強く、草子は気にならなかった。
夫の家に戻る気持ちは微塵も沸いてこなかった。
その事実が草子は嬉しかった。もう私はあそこには戻らない。そう思える事が、草子に微かな勇気を与えていた。
足が痛くて、草子は立ち止まった。男に足の指を洗われていた事を懐かしく思い出す。
「探そう」
草子は決意する。その決意が草子の心をとてつもなく強くする。草子はあの男を見つける事が、自分に課せられた罰なんだと思い込んだ。
罰、そうだ罰だ。草子は罰を与えられる事で自由を与えられるのだと、自分に言い聞かせた。そうする事で、草子はかろうじて前に進むことが出来た。
やはり人の我慢には限界がくる。草子は足が痛くなりすぎて、その場にうずくまってしまった。
靴ぐらい履いてくるべきであったと後悔した。お金も持っていない自分に、何が出来るというのだ。さっきの強い決意が見る見るうちに萎んでいった。
帰るしかないのか。夫の家に。
草子はそれだけは嫌だと、心が折れそうになるのを寸でのところで阻止し、よろよろと立ち上がった。そして、またフラフラと歩き始めた。
その時、草子の背後から車のクラクションが聞こえた。草子は勢いよく振り返った。偶然という名の奇跡を期待して。
(つづく)
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