第9話

 最後の夜、男は初めて草子のベッドに潜り込んできた。


「ありがとう」


 と言いながら、男は草子の髪を弄んだ。


「明日、送るから」


「本当に?」


「約束だから」


 明日から元の生活に戻る。その事を喜んでいない自分がここにいる。でも、戻らなくてはいけないのだ。草子のいる場所はここであってはならないのだ。


 草子は男に手を差し出した。


「縛って」


 男は少し驚いたような表情を見せたが、草子の目をじっと見つめ、何かを納得したように頷き、草子の手を縛った。


 手足を縛られ目隠しをされ、男の器用な指で全身を撫ぜられていく。草子の産毛を撫ぜるぐらいの感覚が、切ないぐらいの快楽を呼び寄せた。


 草子は男の指に翻弄されていく。


 身体が自分の意思では思うように動かせない不自由な状態で、心だけが自由になっていく快楽に、草子は深く溺れていった。


 男の指が草子の足の間から潜り込んでくる。草子の足は縛られているので、なかなか男は草子の肝心な場所にたどりつけないでいる。その、男にも与えられた不自由さが、草子の快楽を一気に押し上げていく。


 草子はわざと足を固く閉じて、男の指の動きを邪魔してみた。僅かばかりの抵抗を悪戯な気持ちで試みた。ふっと男の指の動きが止まった。怒らせてしまったのではと草子は不安になった。目隠しをされているので、男の表情がわからない。空気を感じるしか術がないのだ。


 目隠しを外された。


 そこには優しい目をした男がいた。愛おしいものを見つめる目。私だけを見つめる目。草子が狂おしい程、欲しかった私だけの男がそこにいた。




 翌朝、草子は連れ去られた場所で、車から降ろされた。


 別れの言葉も無く、男の車は無言で走り去った。


 まるで、捨てられたかのように、草子は道に佇んでいた。心がちぎれるように痛んだ。


 道の端にクロワッサンが落ちていた。拾うとそのクロワッサンはカチカチになっていた。


 もう二度と食べる事は出来なくなったクロワッサン。まるで私のようだと草子は力なく笑った。


 帰らなくてはと思うが、草子の足は一歩も前に進まなかった。


 帰りたくない。


 夫のいる家に帰りたくない。


 草子はわき上がる感情を無理矢理押さえつけた。男との約束を必死で守ろうとするかのように、草子は進もうとした。


 クロワッサンのようにカチカチに固まった自分の足を、無理矢理前に出し、鉛の足枷をつけているかのように重い足を引きずりながら、家に向かって草子は歩き始めた。



 (つづく)

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