第8話

 ここでは草子はずっと裸足で、白いワンピース一枚で過ごしている。下着もつけていない。


 草子は昔好きだったアルプスの少女ハイジを思い出す。草原を力一杯駆けめぐるハイジ。


 草子は狭い部屋の中で、自由を感じた。


 草子の手足はもう縛られていなかった。


 相変わらず男は、草子の肝心な場所には触れてこないが、もうそんな事はどうだっていいことだと思えた。この男の側にいると、草子は自分らしくいられるのだから、それだけでいいと思った。


 何よりも大事な事は、自分が自分でいられる事なのだと草子は気づいた。自分の真ん中には自分を置かなければならないのだ。


 昨日までは自分の真ん中には常に夫がいた。でも、今はちゃんと自分がいる。


 男は決して、草子の真ん中に住もうとはしない。それが草子にとっては心地良いのだ。


 草子はたくさん喋った。


 子供の頃から今に至るまでの地味な自分の人生を、一生懸命男に話した。男は黙って、時には頷きながら、草子の話に耳を傾けてくれた。


 草子はたくさん笑った。


 男の子供の頃から今に至る波瀾万丈ともいえる人生を、男は面白おかしく淡々と草子に語った。


 草子は男に負けじと、お皿に残ったクリームを舐め尽くすように自分の記憶を舐め続けた。


「クリーニング屋に洋服を出しに行く度に、初めての方ですかって聞かれるの。何度も何度も行ってる店なのに。印象に残らないタイプなんだと思う」


「そんなに」


「うん。そんなに」


 たわいもない話をして、二人で笑う。


 なんて幸福な時間なんだろう。


 草子は十年も一緒にいた夫ではなく、昨日、それも自分を監禁した男に心を許しきっていた。


 普通に考えたらおかしな状況なのだろうが、草子にはごく当たり前の事に思えた。


 監禁から始まる恋があってもいいのではないか。ナンパされて恋に落ちるのも、監禁されて恋に落ちるのも同じ事だ。要は出会いのきっかけなんてどうでも良いのだ。


 現に夫とはちゃんとした出会いだったのに、こんな事になってしまっている。人間性の問題なのだ。裏切る人間はどこまでいっても裏切るのだ。


 夫は、笑いながら人を裏切る。普通に日常を送り、妻である草子と暮らしながら、浮気をしている。


 草子は大人が怖い。自分自身が大人といわれる年齢になった今でも、大人という生き物が怖いのだ。


 子供の頃、母親が育児放棄をしたので、草子は親戚中をたらい回しのように預けられていた。


 母親はほとんど親戚付き合いを拒んでいたので、初めて会う大人の家にいきなり放り込まれて、草子はただただ小さくなってその場所にいるしかなかった。


 大人達の奇妙な行動。本当は迷惑なのに、優しい言葉を草子にかけたり、夜、草子が寝た瞬間から始まる母親への悪口のオンパレード。その大人達の裏表に草子は恐怖を感じた。


 母親は、何故自分で産んだ子供を愛せなかったのだろう。草子には子供がいないので、まだその事を理解する事は出来なかった。


 母親は二年前に病気で他界した。草子と一度も心通わす事もなく、突然草子の前から消えた。


 死ぬという事は消えるという事なのだと、その時草子は深く理解した。


 この男も消えてしまうのだなと、男の横顔を見つめながら、草子はこっそりと思った。


 草子はこの世に男の痕跡を残してあげたいと、ふいに思いついた。


 男がこの世から消えた後も、生き続ける何かを残してあげたい。



 (つづく)

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