第7話

 恐怖は凄い勢いで草子の元に戻ってきた。


「お腹がすいた」


 草子は大声で叫んだ。


 男の手が止まった。


「お腹がすいてるの」


 草子はもう一度叫んだ。


 男がくすりと笑う声が聞こえた。


 次の瞬間、草子の視界は闇に閉ざされた。男が黒い布で、草子に目隠ししたのだ。 


「殺さないで」


 かすれた声で草子は懇願した。


「殺さないです」


 草子の意図に反し、男は優しく答えた。


「本当に?」


「だって、死ぬのは僕の方ですから」


「死ぬのは怖い事なんですね」


「そう、怖いんです。だから三日間だけ、僕から死というものを遠ざけてほしいのです」


 草子は大きく何度も頷いた。


 殺さないと言われた事で、草子はまるで男に命を助けられたような錯覚を起こしてしまった。そして死を遠いものにしたいという男の気持ちにも共感し、自分がこの男を助けてあげなければという使命にも似た気持ちまで持ってしまった。


 それほどに、男の声の音が優しいのだった。


 視界を奪われるとそれ以外の感覚が敏感になるのだと、生まれて初めて草子は体感した。


 男が動く気配、スープの匂いを察知する嗅覚、男が飲ませてくれるスープの味を堪能する味覚、どれもが通常より際だっていて、どれもが味わい深いものに感じた。


 草子の耳元で男が言った。


「言葉にして」


 男の声の振動が、優しく草子の耳をくすぐる。


「美味しい」


 草子は声に出して言ってみた。気持ちを言葉にすると、よりいっそう感覚が深まるような気がした。


 もっと欲しいと草子は男にねだってみた。


 男は絶える事無く、草子にスープを与えてくれた。


 草子は飢えていた子供のように、スープを飲み続けた。生まれて初めて感じる満たされるという喜びを、草子は思い存分味わった。




 お腹が満たされ眠る。そして、男が草子を丁寧に洗う。最初は足だけだったが、ふくらはぎ、太股、お腹、首と少しずつ洗う範囲は広がっていった。


 だが、男は決して草子の肝心な場所には触れては来なかった。


 草子は何故だかそれがはがゆかった。一番触れて欲しい場所に触れられない。もどかしさでいっぱいになった頃、草子は男に言った。


「洗って」


 男は困ったような顔で笑った。


「戻れなくなりますよ」


 戻れなくなる。何て甘美な言葉なんだろうと、草子は微笑んだ。


「戻りたくない」


 草子は男に甘えるように言った。


「本当に」


「ここにいたい」


 また男は困ったように笑った。


「やめときましょう」


「どうして」


「だって僕はいなくなるんだから」


 そうだった。この男は死ぬんだった。


「ここにいたかったのに」


 草子は泣きそうになる気持ちを隠して、男に拗ねてみせた。


 男は優しく笑った。


「すみません」


 謝る男の顔を見ていると、草子は男の道とともに自分の道も消えてしまったような気持ちになった。


 私はどこに戻ればいいんだろう。


 わかっているのは、夫の場所にだけは戻りたくないと思っている自分の心だけだった。



 (つづく)

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