第6話

 夫が自分に触れなくなってどのくらい経つのだろう。


 一度、勇気を出して、草子から夫を誘って見たことがある。


 眠っている夫の上に跨り、夫の手を自分の片方の乳房に当ててみた。夫の目が少し開いた事に草子は気づき、小鳥が餌をつつくように鼓動が速くなり、そして期待した。だが夫の手は、死人のようだった。草子の乳房に全く興味を持たない死人の手。


 夫は草子を乳房ごと押しのけ、


「君は家族だから」


 と草子を憐れみを込めた目で見つめて言った。


「家族だから何?」


「僕は家族とセックスは出来ない」


 と夫は草子を切り捨てるように突き放した。


 草子はすごすごと夫の上から降りた。


 当たり前だ。家族とセックスは出来ないに決まってる。だが、私は家族ではない。妻なのだ。


 草子は、この気持ちをどうやって言葉にすれば夫に伝わるのか、見当もつかなかった。


 草子が黙っていると、夫はもう一度、


「君は家族だから」


 と言い捨て、布団を被った。これ以上話す事はないという合図のように、夫は布団の奥に隠れてしまった。


 片方の乳房を出したまま一点を見つめ、布団の上で固まり続けた屈辱の夜。それ以来、草子から夫を求める事は一切なくなった。


 私は夫にとって、血の繋がりのない家族なのだ。




 草子が思考の渦から戻ってみると、まだ男の指は執拗に指の間を揉みこむように洗っていた。何故だか草子は、その事に小さく安堵した。


 男はまるで、今朝の草子のようだった。


 草子はワイシャツの赤いシミを思い出す。遠い昔の出来事のように感じたが、自分のシミをこの男が洗い流してくれようとしているようにも思えてしまった。


 安心する。


 こんなおかしな状況なのに、ここは落ち着く。もうこのまま殺されてしまってもいいかもしれない。もう既に、心は夫に殺されてしまったのだから。後は肉体だけだ。


 そんな事を思いながら、再び草子は深い眠りの奥底に沈んでいった。




 お腹がすいて目が覚めた。


 こんな状況でも人はお腹がすくのだと、草子は少し愉快に感じた。


 心と肉体ならば、生きようとする力は肉体の勝ちかもしれない。


 もう草子に先ほどまでの恐怖はない。むしろ殺される時を楽しみとすら思った。


 苦しみ、絶望、どうしても捨て去る事が出来ない愛への渇望、それら諸々達が、命とともに消え去る瞬間を待ち望んですらいる。


 今、いったい何時なんだろう。


 この部屋には一切光が入らない。厚いカーテンで光が遮断されている部屋。照明も暗めで、部屋も狭い。ほとんど家具もない。必要最低限のものしかない、外から隔離された部屋。その事がとても草子を落ち着かせた。


 夫と暮らしている部屋では、毎日やらなければいけない事があった。なのにここでは何もしなくていい。もちろん監禁されているからなのだが、本当にやらなければいけない事なんて、本当は無いのかもしれない。


 男が草子に近づいてきた。見ると手に黒い布を持っている。男の手からだらりと床に伸びた黒い布。


 遂にきた。草子は覚悟した。きっとあの布で首を絞められるのだ。


 痛かったり苦しかったりするのは嫌だなと、咄嗟に草子は思った。草子は男に向かって嫌々をするように、首を横に振った。殺されるのなら、優しく殺されたかった。


 男は草子をじっと見つめたかと思うと、スッと草子の背後にまわりこんだ。


 草子の目の前に黒い布が現れた。


 怖い。やっぱり死ぬのは怖い。



 (つづく)


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