第5話
男がぽつぽつと話し始めた。
会社の健康診断に引っかかり精密検査を受けたところ、胃ガンの宣告をされてしまったのが一ヶ月前のことだったと話した。進行ガンで身体のあちこちにガンが飛び散っていて、自分の命は砂時計の砂が落ちていくようにサラサラと死に向かっているのだと淡々と打ち明けた。
家族はなく、友達もいない。自分が死んでも誰も泣かないんだと思うと怖くなった。せめて一人でいいから自分の死を嘆いてほしいと思ったと、男は草子に話した。
「家族がいたって友達がいたって孤独よ」
と草子は言い返した。
「君は本当の孤独を知らない」
「そんなことない。一人でいるより、二人でいる方が孤独な場合もある」
ムキになって言い返す草子の髪を、男は優しく撫ぜようとした。
「触らないで」
草子は咄嗟に叫んだ。
この男に触れられたら危険だと、草子の全身が察知していた。
「名前」
「えっ?」
「名前教えて」
「教えたくない」
「下の名前だけでいいから」
「……草子」
「草子」
男が草子の名前を呟いただけなのに、草子の心臓は苦しいぐらいに暴れだした。
名前で呼ばれたのはいつ以来なんだろう。
夫は草子を「おかあさん」と呼ぶ。
子供もいないのに、夫を産んだ覚えもないのに、おかあさんと呼ばれる。
草子は自分の名前を懐かしく感じた。
「名前、教えて」
今度は草子が質問する番だった。
男はくすりと笑ってから、
「田中」
と名乗った。
絶対に嘘だと草子は思った。そんなよくある名前でごまかそうとしても私は騙されない。だが、別に男の名前が田中だろうが、佐藤だろうが、どちらでもかまわないような気もする。
どうせ私は殺されるのだから。
「田中さん、私はあなたが死んでも泣きませんから」
また男はくすりと笑った。
そして、またぽつぽつと話し始めた。
癌だと宣告されてからの自分の毎日は、色が無くなり、未来を考える必要も無くなり、何もかもが無になった。
「わかりますか。まだまだ続いていると思っていた道が突然なくなる感覚。歩きたいのにもう僕の歩く道はないんです」
話の内容はとても怖いものだというのに、男の声は静かで優しく、まるで子守歌のようだと草子は不謹慎にも思ってしまった。
男の打ち明け話を聞きながら、こっくりこっくりと草子は深い眠りに落ちていった。
温かくて気持ちがいい。
目を覚ますと、男が草子の足を洗っていた。洗面器に張られたお湯の中で、草子の白い足が泳いでいた。
男が足の指の間を丁寧に洗っていく。男の指の動きはとても繊細で優しく、草子の心も身体も溶かしていくようだった。
肌がざわつき、痺れるような感覚が草子を襲った。男は丹念に草子の指の間を洗い続けている。
草子は眠っているふりをした。起きてしまったら、この状況を拒絶しなければいけなくなるからだ。
草子は、こんなにも人に触れられる事に飢えていた自分に狼狽した。
(つづく)
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