第4話
珈琲のいい香りが草子の鼻を刺激した。
草子は深い眠りから解放された。目を開けると、珈琲シフォンの中でコポコポと珈琲が泡だっているのが見えた。
草子は起きあがろうとして、恐ろしい事態に気づいた。
手首と足首を椅子に縛られている。
珈琲の匂いと縛られている私の手足。
何も繋がらないこの事実を草子はしばらく受け入れる事が出来なかった。
バタンとドアの閉まる音に、草子はビクリとなりながら、音のした方を恐る恐る見た。
さっきの男が立っていた。
病院で「死ぬんです」と草子に話かけてきた男だ。
どういうことなのか全く理解出来ない草子は、パニックになりそうな心を必死で押さえ込んでいた。
男を刺激してはいけない。
男が草子に近づいてきた。草子は逃げることも出来ず、でも恐怖で男から目を離す事も出来ずにいた。
男は草子のすぐ側まできて、草子を見下ろした形で立っていた。
「殺さないで」
草子は掠れた声で呟いた。
男は何故だかクスリと笑い、草子の髪を優しく撫ぜた。
男は片時も草子から目を離さない。
草子も恐怖心で男から目を離さない。
二人は睨み合うように見つめ合っていたが、男が先に視線を外した。
男が珈琲を草子の前に差し出した。
「砂糖とミルクは入れるの?」
草子はここが喫茶店の中で、男と珈琲を飲みにきていると思いたかった。だが現実は、マンションの一室で手足を縛られ、椅子に座らされているのだった。
草子が黙っていると、
「君はいつも缶コーヒーを飲んでいるから、甘い方が好きだよね」
男は楽しそうに言った。
草子は悲鳴をあげそうになった。
今、この男は「いつも」と言った。さっき出会ったのが初めてではなかったのだ。どこかで私をずっと見ていたのだ。
ストーカーという言葉が、草子の脳裏を掠めた。
男は珈琲にたっぷりと砂糖とミルクを入れた。そして、草子の顔の前に珈琲を近づけてきた。
草子はぷいっと横を向き、ささやかな抵抗を試みてみた。
「帰らないと夫が警察に連絡するかも」
男は珈琲をスブーンでぐるぐるかき混ぜながら、
「愛されてるんだね」
と軽い口調で草子に言った。
「そうじゃなくて、私が夫の大切な薬を持ってるから」
そう、夫が待っているのは私じゃなく、薬なのだ。
「大切な薬なんだ」
「夫は、薬を飲まないとミミズになるから」
男は興味深そうに草子を見た。
「ミミズになるんだ」
「そう、ミミズになるの。だから早く帰らないと」
もう草子は、自分が何を言っているのか全くわからなくなってしまった。
「落ち着いて」
男が草子に優しくささやいた。
その声は草子の恐怖を和らげてしまうぐらい、優しい音だった。
草子は少し落ち着きを取り戻した。
「どうしてこんな事をするの」
「もうすぐ僕は死ぬから」
「言ってる意味がわからない」
「三日間だけ側にいてほしい」
「どうして?」
男は返事をしなかった。
「どうして私なの?」
草子は質問を変えてみた。
「君が楽しそうだったから」
「私が楽しそう?」
「足をブラブラさせながら、楽しそうに空を見上げてた」
何て人を見る目がない男なんだ。
夫の浮気を知って、朝からずっとワイシャツを破く程に洗い続けて、苦しみにもがいていた私が楽しそうに見えたのか。
草子は、男の言葉に苛立ちを覚えながら、寂しそうに笑った。
甘い。
男が飲ませてくれた珈琲は、恐怖と正反対の安らぎを草子に与える程に甘かった。先程感じた苛立ちも気がつくと泡のように消え去っていた。
(つづく)
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