第3話

 病院はいつも混んでいる。どこもかしこも病気の人達で溢れ返っている。


 でも、草子は病院に来ると安心するのだ。みんな自分の事で精一杯で、誰も私に関心など持たない場所だからだ。


 弱さを知っている人間は他人にも優しい。優しさに飢えている草子にとっては、この場所が一番落ち着く場所なのだ。


 いつも薬を待っている間、草子は缶コーヒーを買って、中庭のベンチに座るのが習慣であった。


 ベンチに座り、子供のように足をブラブラさせながら、空を見上げる。そんな些細な自由時間を楽しむのが常だった。


 草子の隣に男が座った。


 草子がチラッと横を見ると、男は軽く会釈をしてきた。草子も小さく、まるで頷いたかのように男に会釈を返した。


 男は白いシャツにGパンというラフな服装で、年は四十の後半ぐらいに草子には見えた。肌の色は浅黒く、筋肉質な感じの男だ。


「楽しそうですね」


 男が草子に話しかけてきた。


 嫌だな、と咄嗟に草子は思った。草子は知らない人に話しかけられるのが苦手なのだ。


 今日の自由時間は終わりにしようと、草子がおもむろに立ち上がりかけると、男は「あの」とまだ話しかけてきた。


 草子は会話が始まる前に立ち去れば良かったと後悔しながらも、


「はい」


 と答えてしまった。


 男は草子をじっと見つめながら、


「僕ね、どうも死ぬらしいです」


 男の言い方が、今日の天気は晴れみたいですと言われたぐらいの軽い口調だったので、草子はすぐに反応出来なかった。


 今、この男は何を言ったのだ。

 私は何を聞かされたのだ。


 男はもう一度、今度はハッキリとした口調で念を押すように言った。


「死ぬんです。僕」


 二度も死ぬという言葉を聞かされ、草子は男に対して怒りを感じた。


 私はそんな話は聞きたくないのだ。どうしてそんな話を知らない人から聞かされなきゃならないのだ。


 草子は子供の様に目を瞑り、耳を塞いだ。


 しばらく経って草子が目を開けると、男はいなくなっていた。辺りを見渡してみたが、どこにも男の姿はなかった。


 草子は知らず知らずのうちに息を止めていたようで、慌てて息を深く吸い込んだ。


「怖い」


 何だったんだ、今の男は。冗談にしてはタチが悪い。確実に病院でつく嘘ではない。


 固い土だと思って足で踏んだら、沼のように沈んでいく土だったと気づいた時のような嫌な感触だった。


 草子は薬を貰い、急いで家に帰ろうと思った。




 病院からの帰り道、草子は少し高級なパン屋に寄り、焼きたてのクロワッサンを五個買った。


 病院での自由時間が奪われた事や、嫌な感触に触れさせられた事への軽い抵抗で、いつもしない事をしてみたのだ。


 草子は、歩きながらクロワッサンをかじってみた。


 そうするとなんだか楽しくなってきた。こんな些細な事で気持ちって変わるものなのだと、草子は新しい発見に喜びを覚えた。


 朝はあんなに暗い気持ちだったのに。


 焼きたてのクロワッサンは、いい具合にカリっとしていて、とても美味しかった。


 草子は先ほどの男の事は、悪い夢でも見たのだと思う事にした。


 突然、背後から車のクラクションが聞こえた。


 草子は自分が邪魔になっているのかと思い、道の端に慌てて寄った。その拍子に持っていたクロワッサンを道に落としてしまった。


 草子は落ちてしまったクロワッサンに気を取られていたので、車が横に止まった事に全く気づかなかった。


 車の中から素早く男が出て来て、草子に向かって浅黒い手を伸ばしてきた。そして、草子の腕を強い力で引っ張った。


 驚く時間も与えられず、草子は無防備に車の中に引きずりこまれていった。


 何が起こったのかわからず、声を上げる事も忘れている草子の口に、白いハンカチが押しつけられた。


 強い香りを感じた瞬間、草子の意識は泡のように消えていった。



 (つづく)

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