大好きなあなたのことは、これからも忘れてなどやりませんからね!

「全くもう! こんな時間に来るだなんて聞いてませんよ! 非常識にもほどがある!」



 深夜に起こされたベニーグが、苛立ちをあらわに乱暴にブラシを動かす。


 痛い痛い痛いってば!

 ブラシは梳かすものであって、叩き付けるものじゃないわ! 私の髪はあなたの毛と違って繊細なのよ!? 髪を整える前に頭皮が削れてなくなってしまうじゃないの!


 と叫びたかったが、顔面はシレンティに制圧されている。あれこれ塗りたくり、筆をずいずい走らせるから動くこともままならない。



「この時間に到着すると、聞かれなかったから言わなかったというだけではないでしょうか」



 平手打ちに等しい勢いでペチーンペチーンとチークを叩き込みながら、シレンティは静かに答えた。



「それは屁理屈です! そんな屁理屈、まかり通るわけがないでしょう!」



 が、ベニーグは納得いかないようで、腹いせとばかりにさらに強く私の頭皮をブラシでガシガシ擦った。


 へえ……前にあなた、同じことを私に言いましたよね。屁理屈だと自覚していたんですね。本当に最後まで性格の悪い奴だわ。


 お迎えの方々は、モーリス邸の敷地内には入らず、森の入口で馬車に乗ったまま待機している。

 モナルク様を恐れてのことだと思うけれど、その態度に私はがっかりした。

 私がカロル様と婚約しようとも、やっぱりすぐには偏見の姿勢を変えることなどできないんだと思い知ったもの。


 『表向きの事情』とやらを伝えられているであろう王家からの使者ですら、頑ななまでにモナルク様に近付こうとしないのだ。皆のモナルク様への悪感情を取り去るには、かなりの時間がかかるに違いない。


 ベニーグとシレンティに高速で身支度を整えてもらうと、私は大きな姿見で仕上がりを確認した。ここへ来た時とほぼ同じ、『フォディーナ伯爵令嬢』の私が映る。


 痛みに堪えたおかげでプラチナブロンドの髪は艷やかに輝きながらゆるりと優美な曲線を描いて流れ落ち、叩かれ抓られ目潰しを食らいかけと散々な苦行を強いられた顔は驚くほど綺麗に化粧されていた。モーヴピンクのアイシャドウが、主張の強い紫の瞳によく似合う。日焼けしにくい白い肌も、ベビーピンクのチークが血色良く見せてくれた。


 自分で言うのも何だけれど、私もやればできるのね。やってもらった、という方が正しいか。形だけでも『淑女』のようになれてる気がするわ。


 淑女の形に整ったところで、荷物と共に階下へ下りる。荷造りだけでも先にしておいて本当に良かった。迎えをあまりにも待たせたら、また何を言われるかわかったものじゃありませんからね。



「ベニーグ、本当にありがとう。最後の最後まで、お手数をおかけしたわね」



 玄関の外にまで荷物を運んでもらうと、私は改めてベニーグにお礼を告げた。



「いえ、もう慣れましたよ。あなたには、ずっと世話を焼かされ続けましたからね」



 憎まれ口を叩くベニーグは、出会った時と同じように黒いローブをすっぽりと着ている。


 王宮からの迎えの者達はやや離れた場所にいるとはいえ、見られないと確信できる距離ではない。一応の警戒と加えて礼儀として、彼なりの『正装』で見送ることにしたのだろう。


 ベニーグはフードを被った頭を私からシレンティへと向けると、そっと呟くように言葉を発した。



「……あなたも、行くのですね」



 シレンティは無表情のまま頷いた。



「私はアエスタ様をお守りするためにここへ来ました。ですから、アエスタ様を無事にお送りしなくてはなりません」

「その後は」



 ベニーグが短く言う。


 それでも、彼の伝えたいことは私にもわかった。シレンティも同じだろう。


 けれど彼女は静かな声音で、ベニーグの望む答えとは正反対の言葉を接げた。



「後などありません。私はこれからもずっと、アエスタ様のおそばに付いております。この方の味方として、どんな時も支えていきたいのです」



 ベニーグ以上に、私が衝撃を受けた。


 シレンティの付き添いは、王宮経由フォディーナ家までだと思っていた。それさえ終われば、彼女は自由。きっとシレンティはベニーグのそばにいたいはずだから、こっそりモーリス邸に戻れるよう、お父様に取り計らっていただくつもりでいた。

 なのにまさか、こんな覚悟をしていたなんて。


 私に強いられた未来を、シレンティも案じてくれたのだろう。そして彼女は決断した。私の唯一の味方となろうと。己の大切な者と決別して。


 私だけでなく、シレンティもまた、好きな相手と結ばれない道を進む決意をしたのだ。



「そう……ですか。ではお二人共、どうかお元気で」



 ベニーグは力なく笑い、別れの挨拶を口にした。



「ベニーグ様もどうかお元気で。私のことはお忘れになっても、お手入れのことは忘れないでくださいね」



 シレンティがそっと微笑む。



「……っ、忘れるものか!」

「んきゃ!?」



 ベニーグの荒げた声に、甲高い悲鳴が重なる。


 私でもシレンティでもなく――モナルク様だ。

 いつの間にか、玄関扉に隠れて覗き見していたらしい。


 扉が大きいおかげで、全くはみ出てなかったから気付かなかったわ! いつもはかくれんぼ下手なのに、今回に限っては大成功よ!


 しかしモナルク様が思わず声を上げて、せっかく成功していたかくれんぼを台無しにしてしまったのも仕方ない――だって、ベニーグってばシレンティを抱き締めたのだもの!!



「忘れない、私はあなたのことを忘れない。シレンティ・トレンスという、初めて心許せた人間を忘れない。だからあなたも、忘れないでください。ベニーグ・クストという獣人のことを。私と共に過ごした日々を、どうか忘れないでください」



 ひゃああ……ヘタレのくせにやりよったわ!

 ヘタレなヘタベニから脱却して、イケベニなったわ! すごいわ、イケベニ……私までキュンキュンしちゃったわよ!


 シレンティはしばらく呆然としていたけれど、そろそろと腕を伸ばし、彼をそっと抱き締め返した。そして、答えた。



「はい。シレンティ・トレンスは、ベニーグ・クスト様のことを生涯忘れません」



 と。


 ベニーグもシレンティも、涙は見せなかった。けれどどちらも、泣くのを必死に我慢していることが痛いくらい伝わる表情をしていた。おかげで、こちらが泣きそうになった。


 だが、泣いている時間すらない。


 私も最後くらいは、素直な気持ちを伝えよう。そのくらいのワガママなら、許されるはずだ。



「モナルク様」



 玄関扉の内側にみっしりもっふり詰まっているピンクに、私は声をかけた。



「ふきゅぅん……?」



 モナルク様はベニーグ達と私とを交互に見て、眉を下げる。二人があんなにも親密だと、知らなかったらしい。


 そんなことは今はいい。後でベニーグに問い質せば済む話だ。


 しかし私には、ベニーグと違ってもう後などはない。今しかないのだ。



「たくさんご迷惑をおかけしました。たくさん不愉快な思いもさせたでしょう。でも、それでも」



 愛しい方の姿を目に焼き付けようと、私は扉の隙間でぎゅうもふ詰めになっているモナルク様をしっかり見つめた。



「モナルク様にとっては迷惑極まりない存在でしかなかったでしょうけれど……私、ここに来て良かった。モナルク様にお会いできて、本当に良かった。ここで過ごした日々を、モナルク様のことを、私はずっと忘れません」



 ――あなたが大好きだから。



 でも、その一言は言えなかった。



 いつか姿形は忘れてしまうとシレンティは言った。


 けれど、きっと忘れない。

 くりくりしたつぶらな黒い瞳も、小さなお鼻も、もっふりふっくらした口元も、短い手足も、太ましくぽよんと出たお腹も、大きなお尻に小さな尻尾も、埋もれて隠れているちっちゃな翼も――触れることが叶わなかった、ふわふわもふもふのピンクの毛も。


 こんなに苦しいなら、いっそ忘れたいと望む時もあるだろう。それでも、やっぱり忘れたくない。忘れてなどやるものか!



「ではモナルク様、どうかお元気で。さようなら」



 笑顔で別れの挨拶を告げると、私は玄関扉に背を向けた。



「むっきゅ!」



 モナルク様が叫ぶ。何事かと思って振り返ると、扉から手だけを伸ばして何かを差し出してきた。


 ヒラヒラした白いもの――それは一通の封筒だった。


 封筒を受け取り、今度こそ私は振り返らず、シレンティと共にモーリス邸を後にした。

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