そのアエスタさんは、このアエスタじゃないのでスルー……とはいかないみたいですわ!

 アエスタ・フォディーナ伯爵令嬢は、麗しい顔の下に恐ろしい性根を隠した、この上ない悪女だ。


 数々の悪事が露呈し、王太子殿下から婚約を破棄された彼女は、イムベル公爵令嬢の温情でモーリス領辺境伯モナルク・モーリスの婚約者候補となった。


 そのモナルク・モーリスだが、こちらも不穏な噂が絶えない。マルゴー国に対する防衛の手腕を認められて辺境伯の座についたものの、人嫌いと称して社交の場に一度も姿を現したことがなく、またその姿を見た数少ない者達はその姿を『恐ろしい姿をした化物』と言って一様に恐れている。


 それは恐らく、彼の持つ残虐性のせいだろう。

 モナルク・モーリスは先のマルゴー国による侵略に加え、その後の小規模な抗争においても戦闘にて大きな活躍を見せたが、その苛烈極まる戦いぶりは人でなしと呼ばれるに相応しかったという。


 しかしアエスタ・フォディーナは、そんな彼をも美貌と色香をもって陥落した。そして『悪女』と『悪人』の二人は手を組んでアエスタを聖女と流布して人心を味方に付け、このシニストラ国を乗っ取ろうとしているのだ。




 否、という声を上げる者もいる。


 アエスタ・フォディーナ伯爵令嬢は、麗しい顔の下に恐ろしい性根を隠した、この上ない悪女だった。


 しかしそんな彼女に、聖女の力が覚醒した。すると彼女はこれまでの悪行を心から悔い改め、善行に生涯を注ぎたいと考えるようになる。


 そこでイムベル公爵より紹介を受け、悪名高きモーリス領辺境伯のもとへ向かった。その目的は、彼を正しき道へ導くこと。


 そのモーリス領辺境伯であるモナルク・モーリスであるが、彼は魔獣という身ながら、マルゴー国に対する抑止力として働いていた。

 にもかかわらず『恐ろしい姿をした化物』と貴族連中に蔑まれ続けたせいで、ひどく心を歪めてしまっていた。そのため、いつか貴族どもを見返してやろうと躍起になっていたという。


 聖女は彼を説得し、そのようなことはやめるべきだと訴えた。しかし彼はこう考えたのだ――聖女を手中に収めてしまえば、この国を自分のものにするのも夢ではない、と。


 そして『魔獣』は『聖女』を己の館に監禁した。聖女はそんな中でも、頑なに彼の野望への加担を拒んでいるらしい。現在の安寧な日々が、何よりの証拠だ。


 この国の未来は今、二人――否、一人と一頭に握られている。




 この二つの噂は今や、シニストラ国の全国民を網羅する勢いで駆け巡り、それぞれの意見が対立して国が真っ二つとなっているという。


 お昼前に戻ったベニーグに呼び出され、初めて執務室なる部屋に入るや、そんな話を聞かされたんだから……もう唖然とするしかなかったわよね。



「ええと……その噂のどちらのアエスタさんも、多分……というか間違いなく私ではないわ。モナルク様も、こちらのモナルク様ではないと思うの」



 大きなデスクを前に、これまた大きな椅子に腰掛けたモナルク様も、何が何だか……といった表情で忙しなく眉毛を上げ下げしてしていた。

 眉毛の上下で印象が変わるモフモフなお顔、とても可愛い。お口もはくはく声にならない声を出そうとして失敗していて、とても可愛い。


 なんて、モナルク様の可愛さに現実逃避してる場合じゃないけれど、こんな現実から逃避したすぎるんだから可愛いモナルク様を可愛い可愛いと愛でたっていいでしょ!



「恐らく、先の噂を流したのがイムベル公爵閣下と王家。後の噂の方はイムベル公爵閣下方の噂を原型に形を変え、国民達の間で広まったものだと思われます」



 ひどく疲れた顔に相応しい疲れた声で、ベニーグは付け加えた。


 きっとケントルでまた宮廷魔道士長だかに呼び出され、これらの噂の真偽を執拗に問い質されたのだろう。ベニーグはどちらの噂も間違いだと、懸命に主張してくれたのだと思う。しかし彼の表情から窺うに、その努力は徒労に終わったようだ。


 だとすれば。



「噂が消えるまで放置……しておくわけにはいかないのよね?」



 そっと尋ねてみる。ベニーグはさらに顔を暗く曇らせ、静かに頷いた。



「負傷者が出たそうです。あなたが聖女か悪女かの言い争いを発端にして」



 それが貴族だった。しかも怪我をしたのは、侯爵家の者だった。

 被害者も加害者もひどく酒に酔っていたというし、噂があろうとなかろうと同じことが起こったかもしれない。けれども、王家はこの事態を重く見た。



 そして、話し合いの末に出された結論は――。



「アエスタ・フォディーナ伯爵令嬢。シニストラ王家よりあなたに、王宮への召集命令が届いております」



 固い声で、ベニーグが告げる。私は息を飲み、震えそうになる唇を開いた。



「私に召集を求めた理由は……?」



 ベニーグはすぐには答えなかった。

 モナルク様をチラリと見て、それから吐息を落とし、彼は改めて私に視線を真っ直ぐに向けた。



「カロル・テナーク・シニストラ第一王子殿下から、あなたに婚約の申し出がなされたためです」


「はあああああ!?」



 私より早く、置物と化していたシレンティが吠えた。


 ちょっとー、抜け駆けしないでよー。おかげで当事者が叫ぶタイミングを逃しちゃったじゃなーい!



「一度破棄しくさっておいて、また婚約しようと!? 大体あの方にはもう、スティリア・イムベル公爵令嬢という婚約者がいらっしゃるでしょう! まさかそちらを捨てて、またアエスタ様と再度婚約なさるおつもりなのですか!? そんなバカげた真似、国王陛下は元より王族の皆様も貴族の皆様もお認めになるわけがありません!」



 荒ぶるシレンティに、ベニーグは首を横に振った。



「いいえ、イムベル公爵令嬢との婚約はそのままです。アエスタ様は、第二夫人として迎えられるのです」


「はあああああ!?」



 今度こそ我慢ならず、私はきっちり叫んだ。



「冗談じゃないわよ! ただでさえカロル様となんて結婚したくないというのに、私を陥れてほくそ笑んでいたスティリア様も一緒!? 三人仲良くゴールインしろって!? それ何て拷問!? そんな拷問空間に死ぬまで拘束されるっていうの!? 絶対にお断りよ! 王宮になんか行くもんですか!」


「ええ……そうなりますよね。ごもっともです」



 けれどシレンティに怒鳴られ私に喚き立てられても、ベニーグはずっと虚ろな目と暗い表情のままだ。


 それを見て、私も頭が冷えた。そうだ、彼に当たっても仕方ない。


 ベニーグだって、カロル様の申し出を不本意だと思っているからこそ、できる限り感情を排して淡々と伝えているのだ。



「ベニーグ……説明して。どうしてカロル様が、こんな訳のわからない提案をしてきたのか。もう取り乱したりはしません。だからお願い、聞かせて」



 懇願すると、ベニーグの顔が歪んだ。

 ひどく苦しげな表情を見せたのはしかし一瞬で、彼は俯き、ゆっくりと言葉を発した。



「アエスタ様に起こった悪女説と聖女説……この両方を鎮めるためには、まずモーリス領辺境伯から引き剥がさなくてはなりません。何故ならモーリス領辺境伯は、どちらの噂でも『悪人』もしくは『魔獣』扱い。つまり、悪者に仕立て上げられているのです」



 それがどういうことか、わかる。わかるけれど……わかりたくない。



「アエスタ様が悪女であるなら、モナルク様と一緒に国家転覆を企てる恐れがある。アエスタ様が聖女であるなら、モナルク様という魔獣から救い出さなくてはならない。つまり、あなたがここにいると、モナルク様が……いいえ、モーリス領が危険に晒される恐れがあるのです」



 頭を、鈍器で殴られたような心地がした。


 私の存在が……モナルク様を危ない目に遭わせる?

 モナルク様が大切に守っている土地も、パルウムの人達も、みんなみんな、私のせいで?

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