深夜のトロトロチーズは最高に罪な味よ!

「お待たせしました、アエスタ様。遅くなってすみません。ちょっと長湯をしてしまって……どうです? 本は読み終えられましたか?」



 ベニーグがクローシュを被せたトレイを片手に部屋に入ってくる。



「あら、何を持ってきたの?」


「アエスタ様のお夜食ですよ。あなたの場合、夕食抜きでは明日までに餓死しかねませんからね。全くあなたときたら、毎日毎日モナルク様以上にお召し上がりになるんだから……」



 嫌味な言い方ではあるけれど、私の生存を心配して持ってきてくれたらしい。


 お風呂上がりの彼に会うのは初めてだったけれど、洗いざらしの髪を無造作に下ろした顔は普段より幼く見えた。うん、これならば十九歳という感じがする。



「ありがとう、ベニーグ! わあ、美味しそう!」



 お礼を言ってトレイを受け取り、クローシュを外すと、私は歓声を上げた。


 中身はホットサンドだった。

 黄金色に焼けたパン生地は香ばしい匂いを放ち、切断面からは薄紅色のハムが覗き、そしてチーズが蕩けて溢れている。


 耐え切れず、私は一つを手に取り、口へと運んだ。美味しい……美味しすぎる! やっぱり本なんかじゃ腹は膨れないわ! 食べ物は読むより食べるに限る! アエスタ、一つ学んだ!



「ただいまお茶をお淹れします……っと、お待ちください。ベニーグ様、オイルはどうされました? もしかしてもうストックがなくなりましたか?」



 ティーセットを用意しようとしたシレンティが足を止め、ベニーグの尻尾に視線を向けて眉をひそめる。



「ああ、お風呂上がりは付けないようにしているのです。せっかくふわふわになった毛が、重くなりますから」



 ベニーグは自分の尻尾を撫でながら答えた。



「ダメです。きちんとオイルをつけなくては、毛に栄養が行き渡りません。さあ、今からでもオイルをしましょう」



 シレンティがポットを置き、ポケットに入れていたオイル瓶を手に取ってベニーグに近付く。

 が、ベニーグはさっと彼女から距離を取り、シレンティを睨んだ。


 あら、何だか不穏な空気じゃない……?



「前から思っていましたが、モナルク様のように軽やかな毛を目指すなら、オイルなど逆効果でしょう。そんなものをベタベタ付けては、脂っぽくなるばかりです。お風呂上がりの今が絶好調だというのに、オイルなんかでベッタリさせては台無しになるじゃないですか!」


「お風呂上がりは水分を含んでいるから、調子が良さそうに見えるだけです。きちんと栄養補給しないと、翌朝にはガサガサのゴワゴワに逆戻りしますよ? そもそもベニーグ様の自己流のお手入れこそが、毛質をより悪化させている原因なのです! 少しは反省して、私の言うことを聞きなさい!」



 あ、これ不穏どころのレベルじゃないわ。本気モードの意見のぶつかり合いだわ。


 流れ弾が当たらないように、私はホットサンドごとそっと二人から離れてソファーの裏へ移動した。



「偉そうに命令しないでいただきたい! むしろシレンティ、あなたの方こそ反省してやり方を見直すべきでは? あなたは十日ほどで毛質を変えるなどと豪語しておりましたよね? なのに少しはマシになったとはいえ、モナルク様には程遠いのですが? この結果をどう説明するおつもりです? できないことをできると言って、私を騙したのですか!?」


「私は騙してなどおりません! 毛質を変えると言っただけです! 大体、ベニーグ様がモーリス様になれるわけがないでしょう! 己の毛のことは、ベニーグ様が一番よくご存知のはず! ですから私は……」



 シレンティが、言葉を止める。

 私もホットサンドごと、小さく息を呑んだ。


 ベニーグの顔からは、一切の表情が消えていた。代わりに切れるような鋭い瞳は、底知れぬ暗い光が燃えている。



「私は……モナルク様には、なれない、と」



 小さく、しかし強く、ベニーグが呟くように言う。

 シレンティは躊躇いがちに視線を泳がせたが、すぐに彼を真っ直ぐに見て頷いた。



「そうです。ですが、ベニーグ様……」

「もう結構」



 シレンティの言葉を刃で断つかの如く遮り、ベニーグは背を向けた。太く黒々とした尻尾は彼の心情を現し、屹然と立ち上がって震えていた。


 犬や狼が尻尾の動きでどのような感情を示すのかなんて、知らなくてもわかる。これは深く静かな怒りだ。



「あなたの甘言を真に受けた私がバカだったというだけです。金輪際、私の毛については触れないでください」



 背中から放たれる怒気は凄まじく、殺意すら感じた。それに打たれたのか、シレンティは無言のまま、彼の後ろ姿を見つめるばかりだった。



「……あなたも結局、他の人間達と同じだったのですね」



 その言葉を捨て台詞に、ベニーグは静かに部屋から出て行った。


 私はすぐに避難していたソファーの裏から飛び出し、シレンティに駆け寄った。



「ちょっとシレンティ! ぼんやりしていないで追いかけなさいよ! 追いかけて謝りましょう!? そうすればベニーグだって許してくれるわ!」


「謝ることなどありません。私は何も悪いことなどしておりません。間違ったことなど言っておりません」



 しかしあわあわする私と違い、シレンティは相変わらず淡々としていた。


 意地を張っている場合か! と再度焚き付けようとしたら。



「……これで、良かったのですよ」



 ぽつりと零し、シレンティは俯いた。



「ベニーグ様も、本当は理解なさっていたのです。モーリス様のような毛にはなれない、と。こればかりは生まれ持っての資質です。どれだけ憧れようと、叶うものではありません。ですが」



 握り締めていた手の中にあったのは、シレンティお手製のオイルが入った小瓶。それに目を落とし、彼女はそっと口角を上げた。



「ベニーグ様には、ベニーグ様なりの魅力があるのです。あの方はそれに気付くために、憧れを捨てなくてはならなかったのです。いつまでも誤った方向に歩いていては、本当に輝ける自分には辿り着けませんもの」



 それを聞いて、私はシレンティの思いをやっと理解した。



「もっと早く言うべきだったのでしょうね。でも、怖かったのです。ベニーグ様に嫌われるのが……ベニーグ様を傷付けてしまうのが。ベニーグ様はあの通り、意固地ですし、それにとても繊細です。素直に受け止めてくれるわけがない。けれどあの方を思うからこそ、いつかは言わなくてはならないことだった。こうなることは予想しておりました。ですから、後悔はしておりません」



 泣くのを必死に我慢しているような微笑みが、私を向く。


 シレンティは、ベニーグのために嫌われ役を背負ったのだ。ベニーグを思うからこそ、はっきりと真実を告げたのだ。



「そう、あなたは後悔していないのね」



 シレンティが頷く。



「でも私は納得していないわ!」



 そう言って空になったトレイをテーブルに叩きつけると、私は唖然とするシレンティを置き去りに部屋を飛び出した。


 目指すは、嫌味で意固地でわからずやなベニーグよ!

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