一瞬浮かんだ代償に、服やら髪やら手足やらをズタボロにされましたけれどね!

「文字を読むのがクソほど遅く、また理解するまでにはさらにクソほど時間がかかるアエスタ様に代わり、私が手紙の内容を要約します。頭に血が上るとクソほど話を聞かなくってクソほど暴走するベニーグ様も、黙って大人しくお聞きください。あと、とっとと離れやがりなさい。いつまでもイチャイチャしくさっていたら、二人まとめてぶった斬りますよ?」



 シレンティが腰の剣に手をやりつつ、冷ややかに言う。


 彼女の放つ冷気に打たれるまでもなく、私はベニーグを突き飛ばした。ああいやだ、『怯える者はバカをも使う』という諺があるけれど、その通りの行動を取ってしまったわ!



「アエスタ様が聖女と崇められるようになったのは、モーリス様のおかげのようです。あの恐ろしい辺境伯のもとで生きて半月も過ごせたのは、きっと何らかの力を持っていたからに違いないと噂され、そこから聖女説が持ち上がって、今ではケントルで大きな評判となっている……と旦那様は手紙にお書きになっております。アエスタ様の顔貌の美しさも、聖女と呼ばれる後押しになったのだろう、とも」



 つまり、期間終了までは何としても帰るわけにいかないとここにしがみついて家事仕事をしていただけなのに、ちょっと顔が綺麗だからという理由で勝手に聖女にされたわけだ。


 本当に、人の噂って当てにならないわね!



「またこれは私の個人的な見解ですが、少し前からシニストラで『悪役令嬢逆転物』が流行していたのも、この噂が一気に広まった要因かもしれません」


「悪役令嬢? 何それ?」



 問い返すと、シレンティは露骨に眉を顰めた。



「アエスタ様、ご存知ないのですか? 舞台や物語であんなに流行っていたのに……本当に木登りして木の実を食べるか、地べたを這いずり回ってモフい生物やらモフい植物やらを探すくらいしか興味なかったのですね」



 失礼ね。

 虫と語らうために虫の鳴き声を研究したり、鳥を手懐けて群れに体の一部を少しずつ掴んでもらう訓練をして、空を飛ぶ試みにも果敢に挑んでいたわよ。自慢じゃないけど、ほんの一瞬だけほんの僅かに浮かぶことに成功したんですからね!


 とは言い返さず、黙っておいた。今は私の大いなる挑戦の数々を聞かせるより、おかしな噂が広まった要因とやらが聞きたい。



「悪役令嬢というのは、その名の通り、悪役となる令嬢です。ですが悪役といっても大体は罪を犯したことには大きな理由があったり、冤罪で陥れられただけだったりします。そして最後は潔白が証明され、大きな幸せを掴む……そういったハッピーエンドストーリーが多いのです」


「冤罪で悪女にされた令嬢……というと、確かに私の身の上と被るわね。でも、それでは」


「ええ。イムベル公爵家にとっては、看過できない噂ですよね」



 ここでベニーグが口を挟む。



「たかが噂、されど噂。アエスタ様も、噂の恐ろしさはよくよくご存知でしょう。独り歩きした噂は、対象者の未来を狂わせる。家すら潰す。健気に居場所を守り続ける種を恐ろしい存在だと思い込ませる。全く、人間という存在は愚かしい限りです」



 軽蔑をあらわにせせら笑うベニーグの言葉を聞いて、私はやっと気付いた。


 そうか、そうだったんだ……モナルク様が貴族達の間で『恐ろしい化物』扱いされているのもきっと、私と同じ。噂という厄介なもののせい。

 モナルク様と最初に接した者達は、あの方の持つ大きな魔力と高い戦闘力で圧倒され、心底恐れたのだろう。もしかしたら、さらにその前にマルゴーから得た情報による先入観も働いていたかもしれない。


 彼らは自分が味わった恐怖を伝えた。それを聞いた者達も、恐怖心を植え付けられた。そういった恐怖心の伝播と連鎖が、モーリス領辺境伯の印象を固めてしまった。


 幽霊を恐ろしいと感じることに似ているのだろう。何も知らずに接すれば、半透明な死人などちっとも怖くない。

 けれど祟りを為す、呪いを施すと言われ続けていたら、見ただけで卒倒しかねない恐ろしいものとして受け止めてしまう。中には心優しく、愛する者の側にいたいだけで留まっている幽霊もいるかもしれないのに、だ。


 モナルク様を見るや逃げ出した令嬢達も、周りから散々恐ろしい噂を聞かされていたに違いない。

 勇気を振り絞ってやって来たら、相手は見たこともない姿をした人外。しかも人間嫌いだから、向こうも追い払おうと躍起になっている。そんな状況では、モナルク様がどんな方なのか知ろうとすら思えなかったはずだ。


 本当に恐ろしいのは、噂ではない。聞いただけの噂を、自分で確かめもせず信じてしまうことなのだ。



「アエスタ様、お気を付けなさい」

「え」



 やけに重い声音に顔を上げてみれば、ベニーグが不安げに金の瞳を曇らせている。



「私が手紙を取りに向こうへ行った時、珍しく宮廷魔道士長に呼び出しを受け、あなたの様子をいろいろと聞かれたのです。あなたは確かにモナルク様のもとで最も長く時間を過ごしている令嬢ではありますが、誰がモーリス領辺境伯の婚約者になろうと宮廷魔道士団にとっては関係のないこと。これまでも全く興味を示そうとしなかったのに一体何故今更、と不思議に思っていたら……まさかあなたに聖女説が浮上していたとはね」


「本当にね……意味がわからないわよね」



 はぁと溜息をつく彼に倣って、私も吐息を落とした。



「恐らくですが、イムベル公爵……いえ、もしかするとイムベル公爵令嬢を婚約者とした王太子殿下に、裏で様子を探るよう申し付けられていたのでしょう。イムベル公爵家も王太子殿下も、この事態を快く思っていない。このまま噂が収束するまで放置してくだされば良いのですが、その前に何らかの手を打ってくる可能性があります」



 その通りだ。


 イムベル公爵その人は存じないけれど、娘であるスティリア・イムベル公爵令嬢は、それこそあらゆる手を使って全方向から私を突き落として陥れた。


 また王太子殿下――カロル様も、現在は厳しい立場となっているはず。


 あの方は周囲の反対を押し切って、半ば無理矢理に私を婚約者に迎えた。なのにそのお相手は『悪女』と判明。婚約破棄を余儀なくされ、己の失態を取り繕うように慌ててイムベル公爵令嬢と婚約した。


 ところが状況は一転、『悪女』と切り捨てた私が『聖女』だと持て囃されるようになってしまった。


 そんな噂を放置しておけば、民の間でカロル様を『人を見る目がない無能』と呼ぶ者が現れるかもしれない。これ以上醜態を晒さないためにも、彼はきっとイムベル公爵家とイムベル公爵令嬢を守ろうとするだろう。


 だけど……今回は負けない。負けるわけにいかない。


 ぐっと噛み締めていた奥歯を緩め、私は久しぶりに令嬢らしく微笑んでみせた。



「私なら大丈夫よ。どれほど貶められようと構わないわ。でもね、モナルク様に手出ししようとするなら誰であっても許さない。どんなことがあっても、モナルク様をお守りしてみせるわ!」



 そして胸を張り、宣言する。するとベニーグは、ぷっと吹き出した。



「失礼、そうでしたね。あなたも一応、令嬢なのでしたね。令嬢なのに……守られるのではなく、守る側に立つおつもりでいらっしゃるのですね。これは何とも心強い」



 目頭を押さえながら笑い転げる彼を見て、私はシレンティと顔を見合わせた。



 ――笑ってる、わよね?

 ――ええ、笑っておりますね?


 ――ベニーグが笑うところ、初めて見たんですけれど。

 ――ええ、私も初めてです。シロジャナイも笑わなかったのに。


 ――ベニーグも、笑うのね。

 ――ええ、ベニーグ様は笑顔も可愛らしいです。


 ――可愛いかしら? 見慣れなくて怖いわ。

 ――可愛いですとも。桃色の太ましいアレが可愛く見えるアエスタ様にはご理解できないようですけれど。


 ――はあ? 世界で一番可愛いのはモナルク様よ!

 ――いいえ、ベニーグ様です! ベニーグ様の可愛さに叶う者などこの世界におりません!


 ――何よ、だったら全世界可愛い選手権開催してみる!? 優勝は間違いなくモナルク様ですからね!

 ――望むところですよ! ベニーグ様の可愛さこそ世界一だと皆に知らしめてやります!



 ベニーグの笑いが止まるまで、そうして私達は目で延々と会話し続けた。

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