もし婚約者になれなかったら、侍女として仕えてモフィアンセの座を狙うのですわ!

 基本的な家事仕事は、昨日の時点でほぼ全て教わった。


 しかしまだマイナス199,999のままだ。

 というか及第点は何点なんだろう? マイナス二十万ならギリギリでクリアできるんですけれどね……。


 今日からはベニーグと仕事を分担して、教わったことを復習しつつ、わからないことがあればその都度臨機応変に学んでいく。


 今思ったけれど、これってモーリス夫人育成の教育……というより、ただの雑用係じゃない? もっと言うと、ベニーグの使いっぱしりじゃない?


 でも、これをこなすしか私には道がない。


 それにもし、もしもよ?

 婚約者選抜で今後のご活躍をお祈り申し上げます的な結果になったとしても、スキルを身に付ければこの家に置いてもらえるかもしれないじゃない? 雑用係だろうとベニーグの使いっぱしりだろうと、モナルク様のお側にいられれば幸せだもの!



 今日は朝から昼にかけて、私が屋敷の二階、シレンティが一階、ベニーグが屋敷周辺の清掃だ。


 掃除を始める前に、私はとある部屋を訪れた。


 行動する前に考える時間を持つことは大切だ。そう思ったから……というのもあるけど、昨日の大失態から時間を置いた方が良さそうだと判断して今に至る。


 というわけで、私はドキドキしながらモナルク様がいらっしゃるであろう執務室の前に立った。お洗濯の時に覗いていた、図書室の通りにある二階のお部屋だ。


 まだお怒りは収まってはいないだろうけれど、謝りもせずそのまま放っておいては余計に嫌われてしまう。



「にゃにー?」



 ノックすると、モナルク様は返事をなさってくれた。


 でも、あれ……?

 今、ほんのりと、本当にほんのりとだけど、人に近い言葉を発したように聞こえた、ような気がした、ようなような?



「あ、あのっ、お忙しいところ、申し訳ございません! アエスタです! モナルク様に、どうしてもお詫びしたくて」



 私が声をかけるや、中からドスンバタンと騒々しい音がして、モナルク様が叩き付けるようにドアを開けた。

 ものすごく顔を顰めている。鼻息もふんふんと荒い。

 ああ、まだ相当憤慨なさっているようだわ……もう少し時間を置くべきだったかも。でもアクションを起こしてしまったんだから、もう後には引けない。



「昨日は大変失礼いたしました! 本当に申し訳ございません! 今後は気を付けてバレないようこっそり盗み見……じゃなくて、二度とあのような無礼ではしたない真似はいたしませんので、どうかお許しいただけませんか!?」



 モナルク様がさらに眉間を寄せる。


 手を伸ばせば届く距離。屋内でこんなに接近するのは初めてだ。空気を通じて、ほのかなぬくもりが伝わってくるような気がする。


 ああっ、今ほど距離も空気も邪魔だと思ったことはないわ! ゼロ距離で抱き着きたい! 空気を通さず直にぬくもりを味わいたい!



「ん……んー、むきゅ……」



 モナルク様はつぶらな黒い瞳を諦めたように伏せ、むふむふもっちりした口から溜息を落とした。

 今ので気付いたけど、瞼があるらしい。

 多分一重……いや、もしかしたら奥二重なのかも?

 睫毛もある。ちょっと長めのピンクの毛が瞳を取り巻いている。マスカラを塗ったら、すごいことになりそう。境目がわからなくなって、顔中に塗ってしまいそう。


 ……などと懸命にどうでも良いことを考えて抱き着きたいモフり回したい衝動を抑えていると、モナルク様はきっと私を見て頷いた。



「んきゅ!」



 そして、胸をむんと張る。


 ええと……お許しくださった、と受け取っていいのかしら? わからないなら、都合の良い方向に解釈しよう!



「お許しいただけるのですね! ありがとうございもふ! モナルク様は本当にお優しい方ですね!」


「む、むにゅ……」



 おや? さっと目を逸らしたモナルク様、何だかピンクみが強くなった、ような?



「きゅ! むきゅるん!」



 モナルク様がモフみ満点の背を向けて声を荒らげる。今のは『用が済んだらもう行け』という意味だったのだろう。



「あ、待ってください!」



 扉を閉めようとしたモナルク様に、私は慌てて追い縋った。そして手にしていたヘアブラシを差し出す。

 昨日浴室で綺麗に洗った、私の持参品の一つだ。



「モナルク様はブラッシングがお嫌いだと聞いて、お持ちしたのです。このブラシは専門の職人が開発したそうで、細い毛や濡れた髪も引っ掛かりなく梳かせるのですわ」



 モナルク様が、ほんとにぃ〜? とでも言いたげに怪訝な目を向ける。



「実は私も、ブラッシングが大の苦手だったんです。お恥ずかしい話ですが、こんな痛い思いをするならボサボサ頭のままでいいと言って逃げ回っておりました。そんな折に、オススメいただいたのがこのブラシだったのです。このブラシのおかげで、私はブラッシング嫌いを克服できました!」



 少しでも信憑性が高まればと考え、私は自身の経験も交えて語った。逆に、怪しい物売りの売り口上みたいになった気はしなくもないけれど、モナルク様は興味を示したようで、しげしげとブラシを眺め始めた。



「ですのでモナルク様も、どうか一度お使いになってみてください。ダメで元々といった感じで構いませんから、手の先にだけでもお試しいただければ」



 モナルク様はほわっと表情を緩め――たのは一瞬で、すぐにえふんえふんと咳払いをして顔を引き締めた。



「む……むきゅん」



 そして低い声で告げ、私の手からブラシをさっと摘み取る。


 受け取って、くださった。


 呆然としている間に、扉が勢い良く閉じられる。それでも私はしばらくその場から動けなかった。


 触れられはしなかったけれど、今までで一番近く強くモナルク様の体温を感じられた。

 おまけにブラシを器用にちょちょいと摘んだの……指、じゃなくて肉球だった。ピンクの、ふっくらもっちりした肉球……。


 何それ何それ何それ!?


 まだ可愛いを上乗せできるというの……!? あの方の可愛さは比喩ではなく、本当に無限大なのでは!?


 こ、これは確かに恐ろしいわ…………私はベニーグの言う通り、まだモナルク様の真の恐ろしさを知らなかったのね!


 こんなにも可愛いを毎日過剰摂取し続けたら、二度と元の生活に戻れなくなるに決まってる。ここまで強烈な可愛さを味わってしまえば、今まで可愛く見えたものも全て色褪せるじゃない! モナルク様のお側にいられなくなったら、可愛いに魂を抜かれた哀れな屍となって生きるしかなくなるわ!


 こうなったら、何としてもモナルク様の婚約者にならなくては。


 だって私、もう既にモナルク様中毒になってるみたいだもの。

 まだ出会って間もないけれど、この気持ちが恋かどうかも判別できないけれど――あの方と離れたくない、ずっとお側にいさせてほしい。

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