第5話 坂石円加《さかいしまどか》は一応先輩
【敬語】
「わたし一人でなんとかなるから春岩くんたちは先に帰って?」
ホルン担当の坂石さんは二年生。つまり僕の先輩だ。僕も普段は『坂石先輩』と呼んでいる。
面倒見がよくて、低音楽器グループの僕や一影さんだけではなく、常に他の部員のことも気にかけている。副部長を任されているのも納得だ。
それでいて威張ることなく『敬語なんていらないよ』と言ってくれる、よくできたお姉さんだ。
今もOB、OGが使っていたと思われる大量のクリアーブックを一人残って整理している。ファイルの中身は楽譜だ。コピーした楽譜をクリアーブックに入れて各個人に渡し、日々僕らは新しい曲を練習している。
「やっぱり手伝いますよ」
「ほんとにいいから。遠慮しないで帰って」
「……はい」
「悪いわね先輩、あとはよろしく」
僕のあとを続けて部室から出てきた一影さんはこのように本当にタメ口で坂石先輩に話す。個人的には良くないと思う。
「何……?」
しまった、つい一影さんの方を見てしまった。
「言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「……その、やっぱり先輩には敬語で話した方が……」
「うるさいわね。本人がいいって言ってるんだからいいでしょう」
学校を出て薄暗い街路を歩く僕ら。そのすぐ横を小学生の自転車がベルを鳴らして走り抜けた。
「どけどけーっ」
「こらっ!『どいて下さい』でしょ!?」
一影さんは他人に対しては相手が子供であろうと厳しかった。
【お菓子】
部室での水分補給以外の飲食は禁止されているのに、女子たちはお菓子の交換を頻繁に行う。それを率先してやっているのが坂石先輩だ。定期的に『お菓子交換会』なんてものを顧問の入梨先生に見つからぬよう気を付けて企画している。
「それじゃあ練習終了後に、ね?」
会の日には先生にバレないよう合図をする。
以前、僕も参加するべきなのか尋ねたら『どっちでもいいよ』とのことだった。
少し悩んだが参加することにした僕は、部員たちがあまり食べなさそうなお菓子をスーパーで見つけたら買ってストックすることにした。
その自慢(?)のお菓子を今日はカバンに忍ばせてきたのだ。
「これは珍しいでしょ、坂石先輩!?」
「あっ、わさび味なんてあるんだね。すごーい春岩くん!」
先輩に褒められて素直に嬉しい。参加してよかったー。
なのに、
「そんなの何年も前からあるわ、なんで今さら……」
と一影さん。
「うわーっ、あたし辛いのダメなんだー、残念」
早橋さんまで続く。
……せっかく持ってきたんだから、今くらい嘘でも同調してよ……。
【天然】
「ねえ春岩くん、このネジ回してくれない? もっと足を伸ばしたいんだけど……」
坂石先輩が困り顔で僕の隣にやって来た。
「どれですか?」
譜面台の高さ調節用のプラスネジだった。古いタイプには手で回せないものがあるんだよな……。ネジ頭の部分をナメてしまってボロボロになっている。
もう回らないんじゃないかな? 試しにドライバーを当ててみるも、びくともしない。
「これ……どうしたんですか?」
「十円玉で回そうとしたら、ガリガリになっちゃって……」
そりゃまあ、そうなるだろうな。
解決法が思いつかず頭を抱える僕。
「あっ、そうだ」
先輩が何かをひらめいた様子だ。譜面台を天地逆に抱えて、
「逆さにしたら伸びるんじゃない?」
…………。言葉が出なかった。
【お茶会】
前述のように、部活時間内は飲食が禁止されているのだが、各学期末に一度だけ『お茶会』と称してお菓子など持ち寄っての歓談パーティーのようなものが行われる。
「それではっ、みなさん今学期もお疲れさまでした~」
今回のお茶会を取り仕切るのは早橋さんだ。
「今日もたくさんお菓子持ち込んでくれてあたしはうれしいよ~っ!」
テンションが上がりすぎてライブのMCみたいになっている。
「紅茶が冷めるわ。早く食べましょう」
一影さんは相変わらず氷点下のセリフを吐き、
「うんうん……やっぱりそうだよね、わかるなぁ」
氏川さんは片手にお菓子、片手に文庫本で物語の世界に没頭していた。
まとまり皆無の一年生を二年、三年の先輩たちは温かく見守っている。
僕の隣では坂石先輩がポテチを小鳥のようについばんでいる。
……これ絶対狙ってやってるよね。時々こっち見るし。可愛く見られたいのだろうけど……。
僕はこれを見てどうリアクションすればいいのか……謎だ。放っておこう。
と、
「坂石……きもっ」
聞こえるか聞こえないかギリギリの声で一影さんがつぶやいて廊下に消えていった。
呼び捨てって……。
ポテチがバキバキと割れる音がした。
僕は怖くて坂石先輩の方を振り向けなかった。
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