333 間違える


「シド……!?」




 私が駆け出すと、少年は身を翻して逃げ始めた。私は彼の顔も髪の色も知らない。でも絶対にそうだという確証があった。あれはシドだ。




「ルーク!?」


「どうしたんすか!?」




 ルベルとカノンが追いかけてくる。「シドがいたんだ!」返事をしたが聞こえているかはわからない。まだ五歳か六歳か、その辺りのはずだが……速いな。シドは足がこの上なく速かった。とても子どもとは思えない。




「ッ……! これは困ったな……!」




 本気の追いかけっこでここまで捕まえられなかったのは初めてだ。シドは入り組んだ裏路地を複雑に走り回った。ぎりぎり見失ってはいないが……五歳でこれなら大人になったらどうなるのか。話に聞いていた以上だ。……末恐ろしい。皇帝がシドを重宝しているのは発火能力だけでなく、身体能力も加えてということだったのだろうか?




「それとも私の方が衰えたのか……」




 言霊というものがある。何気なく口に出した言葉が現実になる、みたいな。出来ないフリを続けた結果、本当にできなくなってしまったというのも考えられるか? ……いやいや違う違う違う、現実を見ろ。シドが規格外なんだ。


 逃げた先に彼の身長の何倍もあるような大きな壁が立ち塞がり、これは捕まえられるかなと思ったら壁を駆け上がって難なく飛び越えてしまった。できるか? 五歳だぞ? 五歳か六歳だ。その年であんなことが可能か? いくらレンガの僅かな出っ張りや欠けたところがあるとは言え、あれを利用して壁を駆け上がるなんて芸当、大人だって普通できないのでは?




 私は彼の後を追って壁を駆け上がり、屋根に飛び乗った。シドは忍びのようにびゅんびゅん屋根を走って行く。おいおいおい……本当にどうなってるんだ? 彼。




「…………」




 それにしても……冷静に考えてみるとおかしいな。絶対にシドだとは思うが、そもそも彼が自由に外に出られているのはなぜだ? 誰かの指図か、何か罠があるのか。そう考えるのが普通だな。となると、私に接触するよう命じたのは誰だ?






「…………ノアか?」






 私の正体を知っていてこういうことをするとなると……皇帝ではない、はず。カイウスかノアということになるが、シドをけしかけるとなるとノアのような気がする。それとも自警団の別の誰かと接触させようとしたのか? それに私が気づいて引っかかった? いや、だが私が目を向けた途端発火能力を使ったところを見ると、やはり狙いは私だったのでは…………。






 カノンとルベルはついてこれなかったようだ。姿がない。私は一旦立ち止まった。同時に、シドも立ち止まった。離れたところからじっと私を見ている。やっぱり狙いは私か。






「…………」


「……話をしよう。君はシドだね?」




 返事はない。私はゆっくりと彼に近寄った。少しだけ彼がビクついたのがわかったが、逃げはしなかった。




「私の名はルーク。どうしてここに?」


「…………」




 シドは何も喋らなかった。深々とフードを被っていて、顔もわからない。緊張しているのは伝わるが、それ以外何を考えているのかわからなかった。




 まさか初対面がこんな屋根の上になるとは。目の前まで来ても、彼は逃げなかった。私は膝を折り、彼と目線を合わせた。フードの下の顔が僅かに垣間見える。そっとフードを外すと、綺麗な金髪が露わになった。月の光にキラキラと輝いて見える。まだ幼いのに顔立ちは大人っぽく……と言うよりどこか厳しく、彼がちっとも子ども時代と呼べる時間を過ごしていないことは明らかだった。






「初めまして。君は――――」






 シドは黙ったまま紙を差し出した。慎重に受け取って広げると、そこには…………






『私は、シドです』


「…………?」




 その意味を聞こうとしたら、また違う紙を差し出される。同じように広げると……




『来て欲しい場所があります。このままついてきて下さい』








 うーん…………罠、かな?


 あまり疑いたくはないが、罠だな? きっと罠だろう? 疎い私でさえわかるぞ。この状況でこのままついて来い、なんて罠としか思えない。




「頼まれたのは、ノアかな? それともカイウス?」




 こそっと尋ねると、彼は眉間に皺を寄せ、私から離れた。おっと、警戒させてしまったか。




「大丈夫。君に危害は与えない。ノアもカイウスも私の……友達でね? そう警戒しなくても大丈夫。私はただ君を助けたいんだ」


「…………」




 シドはじりじり後ずさった。おおっと、ますます警戒させてしまったか。しかしちょっと可愛いな。何かこう、小動物を前にしたかのような……どうにかして心を開かせたいなと思うし、それから思いっきり甘やかしたいなとも思う。




「あ、乱蔵という男がとても美味しい菓子を作るんだ! 甘い物は好きかな? 一口食べたらきっと虜に――――」




 会話の途中でシドは駆け出してしまった。「お菓子あげるからついておいで」は禁句だったか? よく考えれば確かに怪しいことこの上ないな。しまった、間違えた。仲良くなりたいのに選択肢を間違えてしまったらしい。






「ごめん! やり直させてくれないか? シド! もう少し話をしよう! ……おおっと本当に足が速いな君は!」






 逃げるシドを追いかけた。いよいよ自分がどの辺りにいるのかわからなくなってくる。食堂の場所を聞いておけばよかったか。いや、聞いていたとて簡単に戻れただろうか? 今頃カノンとルベルはどの辺りにいるのだろう。乱蔵とシリウスは? きっと私を探している。悪いことをした。よく考えずに取りあえず動いてしまうのは私の悪すぎる癖だ。食堂に行く途中だったからお腹も減っているだろうに。




 その時、シドの体が大きく傾いだ。




「!!――――シド!!」




 脆くなった建物の屋根が大きな音を立てて崩れ、彼はその中へ吸い込まれていく。やはり屋根の上を走り回るなんてするものじゃない。子どもが走り回ったくらいで崩れる建物も建物だが、たとえ建物の方が丈夫だったとしても、彼が足を滑らせて屋根から転がり落ちるのも時間の問題だったのではないだろうか。シドは確かに運動神経のずば抜けたとんでもない子だが、それでも私が追いかけ回した結果、だんだんと体力が削られ、疲れてきていたのが後ろ姿からも明らかだったのだから。






「シド!!」






 私は迷わずぽっかり空いた穴に飛び込んだ。シドがほんの僅かに、驚いたように目を見開く。落下する彼の体を抱き締め、宙でくるりと一回転。そのまま両足で地面に着地した。少しばかりジ~ン、と足に衝撃が伝わるが、うん、大丈夫。大した高さではなかったし、問題ない。人のいない建物だった。広々とした倉庫のようだったが、今は使われていないらしい。




「……大丈夫か?」




 少し力を緩めて彼の顔を覗きこんだ。彼はやはり考えの読めない表情をして、私をじっと見つめている。




「追いかけっこも楽しいが、少し休憩するのはどうだ? 疲れただろう? 生憎水も菓子も持っていないのだが」




 にこっと微笑みかけると、彼の頬が若干引き攣った。うーん、どうしよう、私が何を言ってももう彼を怖がらせることしかないのでは。何も言わない方がいいか? でもそれはそれで怖いのでは? 難しいな。


 私はそっと彼から手を離した。危害を与えるつもりはないと示すために両手を挙げる。シドはゆっくりと体を起こし、じっと私を見つめている。






「それで、誰に頼まれて? どうして……――」


「……ごめんなさい」




 シドがぽつりと呟いたのを聞いた瞬間、私は咄嗟に動いていた。――――彼が私の腕に刺そうとした注射器を払いのける。地面に叩きつけられた注射器は中身が割れ、液体が零れ出た。




 注射器……やっぱりノアか。そう思った時、ボンっと何かが破裂する音。嫌な臭いがした。シドが何か投げつけたのはわかったが、ただの煙じゃない。少し吸っただけで体に激痛が走った。これはまずいと思いながら、近くにシドがいるのが気がかりだった。




 彼の口を布で塞いで煙から逃げようとした。シドが何か言っている。体中が痛かった。どうにかしてここから出ないと――――……そう思っている途中で、鳩尾に強烈な痛みが走った。煙による痛みとは違う。ぐらりと視界が揺れた。歪んだ視界の中で、シドが困惑した顔で私を見下ろしている。










 それを最後に、私は意識を手放した。


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