331 【ルカ】 引っかかる
ローガン・サピエンティア。フレアの従兄弟。
レインがもたらした情報に誰もが驚いた。
イグニス家では、フレアの母親は名前さえ口にすることが憚られるのか、皆「あの女」と呼んでいた。僕はたった一度だけ、その名前を見たことがある。イグニス家の共同墓地だ。皆からは少し離れたところにぽつんと立てられたその墓で、彼女は眠っている。公爵夫人だったとは思えない小さな、質素な墓。結婚してイグニス公爵夫人となったのに、そこには昔の名前が刻まれていた。たった一人、死んだ後も仲間とは認められなかったかのように。
“イザベラ・サピエンティア”
誰もその墓だけはろくに手入れをしていなかったからか、ぽつんと離れていたからか、墓は苔だらけで汚く、手向けられた花もなく、名前は擦れてすでに読みづらくなっていた。所々ヒビ割れたり欠けていたりしたように思う。墓にろくにお金をかけなかったというだけでなく、多分イグニスの誰かが罰当たりなことをしたのだろう。
祟られてもおかしくない有様だった。僕は怖くなって、もう二度と近寄らなかった。
……多分、フレアは母親の墓を見たこともないのだろう。僕がその墓を見つけたのも偶然のことだったし、きっと公爵に聞いても教えてくれなかったに違いない。あの人は、イザベラ様のことを憎んでいたから。
ルークを見ると、目を丸くして固まっていた。パチパチと瞬き、それから「驚いた」と声を漏らす。
「へえ……そうか。フレアの従兄弟……。そうか……」
「見た目は全然似てないけどね~」
「……きっと喜ぶだろう。従兄弟がいたなんて思いもしなかっただろうから」
「性格も最悪そうだし会わない方がいいよフレア様は。うん、どう考えてもフレア様のタイプじゃないね!」
レインが反対しているけれど、ルークはそれが全然聞こえていないのか、ぼんやりと遠い目をしていた。その表情に、妙に胸がざわついた。
「確か……彼女はイグニス公爵の実の娘ではなかったのだったか」
レオンがぽつりと零す。
そのことは今やもう誰もが知っている。フレアがイグニス邸炎上事件の実行犯として捕らえられた際、イグニス公爵がそのことを公にしてしまったから。フレアの母親は、イグニス家の別の男性と関係を持ち、そしてフレアが生まれた。――――あまりにも残酷だ。だってフレアは、あんなにもイグニス公爵に愛されたいと望んでいたのに。
フレアにとってローガン・サピエンティア、それに彼の父親であるサピエンティア侯爵は、数少ない血縁者……いや、フレアは母親が亡くなった時まだ幼く、彼女との記憶もほとんどないはずだから、初めて接する血縁者と言っても過言ではないのかもしれない。
「明日辺り会ってみようかな」
「やめといた方がいいよ」
「いやでも……ちょっと気になるし」
「幻滅すること間違いなしだと思うなあうんうん会わないが吉だよ絶対に間違いなく誰が何と言おうと」
「レイン……そんなに会って欲しくないのか?」
ルークが首を傾げる。レオンも「別に会うのは会ってもいいだろう」と眉を寄せた。
「ルークはイグニス令嬢の前世の兄なんだろう? 現世の従兄弟がどういうものか気になるのは当然の話ではないのか」
「うっさいなあ氷の坊ちゃんは黙っててよ」
「何だと!?」
「いや、だが会わない方がいいというのは正しい。ローガンは何を考えているかわからない。目つきも人殺しのそれだった」
人殺し……か。酷い言葉ではあるけれど、僕は静かに同意した。誇張でも何でもなく、確かに僕もそれを感じた。年は多分僕とそう変わらない。同じかもしれない。なのに、彼の剣はとても同年代のそれではなかった。途方もないくらい何度も実戦を重ね、死地をくぐり抜けてきたような……そういうものを感じさせる剣だった。
「……レイン、サピエンティア家は元々有力貴族で、今でも他の貴族たちから支持されてるって言ったよね?」
僕の問いに、レインが頷く。
「うん、そう言ったけど~?」
「もしそれが真実なら、良い味方になるんじゃないかな? 昔は忠誠を誓っていたとしても、今は皇帝に追放されて憂き目にあっている。彼らが革命に加わるなら――――」
「それはないと思うけど~」
レインは僕の言葉をばっさり切り捨てた。
「ローガンちゃんは革命反対派だからねえ。ちょこちょこ~っと調べてみたら、彼って革命に断固反対してるみたいだよ? だから自警団も一つにまとまらないんだって~。反対する理由はよくわかんないけど~、ま、どんなに酷い目に遭わされても、皇帝には逆らえない、てことなんじゃない?」
レインはそう締めくくったけれど……。
小さな引っかかりが残る。……本当に、そうだろうか。僕にはどうしてもそれだけだとは思えなかった。彼には他に何かあるんじゃないかって。ただ、その違和感をどう言葉にしたらいいのか……僕にはまだわからなかった。
結局、レインと殿下の猛反対があって、ルークは明日も西支部の方に行くことになった。本人は不服そうだったけど、「まあそのうち嫌でも会うことになるだろう」とあまり気にしていない風でもあった。西支部の方ではウィルという指南役がとても可愛らしいとか、一生懸命なのが微笑ましいとかいろいろ教えてくれたけど、それってつまりルークは自分の実力を隠してる、てことだよね……? それがバレたらちょっとウィル君が可哀想だな、と思った。
その夜、なかなか寝付けなくて廊下に出ると、庭の方で気配があった。窓から覗くと……レインだ。地面に座り込んで、月を見上げぼんやりしている。顔を上げていると長い前髪が頬に流れて、涼しげな目元がはっきり見えた。綺麗な青い目がぐるりと動いて、僕を見る。
「やあ、こんばんは~。眠れないのかい? お坊ちゃん」
「君も?」
「ヒヒッ、私は万年寝不足だからねえ。夜の方が落ち着くのさ。君にはわからないだろうけど~」
僕は庭に降りて、彼の近くまで歩いた。静かだ。子どもたちの寝息が聞こえてくるようだった。
「……わからなくはないよ。朝なんてこなければいいのにって思ってたこともある」
「え~意外に根暗だねえ」
「子どもの頃は怖かったんだ。朝が来るのが。暗いのも怖いけど、人と話したり誰かの話を聞いたりする方がずっと怖かった。僕は“呪われた子”なんて言われてて……正直、間違ってないと思う。だって僕さえ生まれなければ、母上があんなに非難されることはなかったんだから」
「ふ~ん? あれ? まさかまだそんなこと気にしてるの? くっだらな~~い。フレア様が聞いたら笑っちゃうね」
「フレアが……。うん、そうだね。何くよくよしてんだって活を入れてくれるだろうね」
フレアのことを思い出すと、冷たい心に温かいものが広がっていく。彼女の笑顔や声を思い出すだけで不思議と勇気が湧いてくる。彼女を取り戻すためなら、僕はもう何だって怖くない。
まだ、僕らはフレアに会えていない。イグニス邸が炎上して、彼女が自首して、冷たい檻の中に囚われて……それからまだちゃんと会えていない。ルークは、フレアであってフレアじゃない。彼女の一部ではあるかもしれないけれど彼女自身じゃない。彼と話す度にそれを感じた。
「……君も、フレアに会いたい?」
「さあねえ」
「君にとって大切なのは、ルーク? それともフレア?」
レインの口元から歪んだ笑みが消えた。じろっと僕を睨んだ後、「さあねえ」とまた月を見上げる。
「君に教える義理はないねえ」
「うん……それもそうだね」
「………………。張り合いないなあ。君って本当にイグニス家? フレア様とも全然似てないねえ。ま、血が繋がってないから当然かあ。案外ローガンの方がフレア様と気が合うかも? あっちはちゃあんと血も繋がってる訳だし~~」
レインはにやあっと笑みを浮かべて、試すように僕を見た。
「もしかしてそれでそわそわしてるとか? 可愛い妹をどこぞの男に取られちゃうかもって? どうする~? フレア様がローガンのことお兄様とかお従兄様とか呼んじゃったら――――」
「心から妹だって思えたら楽だったんだけどね」
「………………」
そう、楽だった。幼いルチアに対して思うのと同じように、彼女のことを大切な妹だと思えたら。……でも、僕にとって彼女はとっくの昔にそれ以上の存在になっていた。僕の生き方を変えてくれたのは、朝も昼も、夜も怖くないと思えるようになったのは、全部彼女のおかげだった。
「あのさ、君がローガンのことを怪しいと感じたのは……レオンとの手合わせを見た時、彼の戦い方を見たからだよね?」
「…………」
「僕もずっとそれが引っかかってたんだ」
ローガンの剣、あれは――――……
レインはぽりぽりと頬を搔いた。
「……そうさ、調べた。見た瞬間にわかったからね。王子サマたちはまだ気づいてないみたいだけど。……彼がサピエンティア家ってとこのお子さんだって知ってフレア様との血の繋がりもわかって――――だけど、足りないねえ。私の違和感はこれだけじゃまだ説明できない。血の繋がり? それが何だい? ローガンはまだ何か持ってる。もっと強い……繋がりを」
大きなため息が空気を震わせる。レインはヒラヒラと私を追い払うように手を振った。
「一人にしてよ。ここは私が先に見つけた特等席なんだから。ほら、消えた消えた」
「それは勿体ないな。君とこんな風にちゃんと話すのは初めてだ。もう少しいてもいい?」
「ヤだ」
「いつも黒パン囓ってるけど、好きなの?」
「え、無視? そういう図々しいところはなるほどフレア様にそっくりだねえ」
「スープに浸して食べたら美味しいよ」
「聞いてない」
「フレアの作る料理は何でも美味しいよね!」
「…………はあ。どうしてあの人の周りはこんな厄介なのばかり集まるんだ」
うだうだ嫌がりながらも、レインはそこから動かなかった。僕らはしばらく月を見上げていた。多分、同じ不安を抱えた者同士、それを少しでも紛らわせるように。
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