329 【ジーク】 困惑する
「古語?」
「シノノメ帝国の古語だな。古くに用いられていた言葉だ。今はもう使われていない」
今僕らの話している言語が共通言語として定められたのは千年より更に昔の話だ。僕もまだ生まれていなかった頃。その頃世界はもっと複雑で、多種多様な言語が入り乱れていたらしい。言葉が通じないということは揉め事や争いの種になり、時として戦争にまで発展した。そこで人々は決まりを作った。
言葉がわかってしまえば、争いはなくなるのではないか、と。
……まあ実際は争いがなくなることはなかったが。
途方もない計画が始まった。共通言語を作り、それを大勢に浸透させる。これを成功に導いたのは、古代の大帝国、レイメイ。あらゆる言葉の使い手であったとされる彼らが、どうやって共通言語を作り上げたのかはわかっていない。帝国として世界を支配したのもそのためだったとさえ言われているが、とにかく謎が多い。今は小さな国となって、南の果てにひっそりと暮らしているはずだ。
但し、本当に全ての国、部族が共通言語を使うようになった訳ではない。中には共通言語を使わない少数部族も未だに存在はする。ごく少数ではあるものの。
それに、たとえ使われなくなったとしても、かつて使用した言語は残っている。シノノメにもアカツキにも、それぞれ遙か昔に使用されていた言語が、古語として文献に残されていた。文献に残るだけだから、正確な発音はわからず、話し言葉としては使えない。だが貴族の中にはその古語を敢えて手紙のやり取りに使用する者も多いらしい。わかる人間にだけわかるというところに価値を感じるのだろう。
つまり、この手紙を書いたのはシノノメでも名のある貴族ということだ。
「へえ~。お貴族様って変だな……。使えねえ言葉をわざわざ勉強するのか」
「それが教養というものだ。と言っても古語を使いこなすのはかなり難しい。相手にもそれを求めることになる。貴族の中でもかなり限られてくるだろう」
ルカが手紙を覗きこみ、「僕にはムリだな」と困った顔になった。
「シノノメの古語なんて初めて見たよ」
「私にもこれはちょっと……。アカツキの古語ならばわかりますが……」
「ジークはわかるのか?」
「ああ、帝国のことを調べている時にシノノメの古語を勉強したんだ。だが……時間が必要だ。辞書さえあればもっと早く解読できるが」
そう言いながらワクワクが止まらない。違法な場所に忘れられた手紙、本、カード……どれだけ当たりがあるかはわからないが、貴族たちの関係を知り、不正を証明できるものがあるかもしれない。間違いなくこれは宝の山だ。意味がわからないからと、自警団の連中が捨ててしまわなくて本当によかった。
「クックック……楽しみだ。どんな小汚いやり取りをしていることだろうな……!」
「ジーク、ちょっと怖えよ……」
備品の整理に解読――――やるべきことは多かった。備品がようやく終わったと思った後は古語を解読しながらディランたちに字を教え、あっという間に日が暮れた。解読も全部は終わらなかったし、ディランたちの勉強も一日や二日でどうにかなるものじゃない。スケジュール管理だって一朝一夕には定着しないだろう。
「手紙をいくつか持ち帰る。構わないか?」
「ああ、いいんじゃねえの? どうせ放置されてたんだし……そんな有益なこと書いてあんのかなあ、本当に」
「やってみなければわからない。何かしらは掴めるはずだ」
「ところで鍛錬しませんか?」
「そうだ、諦める前に鍛――――鍛錬?」
僕とディランの会話に急に鍛錬をぶっ込んできたのはやはりサクラだった。
「ええ、休憩がてら鍛錬しましょう! まずはストレッチから! その後腕立て伏せ!」
「…………いや、僕は」
「いいっすねえサクラさん! 俺もお付き合いしますよ!」
「僕は……」
「さあさあやりましょう! 体を動かさないと鈍ってしまいますよ!」
サクラに鍛錬場に連れて行かれた。体力が足りないのは事実だ。文字を追いすぎて頭がクラクラしたが、少しくらい大丈夫だろうと思っていた。いや思いたかった。
「さあ! あと15回です!」
腕立て伏せは初めてだった。元気なサクラの声が頭にガンガン響く。
「じゅ、じゅうご――――」
「あと10回!」
「ちょ、サクラ――――」
「あと5回! 5回しかやれませんよ! 楽しみましょう!」
サクラは体力お化けだった。いや、鍛錬お化け、筋肉お化けか……。僕がひ弱なだけか? ディランは余裕そうだったし、レオンもルカも元気なものだった。僕は彼らの半分以下の鍛錬でヘトヘトに疲れ果て、早々に座り込んでいた。
汗がダラダラ流れて気持ち悪い。口も渇いていたが、水を取りに行くのも面倒だった。彼らがあんなにも平気そうな顔をしているのに僕だけ座り込んでいるというのも癪だ。もう一度やってみるかと足に力を込めた時だった。
首筋にひやりとしたものが当てられた。
「ひゃッ!?」
変な、声が出た。一瞬思考が停止する。クソ恥ずかしい声を出してしまったのが死ぬほど恥ずかしい。一体誰が僕にこんな不敬な……! くだらない理由でこんなことをしたのなら殺してやると思いながら首筋を押さえて睨み付けると、相手も僕がこんな声を出すとは思わなかったのか驚いた顔で僕を見下ろしていた。
「ロー、ガン……!?」
「………………」
「き、貴様、嫌がらせも大概に――――」
ローガンが持っていたのは何の変哲もない水筒だった。
「…………水?」
「…………」
「…………飲め、と?」
「倒れられても困る」
奴はそれだけ言って、僕の目の前に水筒を置いた。ピクリとも笑わず、それ以上何を言うこともなく去って行く。不気味だ。僕は残された水筒をまじまじと見つめた。
「……毒でも入ってるんじゃないだろうな」
だがあのローガンが僕を殺すためにわざわざ毒を盛るとも思えない。殺すなら剣を使うだろう、どう考えても。
不気味だったが、持っただけでもひんやりしたものが手のひらに伝わって、僕は恐る恐る水筒の蓋を開けた。おかしな臭いはない。レインに毒味させてもよかったが……僕はそれを少しだけ口に含んだ。
「…………うまい」
ただの冷たい水だった。それが今ものすごく美味しく感じる。普通に公務をしていただけの時より、よほど。何ならフレアの淹れる茶くらい……いや、そこまでではないな。あれに優るものはない。
ローガンの姿はもうどこにもなかった。心底わからない奴だった。いつも人を遠ざけているくせに、僕のことは特に嫌いだろうに、急に近づいてくる。水なんて差し入れる性格か? そうは思えない。僕が今日やったことに文句を言うならまだしも……。
意味のわからない男だった。
「ふ~ん、そうかそうか。悪い奴ではないのだろう。私もだんだん会いたくなってきたな」
屋敷に戻って互いに今日のことを報告していると、ルークは思った通りのことを言った。興味を持つとは思っていた。お人好しでコミュニケーションお化けのこいつならばきっとローガンとも仲良く…………仲良く? いやいくらルークでもあいつとはムリじゃないか。ローガンが誰かと仲良くしているところなんて想像もできない。笑顔の一つまともに見たこともない。
「ルーク、言っておくがお前が思っている以上に面倒くさい奴だからな」
「はっはっは、だが少々気になるな。かなり強い奴のようだし」
「……お前よりは強くない」
「そうか? わからんぞ、案外私より強いかもしれない」
ルーク以上に強い人間などそれこそ想像つかないんだが。間違いなくルークの方が絶対に強い。ただどういうわけか、ローガンと手合わせさせたいとは思わなかった。
ローガンは……人殺しの目をしている。あんなものとルークを戦わせるのはどうも嫌だった。たとえ手合わせだとしても対峙させたくない。近寄らせたくない。
「…………あんまり会わせたくはないけどねえ」
ぽつりとレインが呟いた。どういうことだ、とレオンが目を向ける。
「ん~……」
「……何かわかったのかい? レイン」
ルカの言葉に、レインは「まあねえ」とポリポリ頬を搔いた。どこか迷っているような口調だった。ちらりとルークの方を見て、それから諦めたように肩をすくめる。
「すこ~し調べてみたよ、彼のこと」
「! 何かわかったのか!?」
いつの間に調べたんだ? こいつ。ほとんど僕らと一緒に行動していたはずだが……調べる暇なんてあったか?
「彼の名前はローガン・サピエンティア」
誰も知らなかったあいつの苗字を、レインはすらすらと口にした。サピエンティア……聞き覚えはない。いや、そう言えば解読した手紙の一つに、そんな名前があったような…………
「サピエンティア家と言えば代々宰相やら将軍やらを輩出してきた元有力貴族だよ。侯爵家、だったかな? 皇族に忠誠を誓った一族だ」
「何……?」
そんな奴が自警団だと? レインは「でもねえ」と言葉を続けた。
「今の皇帝になった時にな~んか揉めて嵌められて追放されちゃって~。大富豪だったのに今は地方のちっちゃい領土で泣いて暮らしてるんじゃないかなあ? 彼らを支持する貴族は今でも大勢いるみたいだけどね、皇帝の目があるから堂々とは言えないけど。ま、その家を継ぐ予定だったのが、ローガンってわけ。彼一人っ子なんだって~」
「ちょっと待って、サピエンティアって……」
ルカが何かに気づいた。……そこで僕もようやく気づく。そうだ、手紙にもあったかもしれないが、そうじゃない。それより重要なのは……、僕が、その名前を以前から知っていたということだ。いや、正しくは聞いたことがあった。
「そう! 君は気づいたみたいだねえ。でもおやおや~? ルーク様は全然ピンと来てない?」
「? ああ、聞いたことはないが……」
「そっかそっか~。ま、むしろお坊ちゃんが気づいたのがピックリかもねえ。……イグニス家では禁句かもしれないし?」
「どういうことだ。何の話をしている」
レオンや乱蔵たちは首を傾げている。
彼らに、レインは「説明してあげよう」と不気味な笑みを向けた。
「フレア様のお母様の昔の名前は~、イザベラ・サピエンティア~」
場が凍る。……やっぱり、そうだ。
「実家がサピエンティア家で~、現侯爵はお母様のお兄様~」
誰からも嫌われ、公爵夫人であるにも関わらず不遇な最期を迎えた女性。ルカの母親とイグニス公爵の仲を引き裂いた、フレアの母。その母の実の兄がサピエンティア侯爵で、その息子がローガン、ということは……
「つまり、ローガンは……」
「フレア様のお従兄弟様ってわけ」
ルークは唖然としていた。
血の繋がった、フレアの親類。彼女の母親のことなんてすっかり抜け落ちていた。まさかここに来てこんな繋がりが明らかになるなんて、僕は思いもしなかったんだ。
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