第34話
クリスマスも近づいてきたある日、俺はいつもより少し早めに目が覚めた。
佐野さんはソファで寝泊まりしているのでリビングに行くと起こしてしまうかもしれない。
俺は布団にくるまったままスマートフォンで6ちゃんねるというネット掲示板を開き、ベニーモタルトに関するスレッドを見始めた。
ファンが集まっているスレではあるけれど、活動休止からしばらく経ったこともあり、人はまばらかと思っていたがここ数日はかなり盛り上がっているようだ。
『445 名無し:ベニーモタルト「年末年始は彼氏と過ごすので配信しませーん。また復活したらお金頂戴ね! あ、配信は低予算だからwww」』
ことの発端はとある人のこんな投稿。俺が見ているのはアンチお断りの場所なのだが、そこですら荒らしに来る暇な人がいるらしい。
しかし嘘八百だ。配信で使うアバターや、オリジナル曲にはかなり金をかけていると配信でも言っていた。それに年末年始はリゾート地でオタクを酒を飲んでいるくらいしか予定がない。
『446 名無し:アンチスレに帰ってどうぞ』
『447 名無し:んんwwwwATMがガシャンガシャンって言ってるぞwww』
正義感の強い人が反応してしまい、荒らしが増長し始める。
タルトちゃんの中の人は彼氏と過ごすどころか、酒を飲むしかやる事がなくて胃腸炎になっていたんだぞ、なんて書ける訳もなく行き場のない怒りを感じてしまう。
二度寝しようと思ったのだが、リビングの方からガタン、と物が落ちる音がした。佐野さんも起きたようなのでベッドを降りてリビングへ向かう。
佐野さんは何故かソファの上で毛布を被って座っていた。
「さ……佐野さん? おはようございます」
「おは……よう……ございます」
早朝で薄暗いリビングに佐野さんの元気のない声が響く。
「どこか体調悪いんですか?」
「いえ……ちょっとだけこうしていたら落ち着くと思います……」
そうは言われても心配なので佐野さんの隣に座る。
床には佐野さんのスマートフォンが落ちていた。
寝室で聞いたのはこのスマートフォンを床に落とした時の音なのだろう。
ちらっと見ると見覚えのある掲示板が表示されているのに気づく。見ていたのは同じスレッドだった。
普段からベニーモタルトの掲示板を見ているのかは知らないけれど、さすがにメンタルが弱っているだろう今に見るもんじゃないだろうと言いたくなる。
療養が順調だから自信があったのだろうか。まさかファンが集まっている掲示板にここまで強烈なアンチというか愉快犯が湧くとは俺も思わなかったけど。
「佐野さん……」
毛布の中から佐野さんが「ぐすっ」と鼻をすする音がする。
佐野さんの手がある辺りをめくって、ティッシュを差し入れる。
「ありがとうございます……佐藤さん、アイドルは彼氏を作ってもいいのかどうかって話、あるじゃないですか。あれ、どう思いますか?」
本来なら唐突な導入だけど、佐野さんがタルトちゃんだからスッとこの話題にもついて行ける。そもそもタルトちゃんはアイドルではないけれど、ガチ恋勢の俺が言ったところで説得力はゼロだ。
「あぁ……ありますね。俺は……隠しきれるなら良いんじゃないか派ですね」
いやまぁ佐野さんが他の男と一緒に居たら嫌だけれど、それはどちらかと言えば佐野さんという人間に対しての感情なのかもしれない。自分でも境界線があいまいで混乱してきそうだ。
「そうなんですね。私は……やっぱりダメかなって。言ってることは同じかもしれないですけど、絶対に隠しきれないと思うんですよ。どこかでボロが出ちゃう。そうなったらファンの人を裏切ったのと同じ。だから、恋人は作るべきではないっていうのが持論です」
あくまで一般論として言っているけれどそれが佐野さんの信条なのだろう。
「まぁ……そういう考えもあると思いますよ。急にどうしたんですか?」
「あはは……まぁ、なんでしょう。雑談です。それはそれとして、佐藤さん。私は佐藤さんの何なんでしょうね」
「それは……」
物凄く少ない経験を総動員して、良いように解釈するなら「いい感じ」。佐野さんがどうしたいのかは分からないけれど、キスをしてきたくらいなのだから悪くは思われていないはず。
だけど、佐野さんはあの掲示板の書き込みを見て泣いていた。
本来、VTuberであるベニーモ・タルトと佐野さんは別人格。中の人が何をしていようと関係は無いはずなのだけど、そうは問屋が卸さないのがこの界隈だし、佐野さんの信条もそれに寄り添っている。
だから、安易にいい方向へ誘導するようなことは出来ないし、彼氏に近しい存在だなんて思わせたらダメなんだろう。
「……友達……ですよ」
隣に座ったまま、手も繋がずにそう言う。
本当はそんな事は言いたくない。言いたくないけれど、少しでも男女の関係を匂わせたら、それこそ掲示板の書き込みが正となるし、それがまた佐野さんを苦しめてしまうはずだ。
「……そうですよね。ふふっ、私、変な事聞いちゃってましたね。それ以外なんて……ないのに……っ……」
毛布の中で佐野さんは泣きじゃくる。
俺もどうしようもないので、キッチンで二人分のお茶をついで持ってくるくらいしかできない。
少しすると落ち着いてきたのか、毛布から顔だけを覗かせ、佐野さんはお茶を飲んでいる。
「佐野さんは……佐野さんですよ。他の誰でもないし、誰かである必要もない。俺はそう思います」
「……ありがとうございます」
「佐野さんの言うことも一理ありますけどね。でも、別にアイドルじゃないでしょう? 自分に素直になればいいと思いますよ」
「あ……ふふっ、そうですね。じゃあこうします!」
佐野さんは目を細めて笑うと体を横に倒して俺に体重をかけるようにもたれかかってきた。
「これくらいならお安い御用ですよ」
「こうしていると落ち着きます。あ、もちろん友達と、ですよ」
「分かってますよ」
「ふふっ、良かったです」
不意に佐野さんと目が合う。友達だから何もしない。そのはずなのに、佐野さんは目を潤ませ俺を誘うように何度も瞬きをした。
「夜景の日の続き……してみますか?」
「あっ……その……」
「いいですよ。私、ダメ人間ですから簡単にポリシーを曲げられるんです。手首がぐにゃぐにゃなんです」
そんなはずがない。これは佐野さんなりにかなり勇気を振り絞っているはずだ。その佐野さんの勇気を無碍にはできない。
佐野さんの顔に手を添え、顔をゆっくりと近づける。
あと少し。それで夜景を見に行った日に追いつけると思ったその瞬間、佐野さんの携帯がけたたましく鳴り響いた。
「あっ……で、電話です」
佐野さんは慌ててソファから降りてスマートフォンを拾い電話に出る。
「はい、佐野です。はい……はい……お疲れさまです」
『……つかれ。元気してるぅ?』
相手が誰かはわからないが、静かな部屋なので電話の声が漏れ聞こえてくる。
「はい。胃腸炎になっちゃうくらいには元気ですよ」
『それ大丈夫なの……それでね、掲示板の件もそうだし、DMの誹謗中傷もそうだけど、ガンガン訴えていくことにしたから。年末にエビデンスを取ったら一気にやるわ。だから安心してね。年明けにはスカッとさせてあげるわ……ごめんね。もっと早くこうしてたら休まなくても良かったかもしれないのに』
「はい……あ、良かったです。私は大丈夫ですから。それじゃ、良いお年を」
電話を切った佐野さんは気まずそうに俺の方を向く。
「あ……か、会社からでした。今年も頑張ったねーって話でした」
「あ……そ、そうなんですね」
そんなことのために電話してこないでしょ! と心のなかで突っ込む。
相手の声が大きいからか滅茶苦茶内容が聞こえていた。どうやらネット掲示板での誹謗中傷に厳しく対処するという話のようだった。がっつり内部情報だし、俺は聞いていないふりをしたほうがいいのだろう。
さすがに一度途切れた流れを再開するのは佐野さんも恥ずかしいらしく、立ち上がってキッチンの方へ向かう。
「ふふっ、今日はパンケーキでも焼きましょうかね」
キスの流れは途切れてしまったけれど、佐野さんが元気になってくれたので問題なし。
佐野さんは仕事復帰の前までに俺とどうなっていたいんだろう、なんてことを考えてしまうのだった。
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