第33話

 胃腸炎から数日後。完全復活した佐野さんはうちのソファに腰掛け、手製のジンジャーラテを注いだマグカップの中にふーふーと息を吹きかけて冷ましている。


「佐藤さん、私もうお酒を飲まなくなって3日目ですよ!? すごくないですか!?」


「すごいですけど……三日坊主っていいますし今日が分水嶺ですね」


「うぅ……負けられない自分との戦いです……」


「少しなら……いや、やめておきましょうか」


「はい! どうせ自制がきかなくなるのは目に見えていますから! もうあの痛みは懲り懲りです……」


 どうやら胃腸炎の痛みが相当に佐野さんにトラウマを植え付けたらしく、それからの佐野さんは酒を飲まず、粗食を好むようになってしまった。食器も木の器に木のスプーンに新調している。


 ハッシュタグをつけるなら『#丁寧な暮らし』だろうか。ヘアバンドをつけて麻の服を着始めたらいよいよかもしれない。


「佐野さん、麻の服とか興味ありますか?」


「あっ……麻ですか? 特にないですけど……」


 ぽかんとした顔で佐野さんは俺の質問に否定で答える。


「あ……いや……なんでもないです」


 佐野さんはブルブルと寒がる様子を再現しながら首を横に振る。


「このフリースがなくなったら私は凍死しちゃいますよ。化学繊維万歳! ですね」


 丁寧な暮らしには程遠いらしく一安心。胃腸炎になるほどではないにしても、程々に欲深いのが佐野さんらしいから、これからもそうであって欲しいと思ってしまう。


「でもぉ……お酒を減らすとなると代わりにどうやって欲を満たしたものか……」


「なるほど……食べ物に力を入れちゃったら本末転倒ですもんね」


「はい! ホンマツテントウムシです!」


「そのフレーズ、気に入ってもらえて何よりです……」


「ありがとうございます。サトウムシさん」


「人をザトウムシみたいに呼ぶのやめてもらえます!?」


「ふふっ、いいツッコミです」


 一流VTuberのトークについていけているのだから俺もちょっとは才能があるんじゃないかとすら思えてくる。それくらい佐野さんの会話はテンポがいいし、思わない角度から話題が差し込まれてくる。


「じゃあ……やっぱりお酒の次は佐藤さんにしちゃおうかなぁ……」


 マグカップで顔の下半分を隠しながら佐野さんがそんなことを言い出す。


「それ、前も聞きましたよ。結局お酒に戻っていったじゃないですか」


「今度は本気ですよ」


 佐野さんはマグカップをくわえたまま、じっと俺の目を見てくる。


 その「本気」は一体どういう意味なのだろう。男女の関係になることもやぶさかではない、と言いたいのだろうか。


 少なくともキスをしたことについて触れるチャンスはこれまでに無かった。その話題もついに日の目を見ることがあるのだろうか。


「本気っていうのは……その……」


「本気で酒を絶ちます!」


 あっ……そっちね。別に悔しくなんかないぞ!


「それ、ネトゲ廃人の『引退する』くらいあてにならないやつですよ」


「スパロボの90%と同じくらいあてにできないやつですよね」


 佐野さんの例え返し、結構強いぞ。


「マラソン大会の一緒に走ろうな、くらいあてにできないですね」


「テスト勉強してないわー、くらい信用しちゃだめなやつですね」


 また佐野さんは即レスで打ち返してきた。


「さっ……先っちょだけだから! くらい信用できませんよ」


「ふふっ、佐藤さんに『先っちょだけだから』って言われたら信用しないようにしますね」


 しまった。はめられた。


「あっ……そ、そんな話しませんから!」


「しないんですか? 佐野と先っちょトーク……佐野っちょトークしましょうよぉ」


「酔ってないのにそのテンションになれるのが怖いですよ……」


「ふふっ。お仕事柄、どんなときでもテンションは上げきらないといけないんです。やっと本調子に戻ってきましたよ」


「あ……そ、そうなんですね」


 そんな仕事ある!?


 とはいえ、佐野さんの療養はまだ順調らしい。クリスマスも近づいてきたこの頃。つまり、佐野さんの仕事復帰も近いということ。


「佐野さん……いなくなっちゃうんですね」


 つい、そんな言葉が出てしまう。


「あ……佐藤さん、こっち来てください」


 佐野さんはマグカップをテーブルに置くと自分の隣をポンポンと叩く。


 俺は戸惑いながらそこに座ると、佐野さんは左手の小指を立てて俺に向けてきた。


「佐藤さんのコレ、いるんですか?」


「いませんって……」


「冗談ですよ」


 そう言って佐野さんは左手と入れ替えで右手の小指を立てて俺の目の前に持ってくる。


「私は帰るためにここに来ました。だからいずれは帰ります。でも約束します。ここで佐藤さんが苦しんでいたら、私はすぐに駆けつけますよ」


「わ……悪いですよ。佐野さんだって忙しいのに」


「もちろん、タダじゃないですよ」


「俺があげられるものなんか……わっ!」


 ギブアンドテイク。その考えに基づくなら、俺から佐野さんに与えられるものなんて何もない。


 そう言いたかったのだけど、佐野さんはいきなり俺を正面から抱きしめてきた。


「これですよ。人肌。当然ですけど誰でもいいわけじゃないです。佐藤さんだから、落ち着くんです」


 これもう告白じゃないの!?


 心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。


 佐野さんの背中に負けじと手を回すと「ふふっ」と可愛らしく笑った。


「佐藤さん」


「なんですか?」


「これ……お酒で酔っているときより気持ち良いんです。ほっとして。きゅーっとして。たまらないですよ」


「そ……それは良かったです……」


 ただのハグ。そのはずなのだけど、俺と佐野さんにとっては依存性の高い行為になってしまうことを実感したのだった。

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