第32話

「い……胃腸炎!?」


 以前にも来たことがある病室に俺の声が響く。


 佐野さんは「あはは……」と眉尻を下げて苦笑いをして頷いた。


 佐野さんの腹痛の原因は胃腸炎。そして、胃腸炎の原因は暴飲暴食。最近の酒が影響している事は明らか。


「とりあえず……お酒は封印しましょうか」


「うぅ……仕方ありませんね」


 項垂れながら佐野さんはベッドを降りて立ち上がる。


「もう帰れるんですか?」


「はい。薬は貰ったので、家で安静にしていなさい、と」


「なるほど……じゃあ帰りましょうか」


「はい!」


 佐野さんは笑顔で頷くと俺に向かって両腕を伸ばしてきた。まさかまた抱っこをしろということなのか。


「もう歩けますよね!?」


「あ……あはは……」


 俺の指摘に佐野さんは笑ってごまかしながら、俺の腕に抱き着いてきたのだった。


 ◆


 スポーツドリンクを買い込んで家に戻ってくると、佐野さんは早速うちのソファに横たわった。自分の部屋で寝ていればいいのにと思うけれど、佐野さんの部屋のエアコンは壊れっぱなしなのだろう。


「エアコン、まだ壊れてるんですか?」


「はい。修理は年明けらしいです」


「なるほど……どうせならベッド使ってくださいよ。ソファよりは寝心地は良いはずですから」


「すみません……お言葉に甘えてそうします……」


 そう言って佐野さんは懲りずに両手を伸ばす。


「抱っこですか……」


「はい!」


 家なら誰かに見られる訳でもないし、少しくらい甘やかしてもいいだろう。


 佐野さんをお姫様抱っこでソファから持ち上げる。


「ふふっ、これなら毎日胃腸炎でもいいかもしれません」


「痛みの波が最高潮に来ている時にもそれが言えたら信じますよ」


「うぅ……無理です……」


 心底無理そうな顔をするのでやはりピークの時は結構辛いらしい。


 労わりながら寝室に連れて行き、ベッドに横たえる。


 佐野さんは自分がベッドに寝かされたのに、俺の首に回した腕を離そうとしない。


 そのまま至近距離で佐野さんと見つめ合う。佐野さんは余裕綽々と言った様子で目を細めて笑いかけてくるのだけど、昨日の事を思い出してしまってどうしても平静を保てない。


「あ……な、何か飲みますか?」


「おしゃけ――」


「絶対にダメですよ」


「ふふっ、冗談です」


 至近距離でペロリと自分の唇を舐めている姿は妖艶で、このまま奪ってしまっても実際は二回目だし、許されるんじゃないかと思えてきた。何なら初回は佐野さんからだった訳だし。


 本能がぐっと全面に出てくるところを理性で押さえつけて佐野さんの腕を振りほどく。


 離れていくにつれて佐野さんは不満そうに頬を膨らませていくのだけれど、佐野さんの正解は果たして二人にとって正解だったのか、なんとも分かりかねるところだ。


「佐藤さん、向こうでゆっくりします?」


「あー……ここにいようかなと」


「じゃあ、手を繋いでくれますか? 利き手じゃなくていいですよ。スマホいじれなくなっちゃいますから」


「あぁ……いいですよ」


 佐野さんと向かい合うように床に座り、左側にあるベッドに手を置く。佐野さんはすぐにその手を握ってきた。


 音楽をかける事もなく、佐野さんもたまに「いたた」と痛みの波に耐えているだけでほぼ無音の空間。


 これはこれで気まずいので何か小粋なトークを探してみたが、毎日のように顔を合わせて酒を飲みながら話しているのでこれといった話題が無くなっていた事に気付く。


 いや、一つあった。落語だ。


 佐野さん、というかベニーモ・タルトはたまに『紅芋亭タルト』を名乗り、チャンネルの有料登録者限定で落語の配信をしている。つまり、佐野さんも落語は好きなはず。


 俺は全く興味は無いのだけど、タルトちゃんの配信アーカイブを何度も聞いているので少しだけ覚えている。


「あ……佐野さん、落語とか……どうですか?」


「えっ!? 良いんですか!?」


「はい。『湯屋番』ってやつで……吞兵衛で女好きの若旦那がいましてね――」


 しどろもどろになりながらも話をしてみる。


 佐野さんは頭の中にあらすじが入っているようで、俺が詰まると質問形式で話を誘導してくれた。


「――えぇ。最後の人は裸で帰りますから」


 佐野さんに誘導されていたが、何とか最後まで完走。


 佐野さんは寝転んだままパチパチと拍手をしてくれている。


「佐藤さんといたら退屈しないですね。でも……無理してませんか?」


「まぁ……結構頑張りましたね」


「ふふっ。そういうところ、好きですよ」


 佐野さんは笑顔でそう言う。


「あー……それは……」


「解釈は色々ですから。お任せしますよ」


「はぁ……」


 グイグイと来られるのでドギマギしてしまう。でも恋愛をしないほうがいいと自分でも言っていたのだし、俺をからかって遊んでいるんだろう。うん、そうに違いない。


「そういえば……佐藤さん」


「なんですか?」


「さっきの湯屋番、途中でお芋を蒸す下りがありましたよね? あれってどこで習ったんですか? それ、私の……友達がやってるアレンジなんです」


 しまった。タルトちゃんの配信を参考にしていたのだけど、どうやら佐野さんがアレンジを加えていた部分があったらしい。それをそっくり俺がやっているのだから、俺がベニーモタルトのリスナーだとバレる可能性がある。


「え!? あー……お、俺も友達が言ってて……」


「友達……」


 佐野さんの目は「お前に友達なんていたのか」と言いたげだ。


「柏原さんですよ」


「あぁ……なるほどですね……ふふっ」


 佐野さんの笑顔は誤魔化せたのかどうか判別がつかずに不安になる。


「何がなるほどなんですか?」


「いっ、いえ! 佐藤さん、そうなんですかぁ……なるほどなるほどぉ……」


「だから何がわかったんですか! 教えてくださいよ」


「ふふっ、教えませーん。あたたた……」


 ドヤ顔で笑っていた佐野さんに天罰が下ったようだ。


 さすがに俺がタルトちゃんのガチ恋勢だとはバレていないと思いたいけれど、大丈夫なんだろうか。


 のらりくらりとした佐野さんの態度からは何もわからないのだった。

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